六環教会
パナリアの大通りには、普段なら香辛料と焼きパンの匂いが混じっている。その朝は違った。教会の鐘が街の北側からゆっくり響き、店先の人々は声を抑えていた。魔獣流出で命を落とした傭兵や村人の合同慰霊式が行われる日だった。ユアンは襟元を整え、赤鹿亭からノアと連れ立って歩いた。ルゥも静かについてくる。
「お前、今日は肉の話をしないな」
「空気くらい読む」
「意外だ」
「失礼なやつだ」
ノアが小さく笑ったが、すぐに口を閉じた。広場へ近づくほど、腕へ喪章を巻いた人が増える。負傷した片腕を吊るした傭兵もいた。ユアンは自然に歩幅を落とす。つい数日前、街道から全員を返したつもりでいた。それでも別の道では帰れなかった人がいる。自分たちの成功が、周囲の不幸を消すわけではない。
六環教会のパナリア礼拝堂は、大きすぎない石造りの建物だった。正面の壁に彫られているのは、中心を共有する6つの環だ。鐘楼の下では修道服を着た人々が炊き出しの鍋を運び、負傷者へ温かい飲み物を渡していた。参列者と支援を受ける人の列は、入口で自然に分かれている。
「式だけじゃないんだな」
ユアンが言うと、ノアが頷いた。
「流出の時からずっとだ。俺が応急治癒した人も、ここで継続して診てもらってる」
「組合の治療院とは別?」
「別。教会の治癒師に診てもらう人もいるし、街の医師へ繋ぐこともある。信者じゃなくても断られない」
六環教会は王国だけの組織ではない。商隊の話では、隣国にも同じ環の印を掲げる施設があるらしい。宗教の細かな教義に興味があるわけではなかったが、ユアンは昔から葬儀や婚姻の立会い、孤児院、貧民向けの食料配布でその名を聞いてきた。傭兵が死亡した時、遺品を家族へ送る手続きでも教会の人間が手を貸すことがある。
「俺は祈り方、ちゃんと知らないぞ」
「俺も全部は知らん。静かにしてれば大丈夫だろ」
「お前、昔は教会の手伝いしてなかった?」
「荷運びだけな。寄付の干し肉を運ぶ仕事」
「それで教義を覚えなかったのか」
「肉を落とさない方が大事だった」
ルゥが頷いた。
「良い判断だ」
「今日くらい黙ってろ」
ユアンは笑いかけて、礼拝堂の中へ入る前に口を閉じた。石の床へ並べられた灯火は数十あった。札には亡くなった者の名前が刻まれている。灰鐘坑道でケルンを失った時にも、別の小さな礼拝があった。あの頃は祈る言葉など思いつかず、ただ自分が立っていることに申し訳なさを覚えた。今もその感覚を忘れたわけではない。ただ、死者へ何も言えなかった自分と、遺族が生きて暮らすためにできることは違うのだと少し分かってきた。
祭壇の横には6つの環を描いた布が掛けられていた。ひとりの年配の修道女が子供たちへ低い声で話している。
「最初の環は生まれた命を、次は人との縁を示します。誓いの環は交わした約束を、慈しみの環は助け合いを、死の環は別れを、最後の環は受け継がれるものを表すのですよ」
小さな男の子が尋ねた。
「死んだ人は最後の環に行くの?」
修道女は少し考えてから答えた。
「そう教える土地もあります。でも、ここでは、残された人が何を受け取って生きるかも大切だと考えます」
地域ごとに少し解釈が違うと聞いたことがある。6つの環は神の数ではなく、命の営みを説明する象徴なのだろう。ユアンは教義を理解したつもりにはならなかった。ただ、子供の質問を簡単に片づけなかった修道女の返事は覚えておきたいと思った。
式の前、案内係から紙片を受け取った。亡くなった人へ一言を書くためのものだという。ユアンはしばらく白い紙を見つめた。ケルンへなら、何を書けばいい。今回亡くなった人たちの中にも、自分が顔を知らない者がいる。言葉は出てこない。隣でノアが紙へ短く何かを書いた。
「何を書いた?」
「内緒」
「お前にも内緒があるのか」
「あるに決まってるだろ」
ノアは紙を畳んだ。ユアンは自分の紙へ『帰ってきた者が、できることを続けます』と書いた。誰への約束なのかははっきりしない。けれど空白のまま返すよりはよかった。
やがて式が始まった。6つの環をかたどった燭台へ順に火が灯され、司祭が名前を読み上げる。涙を流す人もいれば、ただ前を向いたまま動かない人もいる。ルゥはユアンの足元で伏せていた。ユアンは煙と蝋の匂いを吸いながら、亡くなった人々が自分たちと同じ朝食を食べ、靴紐を結び、家を出たのだと思った。誰も、その日のうちに最後の鐘が鳴るとは思っていなかっただろう。
式が終わると、参列者は少しずつ外へ出た。広場では治癒師が支援物資の列を整理している。教会の者が商人と食料の受け渡しを確認する横で、組合職員は負傷傭兵の名前を帳簿に写していた。列の端では、母親らしい女性が教会職員へ何度も頭を下げていた。腕に抱いた幼い子供は熱があるらしく、額に濡れた布を載せている。職員は「礼は治ってからでいい」と言い、治癒師のいる部屋へ案内した。別の場所では、組合に所属しない荷運び人が食料を受け取っていた。信仰を尋ねる声も、寄付を求める声も聞こえない。
ノアが歩きながら言った。
「六環教会の誓いの環は、契約の証人にもなるらしいな。組合と違うのか?」
「組合は仕事の条件を決める。教会がするのは、交わした約束や遺言を公に残す方だろ」
ユアンは以前、死んだ傭兵の荷物を遺族へ渡した時、教会の立会人が署名していたことを思い出した。契約そのものの権利を教会が決めるわけではないが、残された人同士で争いが起きないよう手続きを助ける。王国や国境を越えて同じ印が通じることには、確かに意味がある。
「好きじゃない教えもあるけどな」
ユアンは呟いた。人が死んだ後の意味など、誰かに簡単に決められたくない。
「全部信じなくても手は借りられるさ」
ノアが答えた。
六環教会は葬儀をして祈るだけでなく、こうして翌日の暮らしに直接触れている。助けられた人の信仰が何であれ、温かいスープの価値は変わらない。
「ユアン・クロウさんですね」
声をかけられ、ユアンは振り返った。黒と白を基調にした長衣の男が立っていた。身長は185センチほどで、黒に近い深茶色の髪を後ろへ整え、暗い琥珀色の目をしている。年齢は40代前半に見え、胸元には銀色の小さな6環の聖印が下がっていた。姿勢がよく、整った顔立ちは威圧的というより落ち着いている。
「巡回調停司祭のエリアス・ヴァーンと申します。今日の支援名簿をまとめています」
「俺の名前を?」
「西街道の防衛と、孤立していた傭兵4名の救助に参加された方だと伺いました。救助されたうちのおひとりが、ここの治癒師の世話になっています」
ユアンは頭を下げた。
「それならノアの方が詳しいです。治療したのはこいつなので」
ノアが軽く会釈する。エリアスはノアへも礼を述べた。
「怪我の状態まで把握した救出だったと聞きました。ありがとうございました」
「礼は救助班全員に言ってやってください」
ノアが言う。
「もちろんです」
エリアスは穏やかに応じ、それからユアンを見た。
「足の動かない人を連れて戻るのは、難しい判断だったでしょう。戻らないという選択は、考えませんでしたか」
その問い方は責める調子ではなかった。ユアンは崩れた街道を思い出す。危険がないと決めつけていたわけではない。下へ行けるか、戻せるか、ノアの障壁がどれだけ保つかを確かめた。できなければ別の案を探しただろう。
「考える時間はありました。でも、置いていく理由は見つからなかったです」
「なるほど」
エリアスは少しだけ頷いた。
「助けられると確かめたから、戻ったのですね」
「俺だけで決めたわけじゃないです。隊長はノアだったし、ニルスも道を見てくれた」
「では、良い仲間に恵まれたのですね」
「そう思います」
エリアスはそれ以上質問せず、支援物資の搬入を手伝うために離れていった。ノアが横で呟く。
「感じのいい人だったな」
「ああ」
ユアンも同じ感想だった。特別な何かを見抜かれたとは思わない。救助に関わった者へ礼を言って回る司祭。それだけのことだ。
帰り道、六環教会の救護所で人手が足りないと聞き、ユアンとノアは少し荷物を運ぶのを手伝った。重い麦袋を2人で担ぎ、ルゥは足元をうろうろする。
「俺にも仕事はないのか」
「袋を破かずに運べるなら」
「無理だな」
「即答かよ」
手伝いが終わる頃には、昼の鐘が鳴っていた。ノアは汗を拭いながら言った。
「教会って、祈るより働く方が多そうだな」
「見てる分にはな」
「お前、何か変わった?」
「何が」
「ケルンの時より、少し落ち着いてた」
ユアンはすぐ答えられなかった。変わったと断言できるほど、忘れたわけではない。ただ、何もしないで罪悪感を抱えることと、誰かを連れ帰るために動くことは同じではない。
「まだ分からない。でも、何かした方がいいと思った」
ノアはそれ以上聞かなかった。ユアンは大通りの先を見た。朝には閉まっていた屋台が店を開け、焼きパンの匂いが戻り始めている。亡くなった人の名を忘れず、それでも街は昼飯の支度をする。そうやって続いていく暮らしを、守る仕事なのだと思った。




