最低限の力
赤鹿亭の食堂へ下りると、いつもの朝より椅子を引く音が大きく聞こえた。ユアンは窓際の席に鞄を置き、留め具に指をかけた。昨夜確認した書類も、磨いた剣も、予備の包帯も入っている。それでももう1度確かめたくなった。
「何回開ける気だ?」
先に座っていたノアが、赤茶色の髪をかきながら笑った。
「忘れ物があると困る」
「なら昨日作った一覧を見ろよ。鞄をひっくり返すたびに物がずれるぞ」
正論だった。ユアンは留め具から手を離し、向かいに腰を下ろした。女将が温かい豆の煮込みと卵を運んでくる。足元ではルゥが銀灰色の耳を立て、皿の中身を見上げていた。
「俺の肉は?」
「朝からあるだけありがたいと思え」
「試験に行くのは俺も同じだ」
「お前は随伴精霊だ。本人の戦闘技能を測る間は見学だって説明されたろ」
「では俺の戦闘技能が優れていることは誰が測る?」
「自分で言ってるから十分だ」
ノアが笑いながら、ルゥへ焼いた肉を1切れ分けた。狼は抗議をやめ、満足そうに噛み始める。
「まず最低限の技能を見るだけなんだろ?」
ノアが聞いた。
「ああ。担当官の説明だと、野外へ出しても自分と周囲を危険にしないか確かめるらしい」
「お前なら基準は越えるだろうけど、気を抜くなよ」
「俺より強いD級だっている」
「いるさ。でも他人に勝つことだけが合格条件じゃないだろ」
それは分かっている。だが、7年間D級だった自分の腕を改めて測られると思うと落ち着かない。ノアはC級で、シキナやフィアはA級、ガルドもB級だ。近くにいる人間が強いせいで、自分の実力がどの程度なのか見失いかけることがある。
「お前、昨日から肩に力入りすぎ」
ノアが指摘した。
「入れてないつもりだけど」
「なら今、箸が折れそうになってるのは何でだ」
ユアンは指先を見た。木の匙を無駄に握り込んでいた。力を抜くと、ノアがまた笑った。
食事を終えたユアンは、ルゥを連れて組合の試験施設へ向かった。朝の街道では荷車が軋み、屋台の男が香草入りのパンを窯から出している。昨日までと変わらない景色なのに、足音だけが妙に速くなった。新しい戦闘靴の踵が石畳をしっかり捉え、右脚には痛みがなかった。
施設にはすでにロイド、ミレイ、バシュが来ていた。背の高いロイドは金茶色の短髪を揺らしながら長槍を回し、淡い金髪を束ねたエルフのミレイは掲示を読んでいる。幅の広い肩に盾を背負ったドワーフのバシュは、装備の締め具合を確認していた。
「おはよう。眠れたか?」
ロイドが聞いてくる。
「少し早く起きた」
「俺もだ。槍を忘れる夢を見た」
「背負ってるだろ」
「夢の中ではなかったんだよ」
あまりに真面目な顔で言うので、ユアンは吹き出した。隣でミレイも笑い、バシュだけは「予備の武器を持てばいい」と真剣に助言した。
朝の鐘が鳴ると、B級の試験監督サイルが現れた。灰の混じった髪を短く刈り、左頬に細い傷を持つ男は、受験者の顔を順に確かめた。
「これから戦闘技能を確認する。ここで求めるのは華麗な技でも討伐数でもない。武器を安全に扱い、力量を見誤らず、野外で自分の身を守れることだ。技と魔法を使う者は申告した範囲を守れ」
試験は広い屋外訓練場で行われた。刃を落とした訓練武器、防護具、停止用の合図が用意され、治癒師も隅で待機している。ルゥは観覧区画へ案内された。不満げに尾を振るが、勝手に出ないよう言うと渋々伏せた。
最初は足運びと防御だった。移動する木製の標的へ近づき、姿勢を崩さず打ち込む。続けて横から伸びる棒を避け、回避できない場合は安全に受ける。ユアンは剣を構え、呼吸を整えた。
棒が迫る。左へ足を運び、肩を引いてかわした。2本目は避けきれず、前腕甲の曲面へ斜めに当てて外す。衝撃は肘まで届いたが、正面から受け止めるより軽い。新しい甲殻を過信すれば骨まで痛めると、ゴードンに何度も注意されたことを思い出す。
「もう1度」
担当官に促され、ユアンは同じ動作を繰り返した。速く打とうとするほど右の踵へ体重が残りやすい。そこで足を置く角度を少し変えると、次の動作へ移りやすくなった。ガルドの訓練で覚えたことが、ようやく身体へ馴染み始めている。
別の区画では、ロイドの槍先が木標的を次々と捉えていた。突いて、引いて、横へ払う。ひとつずつは地味な動作なのに、つながると隙がない。ミレイは弓を使い、動く標的の進路へ先に矢を置いていた。バシュは盾で押し込むのではなく、相手の進む線を塞ぐ角度を丁寧に作っている。
ユアンは彼らを眺め、これがそれぞれの仕事で生き延びてきた技術なのだと思った。自分の剣にも積み重ねたものはある。ただ、皆と同じ強さを持っているわけではない。
次に基礎魔法の確認が行われた。ユアンは明かりを作り、風を弱く遮り、傷を塞ぐための初歩的な魔力操作を実演した。深い傷を治すことまでは求められない。むしろ担当官は、できない治療をできると言わないこと、魔力が足りなくなれば中止できることを確認していた。
「短距離加速も申告されていますね」
担当官が記録へ目を落とした。
「はい。ただし長く続けては使えません」
「規定の強度で1回。終了後は身体の状態も確認します」
ユアンは《瞬駆》を有効にした。ほかに使える状態にしているのは《振動感知》と《硬化》だった。3つまでしか扱えないことを知っているのはごく少数だが、今の課題では切り替える必要もない。
合図に合わせて短く走り、目印の手前で減速する。戦闘靴が足首の横ぶれを抑えた。しかし、止まる位置ばかり意識してしまい、身体が少し前へ流れる。ユアンは膝を曲げ、腰で勢いを逃がした。痛みはない。
「今の制動には余裕がありませんね」
「はい。続けると膝へ負担が来ます」
「よろしい。限界を把握しているなら、無理に繰り返す必要はありません」
記録に何が付けられたかは見えなかったが、少なくとも無茶を褒める試験ではないらしい。
午後、ユアンは安全確認の短い課題を受けた。傷んだ武具をそのまま使わないこと、負傷を申告すること、魔法の反動が出た時に行動を止められること。簡単に見えるが、実戦ではどれも疎かになりがちなことだった。
最後に担当官が尋ねた。
「目の前の魔獣へ自分では勝てないと判断したら、どうしますか」
ユアンは少し考えた。灰鐘坑道で見た、到底届かない巨大な影が浮かぶ。勝ちたいという気持ちはある。それでも、今ここで答えを飾るつもりはなかった。
「まず逃げ道を確保します。仲間がいるなら危険を伝えます。戦う必要がなければ戦いません」
「では依頼主が討伐を命じたら?」
「契約内容と危険度を確認します。引き受けた仕事でも、達成不能なら撤退して報告します」
担当官は頷いた。
施設を出る頃には日が傾き、肩に疲れが溜まっていた。全力で戦ったわけではないのに、普段使わない集中の仕方をしたせいだろう。ユアンは鞄を背負い直す。
「思ったより疲れたな」
「腹が減ったからだ」
ルゥが言う。
「お前は昼も食べただろ」
「試験を見るのも仕事だ」
夕方の街道を歩きながら、ユアンは今日見られたのが強さの頂点ではなく、失敗した時に止まれるかどうかなのだと感じた。強くなることは大切だ。けれど、弱いところを知らないまま強いふりをする方が、よほど危険なのかもしれなかった。




