3つだけ
ユアンは黒晶レッサーキマイラの前脚を見続けた。ダリオの剣が何度も同じ場所へ入り、黒晶甲殻の一部が割れている。露出した内側は柔らかい。とはいえ、B級の身体だ。そこへ剣を入れたからといって、自分の力で倒せるとは思わない。必要なのは、ダリオが決められる1秒を作ることだった。
「ノア、10秒ほしい」
ノアはすぐに聞き返す。
「場所は?」
「右後ろ。尾が届きにくい岩陰」
「3枚使う」
「2枚でいい」
「今日は俺が決める。3枚」
ユアンは一瞬だけノアを見る。普段なら言い返したかもしれない。だが今は隊長の判断だ。
「分かった」
ノアが走る。1枚目の障壁をダリオと黒晶レッサーキマイラの間へ斜めに出し、視線をずらす。2枚目は尾側へ。3枚目はユアンが入る岩陰の手前に置き、飛んでくる結晶片を止める位置に重ねた。
「今!」
ユアンは岩陰へ飛び込む。指輪へ集中する。今すぐ使えるのは《瞬駆》《魔力視》《硬化》の3つだった。《魔力視》を休ませ、《電流》へ切り替える。戦闘中の切り替えは何度やっても落ち着かない。外の音が遠く感じる。黒晶が障壁へぶつかる硬い音、ノアの息遣い、ダリオの剣が甲殻を叩く音が聞こえる。焦れば失敗する。必要な時間は10秒だった。ノアが作った時間を無駄にできない。指輪の感覚が切り替わる。すぐ使える力が《瞬駆》《電流》《硬化》の3つへ切り替わった。
「終わった!」
ユアンが岩陰から出る。ちょうど2枚目の障壁が砕けた。ノアの顔が青い。
「9秒!」
「細かいな!」
「1秒は大事だろ!」
その通りだった。黒晶レッサーキマイラが身体を振り、3枚目の障壁へ結晶片を叩きつける。透明な面に亀裂が走る。ノアは次の障壁を出さない。出せないのではなく、残している。避難列を守るための魔力だ。ユアンはルゥを見る。
「先にお前が行け。速い方を使っていい」
ルゥの耳が立つ。
「どこへ?」
「尾を使わせろ。左から入って、振らせたら離れろ」
「簡単だ」
「当たるなよ」
「誰に言っている」
ルゥが走る。普通の速度で左へ回り、黒晶レッサーキマイラの死角へ近づく。獣が気づき、尾を持ち上げた。その瞬間、ルゥが《瞬駆》を使い、身体が一気に加速する。銀灰色の影が一気に側面を抜ける。黒晶レッサーキマイラの尾が追う。毒針が地面を抉る。ルゥはすでに反対側へ抜けていた。
「今!」
ユアンは走り出す。まだ《瞬駆》は使えない。ルゥが使用している間は同じ力を同時に出せない。だから普通に走る。ダリオが正面から長剣を振るい、黒晶レッサーキマイラの注意を引く。ユアンは右前脚へ近づく。甲殻の亀裂が見える。黒晶レッサーキマイラが前脚を振り上げた。ルゥの《瞬駆》が切れる感覚が戻る。ユアンは《瞬駆》を使った。一気に懐へ入る。剣先を亀裂へ差し込む。硬い。それでも甲殻の外側よりは通る。数センチ入ったところで止まる。
「浅い!」
ダリオが叫ぶ。
「分かってる!」
ユアンは剣を抜かず、《電流》を流す。青白い光が刀身を走る。黒晶の表面ではなく、割れた甲殻の内側へ直接流す。黒晶レッサーキマイラの前脚が一瞬だけ跳ねた。筋肉が痙攣した。効いた。ただし一瞬だ。B級相手に、これだけで倒せるほど甘くない。ダリオはその一瞬を見逃さなかった。長剣が同じ前脚へ入り、亀裂をさらに広げる。だが黒晶レッサーキマイラは倒れず、むしろ怒りで身体を大きく振った。
「今のをもう1回できるか!」
ダリオが叫ぶ。ユアンは即答しなかった。できるかどうかだけならできる。だが同じ場所へ入り直すには、尾と前脚をもう1度避ける必要がある。自分の脚も完全ではない。
「条件ができれば!」
無理にできると言わない。ダリオもそれ以上は求めず、正面へ戻った。ユアンはすぐ剣を抜き、後ろへ下がる。黒晶レッサーキマイラが怒り、尾を振り上げる。尾の先が少し高くなる。《魔力視》はもう使えない。それでも予兆は見える。さっきまで何度も観察した動きだ。右から来る。避けられる。そう思った瞬間、足が少し遅れた。前脚へ入った時の《瞬駆》で脚に負担が残っている。尾が迫る。間に合わない。ユアンは自分の右脚と前腕へ極めて弱い《電流》を流した。神経を焼くほどではない。動き始めを少しだけ早める。筋肉が強く縮む感覚と同時に《瞬駆》を使う。身体が横へ弾けた。毒針が肩のすぐ後ろを通過する。避けた。だが着地した瞬間、右脚に鋭い痛みが走った。膝が崩れそうになる。心臓も速い。フィアの顔が頭に浮かんだ。やめなさい、と言われた時の目まで思い出せる。
「後で怒られるな」
「今言うことか!」
ノアの声が飛ぶ。ユアンは無理に立つ。連続では使えない。もう内部通電は終わりだ。黒晶レッサーキマイラの右前脚はまだ少し痙攣している。そこへダリオが入った。長剣を亀裂へ叩き込む。甲殻がさらに割れる。黒晶レッサーキマイラが大きく吠えた。
「まだ浅い!」
ダリオが叫ぶ。ユアンは歯を食いしばる。1秒では足りなかった。では、もう1度作る。ただし自分で全部やる必要はない。
「エナ!」
高所から返事が飛ぶ。
「はい!」
「尾の根元、狙える?」
「甲殻の隙間なら!」
「次に上がった時!」
「了解!」
ニルスにも叫ぶ。
「避難列は?」
「残り30人! あと1分!」
残りは1分だった。それだけ耐えれば目的は達成できる。倒さなくてもいい。なのに黒晶レッサーキマイラはダリオへ向かず、街道側へ首を向けた。避難民の動きに気づいた。前脚で地面を2回掻く。突進の予兆。
「ノア!」
「分かってる!」
ノアが障壁を1枚だけ出す。魔力を節約した薄い障壁だった。黒晶レッサーキマイラの正面ではなく、右肩へ斜めに当たる角度。突進が始まる。ダリオが左から切り込む。ユアンは右へ回る。マルクが避難路の入口へ大盾を構えた。
「最後まで通す!」
エナの矢が飛ぶ。尾が上がった瞬間、根元の甲殻の隙間へ刺さる。ダメージは小さい。だが尾の振りがわずかに遅れた。
「ルゥ!」
「今度は俺か!」
ルゥが普通の速度で前へ出る。黒晶レッサーキマイラの視線がそちらへ向く。ユアンは《瞬駆》を使わない。脚がもう限界に近い。普通に走る。前脚内側の傷まで届く。そこへ剣を入れる。今度は浅くていい。《電流》を短く流す。1回目ほど強くしない。黒晶レッサーキマイラの前脚がまた沈む。突進の軸が崩れる。ノアの障壁が肩へ当たり、巨体がさらに傾く。ダリオが待っていた。
「そこだ!」
長剣が割れた甲殻の奥へ深く入る。黒晶レッサーキマイラが咆哮する。ダリオは剣を抜かず、身体ごと押し込む。刃が胸の奥へ届いた。獣が暴れ、尾が無茶苦茶に振られる。ユアンとルゥが下がる。ノアが最後の障壁を1枚出し、避難路側を守る。黒晶レッサーキマイラは数歩よろめいた。ダリオが剣を抜く。黒い血が大量に流れる。それでも獣は立とうとした。ダリオが2撃目を首下へ入れる。今度こそ巨体が崩れた。地面が揺れる。しばらく誰も動かなかった。討伐証票が反応したのはダリオのものだった。当然だ。ユアンはそれを見て、なぜか安心した。自分がB級を倒したわけではない。倒せるとも思っていない。ただ、倒せる人間へ必要な1秒を渡せた。それで十分だった。
「避難完了!」
ニルスの声が届く。ノアがその場へ座り込んだ。
「終わった……」
ユアンも膝をつく。右脚が痛い。前腕が痺れている。心臓もまだ速い。ノアがこちらを見る。
「お前、自分に電気流すの、やめろって言われてなかった?」
「禁止まではされてない」
「似たようなもんだろ」
ルゥが鼻を鳴らす。
「弱い」
「お前は今ちょっと黙れ」
高所から降りてきたエナが遠くから聞く。
「生きてます?」
「たぶん」
マルクが大盾を背負い直す。
「たぶんで返事するな」
ニルスも避難路から戻ってくる。
「歩けるなら運ばなくていい」
「優しいな、お前ら」
「歩ける?」
ノアが聞く。ユアンは立とうとして、右脚に痛みが走った。
「少し待って」
「ほら」
結局、ノアに簡単な治癒を受けることになった。ダリオは黒晶レッサーキマイラの死体を確認している。黒晶甲殻はB級素材だ。毒針にも価値がある。何より、地下生息のB級が地上近くまで出てきた重要な調査対象でもある。ユアンはその死体を見る。核にしたら何が出るのか。考えないと言えば嘘になる。複数の特徴を持つキマイラ種なら、どの能力が固定されているのかも興味がある。だが、自分のものではない。主討伐者はダリオだ。ノアたちも関わった共同戦で、管理局の調査対象でもある。ユアンは口を開かなかった。ノアが隣から見ていた。
「聞かないの?」
「何を」
「核にしていいか」
ユアンは死体から目を離す。
「聞かない」
「欲しくない?」
「欲しくないって言ったら嘘になる」
「じゃあ?」
「俺のじゃない」
ノアは少し黙ってから笑った。
「それならいい」
何がいいのかは聞かなかった。遠くで避難民の列がパナリア方向へ進んでいる。生きて帰る人たちの背中が見える。ユアンは痛む右脚を伸ばした。今日は新しい能力を得なかった。それでも、自分が前よりできるようになったことは確かにあった。3つしか選べないからこそ、何を持ち、何を捨てるかを考える。自分で倒せないなら、倒せる者へ繋ぐ。それも戦い方なのだと、ようやく腹に落ちた気がした。




