資格
魔獣の流出が一旦落ち着いたのは、黒晶レッサーキマイラを倒してから3日後だった。原因が解決したわけではない。地下水路と旧坑道には監視班が置かれ、黒鉄地下城の立入制限も続いている。それでもパナリア周辺で新しい大規模流出は確認されず、街道の避難民も少しずつ村へ戻り始めていた。ユアンにとっては、赤鹿亭で朝食を食べられるだけで十分に平和だった。ただし身体は平和ではない。椅子へ座るだけで右脚が重く、剣を握ると前腕に鈍い痺れが残る。向かいに座ったノアがパンをちぎりながら聞いた。
「腕、まだ痺れる?」
「ほとんどない」
「ほとんど?」
「少し」
「フィアに言った?」
ユアンは水を飲んだ。ノアがじっと見る。
「言ってないな」
「言う必要ある?」
「自分に電気流して、脚まで痛めたんだろ」
「死んでない」
「基準がおかしい」
入口の扉が開いた。
「何が?」
聞き覚えのある声に、ユアンは嫌な予感がした。明るい栗色の短髪を揺らし、フィアが食堂へ入ってくる。琥珀色の目がノアへ向き、それからユアンへ移った。ノアは迷わなかった。
「自分に電気流した」
「ノア」
「俺は悪くない」
フィアが無言でユアンの前へ立つ。
「どこに?」
「少しだけ腕と脚」
「少し?」
「本当に少し」
「その結果は?」
「避けられた」
「結果じゃなくて副作用」
「脚が痛くなった」
フィアは目を閉じた。ユアンは逃げた方がいいか少し考えたが、今逃げると余計に怒られる気がする。
「前に言ったよね」
「短く、弱く、場所を限定する」
「覚えてるじゃない」
「守った」
「胸に流してない?」
「流してない」
「連続使用は?」
「してない」
フィアは少しだけ怒りを収めた。
「なら最低限は守ってる。でも、痛みが残るなら次はやめる」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「そこ!」
ノアが笑った。ルゥは床で肉を食べながら言う。
「また怒られている」
「誰のせいでもないだろ」
「弱いからだ」
「お前も黙れ」
そこへシキナが入ってきた。黒い軽装ではなく、今日は薄い灰色の上着を羽織っている。仕事の帰りらしく、《暮断》だけは腰にあった。
「フィアの声、外まで聞こえた」
「ユアンが無理に体を使ったの」
シキナの目がユアンへ向く。
「脚は?」
「歩ける」
「それは質問の答えじゃない」
「少し痛い」
「あとで診療所」
「もう診てもらった」
「ならいい」
話が早い。さらに扉が開き、今度はガルドが入ってきた。
「全員いるな」
「何で集まってるんだよ」
ユアンが聞く。
「俺は飯」
ガルドは簡単に答え、空いている椅子へ座った。女将が呆れながら皿を増やす。気づけば同じ卓にノア、フィア、シキナ、ガルドが並び、床にはルゥがいる。少し離れた卓にはマルク、エナ、ニルスもいた。エナがこちらへ手を振る。
「ユアンさん、脚大丈夫ですか?」
「何でみんな知ってるんだ」
ニルスが淡々と答える。
「防衛所で歩き方がおかしかった」
マルクも頷く。
「隠せてなかった」
「そんなに?」
ノアが笑う。
「お前、考えてることも怪我も顔と歩き方に出るから」
ユアンは少し傷ついた。ガルドがパンを食べながら言う。
「B級相手に前へ出すぎなかったのは成長だ」
「褒め方が微妙」
「褒めてる」
「前へは出たけど」
「必要な時だけだ。黒鉄オオザルの時みたいに、自分で倒そうとはしてなかった」
ユアンは少し黙った。確かにそうだ。黒晶レッサーキマイラを見た時、自分が倒す方法を最初から考えなかった。ダリオが戦い、ノアが人を守り、マルクたちが避難を進める。その中で、自分にできる1秒を作った。それを成長と言われると、少し照れくさい。
フィアが言う。
「あとは自分を壊さなければね」
「そこに戻るのか」
「戻る」
エナが別卓から声を飛ばす。
「今度C級になったら奢ってくださいね!」
ユアンは眉を寄せた。
「何の話?」
ニルスがエナを見る。
「まだ何も決まってない」
マルクも言う。
「まず試験だろ」
「試験?」
ユアンが聞き返すと、3人とも一瞬黙った。エナが口を押さえる。
「私、何も言ってません」
「言っただろ」
その時、赤鹿亭の入口から組合職員が顔を出した。
「ユアン・クロウさん。支部長がお呼びです」
卓の空気が微妙に変わる。ノアが笑いを堪えている。ユアンは全員を見る。
「何か知ってる?」
シキナは視線を逸らした。ガルドは普通に食べている。フィアは笑っている。ルゥだけが肉を見ている。
「嫌な感じしかしないんだけど」
組合へ向かう間、ユアンは理由をいくつか考えた。黒晶レッサーキマイラ戦で無茶をした件。防衛班の報告。イリスから追加の聞き取り。どれもあり得る。支部長室へ入ると、バルドが机の向こうで書類を読んでいた。
「来たか」
「呼ばれた」
「まず説教だ」
「やっぱり?」
バルドが紙を机へ置く。
「自分の身体に雷を流したそうだな」
「もう広まってる」
「フィアからじゃねえ。ノアの戦闘報告だ」
裏切られた気分になった。
「報告するだろ、普通」
そこにいないノアへ言われた気がする。バルドは太い指で机を叩いた。
「緊急時の判断として全部否定はしねえ。だが、自分を壊す戦い方を常用するな。使うたびに身体が削れる手札は、手札じゃなく借金だ」
ユアンは少し考える。
「分かった」
「今回は素直だな」
「何回も言われたから」
「なら最初から聞け」
反論できない。バルドはしばらく睨んだ後、別の書類を取り出した。
「次だ」
ユアンの前へ置く。上部に組合印がある。
「何これ」
「読め」
文字を追う。途中で止まる。《C級昇格試験・受験資格認定》と書かれていた。もう1度読む。文字は変わらない。
「……C級?」
「違う」
即答だった。
「試験を受けていいってだけだ」
「まだD級?」
「当たり前だ」
何となく損をした気分になる。
「じゃあ何でみんな知ってたんだよ」
「推薦審査の聞き取りしたからだ。ノア、シキナ、最近組んだ連中にも確認した」
ユアンは書類へ目を落とす。嬉しいのかどうか、すぐには分からない。7年近くD級だった。C級へ上がろうと思ったことがなかったわけではない。けれど、そのたびに実力も実績も足りず、いつしか自分はこの辺りなのだと思うようになっていた。灰鐘坑道から戻って、急に色々なものが変わった。指輪、スキル、ルゥ、シキナ、フィア、ガルド。それだけで資格が出たのなら、自分の力という感じがしない。
「黒晶レッサーキマイラの件?」
バルドが首を振る。
「それ1つじゃねえ」
書類を指で叩く。
「7年間のD級活動。解体士としての技術。灰鐘坑道からの生還後に積んだ依頼。翡翠樹洞と黒鉄地下城の調査。C級相手の戦闘記録。今回の街道防衛。孤立隊の救出。B級相手に力量を越えて正面へ突っ込まなかった判断。全部だ」
ユアンは黙る。
「強くなったからじゃねえ」
バルドが言った。
「C級ってのは、自分より弱い奴を連れて帰る側にもなる」
その言葉で、ノアの姿が浮かんだ。鎧牙イノシシが出た時、マルクたちを迷わず下げた。救助ではユアンの案を聞き、ニルスの情報を確認し、自分で実行を決めた。黒晶レッサーキマイラ戦でも、避難民と班員と自分の魔力を全部見ながら障壁を張っていた。いつも横にいたから気づきにくかった。ノアはすでに、自分より弱い者を連れて帰る側にいた。
「俺にできるかな」
口から出た。バルドはすぐ答えない。
「だから試験がある」
その答えが妙に納得できた。資格は、できるという証明ではない。できるか試していいという許可だ。
「受けるか?」
ユアンは書類を見る。迷いは長くなかった。
「受ける」
「なら日程は後で連絡する。それまではD級だ。浮かれるな」
「そこ何回言うんだよ」
「お前が勘違いしそうだからだ」
支部長室を出ると、廊下にノアたちがいた。
「待ってたの?」
ノアが真っ先に聞く。
「C級?」
ユアンは書類を見せる。
「受験資格」
「じゃあまだD級か」
「お前まで言う?」
フィアが笑う。
「落ちたらもっと笑える」
「応援する気ある?」
「あるから笑うの」
ガルドが腕を組む。
「試験では迷うな」
「内容も知らないのに?」
「何をやっても同じだ」
シキナが書類を見る。
「やっと入口だね」
「7年やって入口か」
「遅い?」
ユアンは少し考えた。以前なら、遅いと思ったかもしれない。もっと早く強くなれたら。もっと才能があったら。そう思うことは何度もあった。今は、7年やったから分かることもあると思える。
「いや。今でいい」
シキナが小さく笑った。赤鹿亭へ戻ると、マルクたちも待っていた。エナがすぐ手を出す。
「受かったら奢りです」
「まだ受験資格」
ニルスが横から言う。
「だからまだ奢らなくていい」
「受かったらですよ」
マルクがユアンの肩を軽く叩く。
「まず受けてこい」
床からルゥが見上げる。
「祝いの肉は?」
「まだ受かってない」
「入口でも祝いは必要だ」
女将が厨房から声を出す。
「今日は1皿くらい出してやるよ」
ルゥの耳が立つ。
「3皿」
「お前の祝いじゃない!」
食堂に笑いが広がった。ユアンは席へ座り、鞄へ書類をしまった。折れないように、いつもより丁寧に入れる。まだD級だ。B級には届かない。A級相手なら逃げるしかない。指輪が何なのかも、ルゥが何者なのかも、地下で何が起きているのかも分からない。分からないことは多い。それでも灰鐘坑道から逃げ帰った時とは違う。あの時は、自分が生き残ったことだけで精一杯だった。今は誰かが後ろにいる時、その人間まで帰す方法を考えるようになった。強くなったと言い切れるほど、自信はない。ただ、進んではいる。女将がルゥの前へ肉を置いた。
「1皿だけだよ」
「交渉の余地は?」
「ない」
「世知辛いな」
ユアンは笑った。明日になれば、また仕事がある。その先には試験もある。今日はまだ、いつもの飯を食べればいい。




