残す価値
旧採掘坑から現れたものは、木を押し倒しながら街道へ出てきた。C級《鎧牙イノシシ》だった。全長は3メートルを超え、頭から肩にかけて灰褐色の甲殻に覆われている。下顎から伸びる2本の牙はユアンの腕ほど太く、低く構えた身体の前半分だけが岩の塊のように見えた。特殊な魔法を使う種ではない。代わりに、走り出せば荷馬車ごと吹き飛ばす純粋な突進力を持つ。
「避難列までどれくらい?」
ノアが聞く。ニルスが街道後方を見る。
「最後尾が橋まで120メートル。完全に抜けるまで3分くらい」
鎧牙イノシシが地面を掻く。ユアンの足裏へ細かな振動が届いた。
「来る」
ノアはすぐ決めた。
「マルク、エナ、ニルス。避難列について下がれ」
マルクが大盾を構えたまま振り返る。
「3人で止めるのか?」
「俺とユアンとルゥで時間を稼ぐ。まず街道から人を消す」
エナが弓を下げる。
「援護は?」
「離れながら信号を上げて。増援が間に合うならそれが1番いい」
ニルスはもう信号筒を取り出していた。
「了解」
ユアンはノアを見る。
「俺は残る前提?」
「逃げろって言って逃げる?」
「相手による」
「じゃあ残るだろ」
否定できなかった。マルクが一瞬だけユアンを見る。
「無茶するなよ」
「そっちも」
3人が避難列へ向かう。鎧牙イノシシが鼻息を吐いた。ユアンは指輪へ意識を向ける。すぐ使えるのは《瞬駆》《振動感知》《硬化》の3つに切り替えてある。地上を走る大型種には《振動感知》が有効だ。《気配希薄》や《暗視》より、足元から届く予兆の方が役に立つ。
「役割を決める」
ユアンが言う。ノアが頷く。
「俺が進路をずらす」
「ルゥは左から煽れ。ただし、速い方はまだ使うな」
「また俺だけ遅いのか」
「突進の直前に使いたくなるかもしれない。俺と被ると困る」
ルゥは不満そうに鼻を鳴らしたが、すぐ左へ回った。ユアンは鎧牙イノシシの前脚を見る。太い甲殻は肩を覆っているが、脚の内側まで完全に繋がってはいない。首下にも短い毛しかなく、解体するなら最初に刃を入れる場所の1つだ。
「正面の甲殻は狙わない。前脚の内側を傷めて、最後は首下」
ノアが聞く。
「右へ流す?」
「右。左は村人がいる」
「了解」
そこまで決めたところで鎧牙イノシシが走り出した。地面が震える。《振動感知》で足の接地が順番に伝わる。見ているよりわずかに早く、次にどちらの脚へ体重が乗るか分かる。
「今!」
ノアが障壁を1枚出した。正面ではなく、右前方へ斜めに置く。鎧牙イノシシの左肩が障壁へ当たり、透明な面が激しく軋んだ。止まらない。だが進路が少し右へずれた。
「ルゥ!」
「分かっている!」
ルゥが左側から吠え、牙の外へ回る。鎧牙イノシシが首を振った。ユアンは《瞬駆》を使う。正面からではなく、右前脚の内側へ滑り込む。剣を横へ走らせる。硬い毛の下へ刃が入り、血が飛ぶ。深追いしない。すぐ抜ける。直後、巨体が横へ振れた。間に合わなければ肩だけで吹き飛ばされていた。
「浅い!」
「次で深くする!」
鎧牙イノシシが方向転換する。身体が大きい分、小回りは利かない。しかし再び正面を向けば突進速度は速い。ノアが2枚目の障壁を出した。今度は低い位置へ出し、足元を狙う。前脚が障壁へ触れた瞬間、鎧牙イノシシの姿勢が崩れた。透明な面が砕ける。
「うわ、重い!」
ノアの顔が歪む。障壁を壊された反動で魔力をかなり持っていかれたらしい。ユアンは走る。狙う場所は変えない。《瞬駆》を使わず普通に入り、傷ついた前脚内側へ剣を重ねる。今度は深い。鎧牙イノシシが悲鳴を上げ、前脚が沈んだ。それでも倒れない。頭がユアンへ向く。牙が来る。左腕へ《硬化》を集中し、剣の腹と腕で軌道を逸らす。衝撃が骨まで響いた。硬くしても重さは消えない。ユアンの足が地面を滑る。
「ユアン!」
ノアの障壁が横から現れ、鎧牙イノシシとユアンの間へ割り込む。ユアンはその一瞬で距離を取った。
「助かった」
「治す?」
「動く。まだいい」
ノアは確認だけして、すぐ全体を見る。以前なら、ユアンはノアを自分を助ける支援役としてしか見ていなかったかもしれない。だが今は違う。後方の避難列、ルゥの位置、自分の負傷、敵の進路、残りの魔力まで、ノアは全部を同時に見ている。C級とはこういうものなのか、とユアンは少しだけ思った。
「避難列、橋を越えた!」
遠くからエナの声が届く。ノアが一瞬だけそちらを確認する。
「あと少しで完全に抜ける!」
鎧牙イノシシが再び走り出した。今度は街道ではなく、ユアンへ向かっている。
「来い」
ユアンは足を開く。ルゥが横から走る。
「俺が使うぞ!」
《瞬駆》のことだ。
「まだ!」
地面の振動を読む。右前脚は傷ついている。着地するたび、体重が少し左へ逃げている。突進速度が上がる。距離が20メートルまで縮まり、さらに15メートルへ迫る。
「今、ルゥ!」
ルゥの身体が一気に加速した。《瞬駆》で左側を横切る。鎧牙イノシシの目が追う。首がわずかに左へ振れた。ユアンは普通に右へ走る。《瞬駆》は今使えない。同じ力をルゥが使っている。だから最初から使わない前提で位置を取った。鎧牙イノシシの右前脚が着く。傷が開き、巨体が傾く。そこへノアの障壁が1枚だけ出た。今度は止めるためではない。左肩へ触れさせ、傾きをさらに大きくする。巨体が膝をついた。
「ユアン!」
ルゥの《瞬駆》が切れる。力が戻る感覚を待たず、ユアンは走った。首下が見える。《瞬駆》を使う。低くなった頭の脇を抜け、剣を首下から深く差し込んだ。抵抗が強い。角度を変える。解体台なら血管と気道が通る場所だ。鎧牙イノシシが暴れる。ユアンは剣を抜かない。ノアが頭の前へ障壁を重ね、牙がこちらへ届くのを防ぐ。さらに押す。手応えが変わった。大量の血が地面へ落ちる。巨体が数歩よろめき、そのまま横倒しになった。討伐証票が淡く光る。ユアンはすぐに離れ、動かないことを確認した。息が上がっている。左腕も痛い。それでも鋼角熊を倒した時ほど、何が起きたのか分からない感じはなかった。今回は最初から狙いを決めていた。ノアがどこへ流し、ルゥがどこから誘い、自分がどこを斬るかまで共有した上で勝った。強くなったというより、迷う時間が減ったのだと思う。ノアがその場へ座り込む。
「しんど……」
「C級の隊長が情けないぞ」
「障壁何枚割られたと思ってんだよ」
「4枚?」
「5枚。最後の頭止めたやつ、2重だったから」
ルゥが死体の匂いを嗅ぐ。
「食えるか」
「素材だぞ」
「肉も素材だろう」
そこへマルクたちが戻ってきた。避難民は全員、橋の向こうへ移動を終えたらしい。エナが鎧牙イノシシを見て目を丸くする。
「本当に倒したんですか」
マルクはユアンの腕を見る。
「怪我は?」
「打っただけ」
「ノア、見ろ」
「今やる」
ノアに治療を受けながら、ユアンは死体を見た。甲殻は防具になる。牙は武器や工芸品に使える。腱も丈夫で、肉も一部は食用になる。C級なら売却額も大きい。ノアが聞いた。
「どうする? 緊急防衛の討伐素材は班の共同取り分だ。主討伐はお前でも、核にしたいなら全員の同意がいるぞ」
《スキル核作成》自体は組合に登録されている。マルクたちの前で核化の話をすることに問題はない。ただ、その核を何に使っているかは別だった。ユアンの右手が一瞬、指輪へ向かいかけた。何が出るのかは分からない。この硬い甲殻に由来する能力かもしれないし、突進に関係する能力かもしれない。それ以外かもしれない。知りたい気持ちはある。以前なら、その未知そのものに価値を感じた。今も価値がないとは思わない。けれど周囲を見る。ノアは障壁触媒をかなり使った。マルクの盾にも新しい傷がある。エナの矢筒は半分以下になり、避難民の中には治療を受けている者もいる。
「残す。今回は素材に回そう」
ノアが少しだけ驚いた顔をした。
「珍しいな」
「今はこっちの方が使える」
「素材代?」
「それも。装備、触媒、治療費。組合が買い上げるなら防衛物資にもなるだろ」
マルクが頷く。
「甲殻は盾の補修材にも使える」
エナが牙を見る。
「売ったら結構しますよね」
ユアンは苦笑する。
「だから余計に迷う」
ノアが笑った。
「迷ってるじゃん」
「選んだ後に惜しくなるのは別だ」
素材回収の印を付け、組合へ処理を依頼する。
その夜、一行は街道脇の仮設防衛所で休むことになった。火を囲み、固いパンと薄いスープ、それから保存肉を食べる。マルクは黙々と盾の縁を磨き、エナは残りの矢を1本ずつ確認している。ニルスは交代監視から戻ると、火のそばへ座って水を飲んだ。ルゥの皿には肉しかない。
「野菜も食え」
ユアンが言う。
「狼は野菜を食わん」
ノアがパンをちぎりながら言う。
「昼にパン食ってたぞ」
「あれは味を確認しただけだ」
「結果は?」
「悪くなかった」
「食ってるじゃん」
エナが吹き出した。マルクの口元も少し動く。数時間前までC級と戦っていたのに、今は皆で飯を食べている。明日も何が出るか分からない。地下で何が起きているのかも分からない。それでも腹は減るし、矢は数えなければならず、盾は直さなければならない。自分の剣を布で拭きながら思った。生き残るというのは、たぶんこういうことの繰り返しなのだ。派手な瞬間より、次の日のために残すものを選び続けることなのかもしれない。右手の指輪を見た。鎧牙イノシシの能力が何だったのかは、もう分からない。少し惜しい。それでも後悔はしていなかった。




