助ける側
防衛所の朝は、赤鹿亭よりずっと早かった。まだ空が青くなりきる前に、ニルスが交代監視から戻り、マルクが火を起こした。エナは毛布にくるまったまま座り、半分眠った顔で固いパンを噛んでいる。ユアンは靴底を確認していた。《瞬駆》を使うようになってから、靴は以前よりずっと早く傷む。黒鉄工房で補強してもらったとはいえ、縫い目は定期的に締め直さないと広がる。
「また靴ですか」
エナが眠そうに聞く。
「放っとくと戦ってる途中で底が剥がれる」
「それは嫌ですね」
「嫌で済めばいいけどな」
隣ではノアが障壁触媒の残量を数えていた。小さな魔石片を袋から出し、欠けや濁りを確かめている。
「昨日の分、結構使ったな」
ユアンが言う。
「誰かさんが残るって言うから」
「隊長が残したんだろ」
「そうだった」
ルゥは火の近くで丸くなっている。エナが銀灰色の背中を見た。
「前から気になってたんですけど、ルゥって本当に精霊なんですか?」
「一応」
ルゥの耳が立った。
「一応とは何だ」
ニルスが水袋を置く。
「喋る狼ではある」
「精霊でもある!」
「自分で仕組み分かってないだろ」
ユアンが言うと、ルゥは顔を背けた。
「細かいことはよい」
マルクが盾の縁を布で拭きながら呟く。
「元気なら何でもいい」
「お前は話が早い」
ルゥは満足そうだった。こうして同じ火を囲んでいると、昨日初めて組んだばかりの臨時パーティーだということを忘れそうになる。だからこそ、ユアンは少しだけ気を引き締めた。慣れた頃が危ない。7年の経験で、それくらいは知っている。朝食を終える前に伝令が来た。
「旧街道南側でD級4名が孤立! 崩落で退路が塞がれています。負傷者1名!」
ノアが立つ。
「周辺の魔獣は?」
「C級2体が確認されています。別班が接触中ですが、救出路まで押し返せていません」
ユアンたちは顔を見合わせた。ノアがすぐ人員を分ける。
「マルク、エナ。ここを維持して」
マルクが頷く。
「任せろ」
エナは弓を背負った。
「そっちは?」
「俺、ユアン、ニルス、ルゥで行く。この方が軽い」
「無理なら戻ってくださいよ」
「隊長に言う台詞か?」
「隊長だから言うんです」
ノアが笑う。
「了解」
防衛所を出ると、ニルスが先行した。旧街道までは森沿いの細い道を使う。途中にD級魔獣の痕跡はあったが、避けられるものは避けた。救助へ向かう途中で余計な戦闘をする理由はない。30分ほど走ったところで、遠くから金属音が聞こえた。ニルスが手を上げる。
「前。戦闘中」
木々の間から覗くと、崩れた街道の手前で男が2体のC級魔獣を相手にしていた。B級のダリオ・グレンだった。長身で無駄のない筋肉を持ち、暗い金髪を短く後ろへ流している。細い目は常に相手を測るように冷静で、軽量の金属鎧に長剣を持っていた。1体の魔獣の突進をかわし、返す剣で脚を深く切る。もう1体が横から入ると、地面を蹴って位置を変え、2体を同じ方向へ並べた。ユアンは少しだけ息を止めた。自分なら1体でも条件を作る必要があるC級を、ダリオは2体まとめて正面から押さえている。ダリオがこちらへ気づいた。
「ノアか」
「救助要請で来た!」
「ちょうどいい。俺がこっち止める。中の連中を出せるか?」
ノアはユアンを見る。
「状況見る」
4人は戦闘を迂回して崩落地点へ向かった。旧街道は山腹を削って作られており、片側が崖、反対側が岩壁になっている。その中央が大きく崩れ、幅15メートルほどの穴になっていた。向こう側には4人の傭兵が見える。1人が座り込み、右脚を布で固定されている。
「こっち!」
若い男が手を振った。ノアが崩落部分を見る。
「普通には渡れないな」
ユアンは崖下を覗いた。完全な垂直ではない。10メートルほど下に、昔使われていたらしい運搬路の残骸がある。斜面沿いに向こう側へ続いているが、途中が何か所か崩れていた。
「下から回れるかも」
ニルスも覗き込む。
「道はある。途中に足跡なし」
「戻れる?」
ノアが聞く。ユアンは距離を測る。
「俺が先に滑って下りる。下から縄を張れば、負傷者も降ろせる」
ノアはすぐ頷かない。崖、運搬路、孤立隊、後方の戦闘音を順に見る。ユアンは待った。自分なら行けると思う。それと、全員を連れて帰れるかは別だ。
「ニルス」
「下に魔獣の匂いはない」
「崩落は?」
「今すぐ動きそうな場所は少ない」
ノアが決めた。
「やる。ユアンが先行。ニルスが次。俺は上で崩れそうな箇所を障壁で止める。向こうへ着いたら、負傷者から降ろす」
「了解」
ユアンは腰へ縄を結び、高さを確認した。すぐ使えるのは《瞬駆》《滑空》《硬化》にしてある。救助で《魔力視》を使うより、落下事故へ備える方がいい。
「行く」
崖から飛ぶ。《滑空》を使う。身体が前へ流れ、崩れた岩肌の横を滑る。黒鉄地下城の旧連絡橋ほど距離はない。今度は着地点も見えている。運搬路の残骸へ足を着き、2歩走って勢いを殺す。
「大丈夫!」
上へ叫ぶ。ニルスは縄を使って降りてきた。身軽で、ほとんど音を立てない。
「向こうへ行く」
2人で運搬路を進む。途中の穴へ簡易縄を渡し、崩れた木材を踏み台にする。上からノアが障壁を張り、落石を止める音が聞こえた。孤立隊側へ着くと、負傷者はユアンより少し若い男だった。脚の脛から下が腫れ、立てない。
「骨折?」
「たぶん」
仲間の女性が答える。
「魔獣から逃げる途中で岩に挟まれた」
ユアンは脚を見た。出血は止まっている。ここで無理に動かすより、ノアへ見せる方がいい。
「運ぶ。先に下りる」
負傷者の男が首を振る。
「俺はいいです。他の3人を先に」
「全員行く」
「でも、俺がいると遅くなる」
その言葉で、灰鐘坑道の暗闇が一瞬だけ戻った。ケルンを置いていくしかなかった時の重さ。自分が生き残ったことを喜べなかった夜。胸の奥が少し冷える。目の前の男はケルンではない。状況も違う。だから、同じにしてはいけない。
「置いていくかどうかは俺が決める」
言ってから、少しだけ格好をつけた気がした。すぐ上からノアの声がした。
「いや、救助班の最終判断は俺なんだけど!」
ユアンは顔を上げる。
「今いいところだっただろ!」
「置いてかないけどな!」
負傷者が一瞬呆け、それから少し笑った。緊張がほどける。ニルスまで口元をわずかに上げていた。ユアンたちは即席担架を作り、負傷者を固定した。まずニルスが先行し、危険箇所を確認する。ユアンともう1人が担架を運び、残り2人が後ろにつく。運搬路の穴では、上から下ろした縄を使って担架をゆっくり渡した。途中で斜面の石が崩れたが、ノアの障壁が上から落石を受け止める。透明な面に岩がぶつかる音が響く。
「急げ! これ長くは持たない!」
「分かってる!」
最後の傭兵がこちらへ渡った直後、障壁が砕け、大きな岩が運搬路へ落ちた。ほんの数秒遅ければ道が塞がれていた。全員が上へ戻ると、ノアが負傷者の脚へ手を当てる。
「折れてる。でも位置は悪くない。今は固定でいい」
治癒魔法を最低限に使い、腫れと痛みを抑える。ユアンは息を吐いた。戦っていないのに、鎧牙イノシシ戦より疲れた気がする。その時、街道側から咆哮が聞こえた。ダリオがまだ2体を押さえている。
「戻るぞ」
ノアが言う。全員で安全側へ移動し、負傷者たちを別の救護班へ引き渡したところで、ダリオが追いついてきた。長剣には血が付いているが、大きな怪我は見えない。
「4人?」
ノアが答える。
「4人。1人骨折」
ダリオは負傷者まで目で数えた。
「そうか」
それだけだった。以前のユアンなら、その短い反応を冷たいと思ったかもしれない。今は違った。ダリオが見ているのは結果だ。全員いる。それで十分なのだろう。
「魔獣は?」
ユアンが聞く。
「1体は倒した。もう1体は追い払った」
さらりと言う。やはりB級との差は大きい。ダリオがユアンとノアを見る。
「次も救助なら、お前らに任せる」
ユアンは少しだけ目を見開いた。ノアが先に答える。
「できれば次はない方がいいけどな」
「それはそうだ」
ダリオはすぐ別班の応援へ向かった。
防衛所へ戻ると、マルクとエナが入口で待っていた。
「おかえり」
エナが言う。
「全員?」
「全員」
マルクが短く頷いた。救助された若い男が、搬送前にユアンへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
ユアンは妙に居心地が悪くなった。助けられる側だった記憶の方が、まだ身体に残っている。何と返せばいいのか分からず、「気にするな」とだけ言った。隣でノアが小さく言う。
「慣れとけ」
「何に?」
「ありがとうに」
「慣れるものか?」
「知らん。でも増えるかもよ」
その時、空へ赤い光が上がった。最初の1発が上がり、続けて2発が空へ伸びた。合計3発だった。防衛所の空気が変わった。赤3発はB級以上を示す。ニルスが獣耳を立てる。
「西南。近い」
エナが弓を取る。マルクは黙って大盾を背負った。ノアが全員を見る。
「行く。ただし、戦うかどうかは着いてから決める」
ユアンは剣を腰へ戻した。さっきまで礼を言われていた若い傭兵が、救護班に支えられながらこちらを見ている。自分たちが行く先には、今度はB級がいる。怖くないわけではない。黒鉄地下城でB級の壁を知ったからこそ、以前より怖さが具体的だった。ユアンはその恐怖を無視せず、ノアの後を追った。




