取り分
赤鹿亭の朝食は、試験の話をするには少し騒がしすぎた。ユアンが焼き卵へ手を伸ばすと、向かいの床から銀灰色の鼻先が卓の縁に現れた。ルゥは皿を見つめ、真面目な声で言った。
「C級になると肉の量は増えるのか?」
「俺の朝飯に何の関係がある」
「報酬が増えるのだろう。ならば肉も増やせる」
「まだ試験も受けてない」
「準備は大事だ」
その準備に自分の食費が含まれているのが納得できなかった。ユアンが卵を口へ運ぶと、横からノアが笑った。
「試験まで14日だぞ。狼の食費より自分の心配しろよ」
「してる」
「どんな?」
「まだ脚が痛い」
「それは心配じゃなくて報告だろ」
ノアはパンをちぎる手を止め、卓の下へ視線を向けた。黒晶レッサーキマイラ戦から数日が経ち、右脚の痺れはほぼ消えた。それでも長く歩くと膝の奥が重くなる。前腕にも時折、指先まで鈍い感覚が走った。《電流》を内側へ流した代償だ。フィアに叱られたばかりなのに、完全に治る前に訓練を再開しようとしていることまでは知られたくなかった。
「治ってから動けよ」
「分かってる」
「その顔は分かってない」
「お前もフィアと同じこと言うな」
「言わなきゃお前が同じことするからだ」
ルゥが女将から肉の切れ端を受け取り、誇らしげに尾を振った。自分の方が世渡りに向いていると言いたげだった。
朝食を終えると、ユアンたちは傭兵組合へ向かった。魔獣流出の対応で出した緊急依頼の清算が、ようやく始まっていた。受付奥の会計室には大きな帳簿と荷札の束が積まれ、マルク、エナ、ニルスも先に来ている。エナは椅子で足を揺らしながら手を振り、マルクは大盾の傷を布でなぞり、ニルスは窓の外を見ていた。
「皆、もう来てたのか」
「ユアンさんたちが遅いんです」
「開始時刻の前だぞ」
「私はもっと前に来ました」
「暇だったのか?」
「楽しみだったんです。C級の素材代ですよ」
エナは隠す気もなく笑った。ノアが肩をすくめる。
「正直でよろしい」
会計担当の職員が5人の前へ帳簿を広げた。鎧牙イノシシの報酬欄には、討伐依頼の固定報酬とは別に、素材処分益の配分が記されている。前日の回収で甲殻、牙、腱、食用部位が選別され、街道修復のため組合が買い取る分と、市場へ出す分とに分けられていた。
「緊急防衛契約での共同討伐ですから、素材も班の共同取り分です。討伐証票の記録と支援行動を照合し、契約の規定割合で分けています」
職員が説明した。最後の致命傷を入れたのはユアンだったが、ノアの障壁がなければ剣を差し込めなかったし、マルクたちが避難列を守らなければ戦闘へ集中することもできなかった。自分だけの獲物ではないことは、最初から分かっている。
「現金の代わりに、素材を受け取れる?」
ユアンが聞くと、職員は帳簿の端をめくった。
「換価前の取り分なら可能です。ただし現物評価額が配分額を超える場合、差額はお支払いいただきます」
「後脚の腱と、薄い肩の甲殻が欲しい。丸ごとじゃなくていい」
「装備用ですか」
「そう」
マルクが顔を上げた。
「甲殻なら盾の外縁に向く。曲面の内側は割れやすいから気をつけろ」
「腕に使うつもりだ」
「なら厚いところを避けた方がいい」
ニルスが短く言う。
「腱は乾燥の具合を見るといい」
「詳しいな」
「斥候の靴は壊れやすい」
職員が残余素材の札を確認し、希望の部位を押さえてくれた。評価額は取り分より少し高く、差額はユアンが自分の財布から出すことになった。エナが帳簿を覗く。
「お金を減らしてまで靴を作るんです?」
「脚を壊すより安い」
「それはそうですけど、夢がないなあ」
「試験前に怪我したらもっと夢がなくなる」
ノアが言うと、エナも納得したように頷いた。
次に職員が別の封書を机へ置いた。封には王国迷宮管理局の紋章が押されている。
「黒晶レッサーキマイラの件です。調査用標本の確保が終了し、余剰素材の配分通知が届きました」
ユアンは手を止めた。あの黒い巨体を倒したのはダリオだ。自分が触れたのは亀裂の入った前脚の内側で、死体を核へ変える権利も理由もなかった。
「俺にも配分があるのか」
「討伐への戦闘貢献と避難路防衛が認められています。ただし主討伐者のダリオさんと同じ扱いではありません」
当然だと思った。最初に管理局が毒腺や魔力器官、代表となる黒晶を押さえ、残りについて契約上の権利者と防衛班の取り分が確定したという。ユアンには小さな黒晶片を現物で受け取る選択肢が提示された。
「現金にもできますが」
「結晶でお願いしたい」
ノアが覗き込む。
「また装備か?」
「使えるかは調べないと分からないけどな」
「使えなかったら?」
「机の重しにする」
「妙に高そうな重しだな」
エナが笑った。マルクとニルスはそれぞれの帳簿を確認し、受領欄へ署名する。ユアンも自分の名前を書いた。全員の清算が終わってから、奥の鑑定室へ案内された。
そこにいた男は、背筋をまっすぐに伸ばして帳面を閉じた。見た目は30代後半ほどで、身長は180センチくらい。短く整えた灰金色の髪に灰緑色の目を持ち、細身の身体へ濃紺の上着をきちんと着ている。爪先まで磨かれた靴も、袖口の折り目も乱れていなかった。清潔な鑑定机の上には、黒晶片と鎧牙イノシシの素材が札ごとに並べられている。
「セドリック・ヴェイルです。お預かりする部位に間違いがないか、ご確認ください」
男は控えめに頭を下げた。声は静かで、聞き取りやすい。
「ユアン・クロウです」
「存じています。討伐報告の記録を拝見しました」
セドリックは薄い甲殻を持ち上げ、光の下で傾けた。
「この部分を選ぶ理由は?」
「腕用の防具にする。厚い部分は曲げにくいから、薄いところを重ねたい」
「なるほど。加工で内側に微細な割れが残ることがあります。職人には断面も見てもらってください」
注意は具体的で、余計な言葉がなかった。ユアンは職人に渡す前の検品が楽になると思った。
セドリックが黒晶片へ手を伸ばす。
「こちらは、前脚の破損部付近から回収された欠片です。代表標本ではありませんので、管理局の封印対象から外されています」
「前脚か」
ユアンが断面を見ると、黒い結晶の縁へ斜めのひびが走っていた。戦闘中、何度もダリオが剣を叩き込んだあたりの形に似ている。
「表面から割れたんじゃない。甲殻の下側へ力が入ってる」
セドリックが目を上げた。
「どうしてそう思われますか」
「このひびは外へ広がってるけど、起点は内側に近い。ダリオが前脚の同じ箇所を何度も叩いた。それに俺が剣を差し込んだ時、皮膚と甲殻の間が浮いてた」
自分でも少し喋りすぎたと思った。だが死体や素材の話になると、つい手が動く。セドリックはひびの向きを見直した。
「よく見ていますね」
「解体屋だから」
「そうでしたか。よい職人には、よい材料の見方が必要ですね」
セドリックはあっさり頷き、受領用の木箱を渡した。それ以上は聞いてこなかった。ノアたちと別れ、ユアンは箱を鞄へ入れた。階段を下りると、組合の掲示板の前にダリオが立っていた。長剣の鞘は新しく巻き直されているが、肩当てにはまだ結晶片の当たった跡が残っていた。
「配分は済んだか」
「済んだ。黒晶も少しもらった」
ダリオはユアンの鞄へ目を向けた。
「思ったより小さいだろ」
「俺が倒した獲物じゃないからな」
「それはそうだ」
返事には嫌味がなかった。ダリオは掲示板の緊急依頼記録へ視線を戻す。
「お前らが街道を守らなければ、俺もあの獣へ集中できなかった。そこは記録へ書いておいた」
ユアンは少し驚いた。ダリオは自分がやったことを誇張しないが、他人の功績も拾ってくれるらしい。
「ありがとう」
「礼なら、その結晶を無駄にするな」
「役に立つか分からないぞ」
「分からないなら確かめろ。解体屋だろ」
ダリオが歩き去るのを見送り、ユアンはしばらく立っていた。自分よりずっと強い人間に、無理に追いつく必要はないのかもしれない。同じ場所で同じことをするのではなく、自分が担えるところを増やせばいい。だが、そう納得する気持ちの隅に、いつかあの剣へ近づきたいという願いも残っていた。その願いまで捨てる必要はないはずだった。
掲示板の片隅にはC級昇格試験の案内が貼られていた。受験資格を得ただけでは受かるとは限らない。武器技能、危険判断、救助、指揮と、審査項目は細かい。ユアンは前に見た時より長く案内を読み、戦闘技能の欄で指を止めた。苦手な項目がある。ノアは自分のことをよく知っているが、明日出会う相手が同じように分かってくれるとは限らない。試験の前に何を整えればいいのか、少しずつ輪郭が見えてきた。重さは大したことがない。それなのに荷物の存在が妙に気になった。鎧牙イノシシの素材は、得られたかもしれない未知の能力を諦めて残したものだ。黒晶は、自分で倒していない獣から、決められた分だけ受け取ったものだ。
指輪なら能力を増やせる。けれど、それが最善とは限らない。考えてみれば、7年も解体を仕事にしてきたくせに、少し前から魔獣を見るたび核の可能性ばかり考えていた。素材から人が作れるものの価値を忘れたくなかった。
「何を考えている?」
足元からルゥが聞く。
「靴と腕だよ」
「肉ではないのか」
「お前の頭の中には肉しかないのか」
「違う。戦いもある」
「安心したよ」
「肉のためには戦う必要があるからな」
ユアンは笑った。試験まで14日。まだ何ができるようになるかは分からないが、少なくとも今の身体を壊さずに済む道具は用意したかった。黒鉄工房へ向かう道で、鞄の木箱が小さく鳴った。




