いつもの朝
赤鹿亭の朝は、いつも肉の匂いから始まる。黒鉄地下城から戻って4日目、ユアンは久しぶりに急ぐ必要のない朝食を前にしていた。皿には焼いた卵と黒パン、それから薄く切った燻製肉が3枚並んでいる。窓から入る日差しはまだ柔らかく、食堂には旅人が数人いるだけだった。
「それ、俺のだぞ」
向かいの床に座っていたルゥが、燻製肉から目を離さない。
「まだ食っていない」
「だから?」
「誰のものか確定していない」
「俺の皿に乗ってる時点で確定してる」
銀灰色の狼は納得していない顔をした。黒い紋様の入った鼻先が少しずつ皿へ近づいてくる。ユアンが肉を口へ運ぶ直前、厨房から女将が出てきた。
「ルゥ、こっち」
別の皿が床へ置かれる。厚めの羊肉が2切れ乗っていた。ルゥの耳が立った。
「分かっているではないか」
「何が」
「狼には狼用の皿が必要だ」
「犬用の皿って言ったら文句言われたから、わざわざ新しくしたんだよ」
「当たり前だ!」
食堂の奥で誰かが笑った。このやり取りにも、もう何度か聞き覚えがある。灰鐘坑道から戻った頃には、朝食をゆっくり食べられるだけで妙に落ち着かなかった。今はルゥが肉を盗もうとして、女将に怒られる光景まで日常に混じり始めている。それが少し不思議だった。入口の扉が開く。
「帰ってきて最初に見るのが、お前と狼の肉争いか」
聞き慣れた声だった。振り向くと、ノア・フェルナーが大きな荷袋を肩から下ろしていた。26歳の人間男性で、181センチほどのがっしりした体格に、赤茶色の短髪と太い眉、少し垂れた茶色の目を持つ。布鎧の上から丸盾を背負った姿は、数日前までと変わらない。ただ、頬に少し無精ひげが伸びていた。
「帰ったのか」
「今朝な。南街道の採取隊は無事に送り届けた。俺は3日ぶりのまともな飯」
ノアは向かいの椅子へ座り、女将へ朝食を頼んだ。ルゥが羊肉を噛みながら言う。
「遅かったな、障壁男」
「俺にはノアって名前があるんだよ」
「知っている」
「なら呼べよ」
「気が向いたらな」
ユアンは笑いながら黒パンをちぎった。ノアが水を飲み、ユアンの肩を見る。
「で、黒鉄地下城は?」
「B級に吹き飛ばされて、A級から逃げた」
「本当にA級が上まで来たのか」
「ああ。《灰燼竜》。シキナでも足止めが精一杯だった」
「それで全員帰った?」
「帰った」
「なら十分だ」
その言葉に、ユアンは少しだけ黙った。地下城から戻って以来、何もできなかったという感覚と、全員で帰れたという事実が胸の中でまだ噛み合っていなかった。灰燼竜へ剣を振らなかったことは正しい。それでも、強さを求めてきた自分のどこかには、逃げるしかなかった現実が残っている。ノアはそれ以上聞かなかった。代わりに自分の皿が届くと、勢いよく卵を食べ始める。そこへまた扉が開いた。黒い軽装に、黒髪を顎から肩の間で切り揃えた女が入ってくる。白い肌と灰黒色の目、腰の黒い片刃短刀《暮断》。シキナ・アルヴェールだった。
「いた」
「俺?」
「うん」
シキナはユアンの横へ立ち、左肩を見る。
「もう痛くない?」
「俺より自分の肩は?」
灰燼竜の熱をかすめた場所だ。
「もう平気」
「なら俺も平気」
「そういう決め方?」
シキナの目が少し細くなる。ユアンは負けた気がして視線を逸らした。ルゥが肉を食べ終わり、シキナを見る。
「今日は犬と言わないのか」
「言ってほしい?」
「いらん」
「じゃあ狼」
ルゥの尾がわずかに動いた。
「分かればよい」
ノアがそれを見て笑う。
「単純だなあ」
「お前より賢い」
赤鹿亭の朝は、いつも通りだった。少なくとも、その鐘が鳴るまでは、そう思っていた。遠くで低い音が3度響いた。食堂の空気が変わる。組合の緊急警鐘だった。シキナが先に扉へ向かう。ノアも食べかけの黒パンを口へ押し込んだ。
「朝飯くらい最後まで食わせろよ」
「行くぞ」
ユアンが立ち上がる。ルゥもすぐ後ろについた。
組合前の広場には、すでに傭兵が集まり始めていた。掲示板前へ簡易地図が置かれ、バルドが大声で指示を飛ばしている。報告は1か所ではなかった。西の旧採掘坑、北の森、南東の地下水路、山道沿いの洞窟から、ほぼ同じ時間帯に魔獣が地上へ出始めている。
「黒鉄地下城から?」
誰かが聞いた。バルドが首を振る。
「決めつけるな。地下の生息域がずれてる可能性はあるが、出口は複数だ。原因はまだ不明だ」
ユアンは地図を見た。翡翠樹洞、黒鉄地下城、そして今度はパナリア周辺。繋がっているように見える。それでも、見えることと分かることは違う。ユアンは自分に言い聞かせた。似ているだけで同じ原因だとは限らない。バルドが人員を振り分ける。
「A級とB級は高危険度個体へ回す。C級はD級をまとめて街道と集落を守れ。B級以上を見たら抱え込むな。信号を上げろ」
シキナは北部のA級対応班へ呼ばれた。フィアも別の大規模群へ向かうらしい。ガルドの名前もB級班にあった。
「ノア・フェルナー!」
「はい!」
ノアが前へ出る。
「西街道とラウ村間の防衛。D級4名を付ける」
名前が読み上げられた。
「ユアン・クロウ。マルク・ヘイル。エナ・リース。ニルス・ローデン」
ユアンは少しだけ眉を上げた。ノアが振り返る。
「というわけで、今日は俺が隊長」
「珍しいな」
「俺、普段からお前よりランク上なんだけど」
「忘れてた」
「忘れるなよ」
横から低い笑い声がした。最初に歩み寄ってきたのは30歳くらいの人間男性だった。180センチほどの体格で、日に焼けた肌と短い焦げ茶色の髪を持ち、鼻は昔折ったらしく少し左へ曲がっている。厚い革鎧の上に金属製の胸当てを重ね、左腕には大盾、右手には短槍を持っていた。
「マルク・ヘイル。盾やる」
短い自己紹介だった。次に、小柄な女性が片手を上げた。20歳ほどで、160センチほどの細身。明るい茶色の髪を肩より少し短く切り、後ろだけ小さく束ねている。頬には薄いそばかすがあり、緑がかった茶色の目がよく動く。背には短めの複合弓、腰には短剣があった。
「エナ・リースです。弓と見張り。あ、例の灰鐘帰りってユアンさん?」
「例の、が気になるけどそう」
「本当に変な動きするんです?」
「誰から聞いた」
「色々」
最後の男はほとんど音を立てずに近づいた。20代後半ほどの山猫系獣人で、身長は170センチほど。黒灰色の短髪から同色の小さな獣耳が出ており、黄褐色の目は細く、身体に密着した軽い革鎧を着ている。腰には短剣が2本あった。
「ニルス・ローデン。斥候」
それだけ言うと黙った。ルゥが鼻を近づける。
「お前、鼻が利くか」
「お前ほどじゃない」
「当然だ」
どうやら相性は悪くなさそうだった。ノアが全員を見回す。
「俺が全体を見る。マルクは避難列の前、エナは高所、ニルスは先行。ユアンとルゥは空いたところへ入ってくれ。無理に倒すより、まず人を通す。いいな?」
全員が頷いた。ユアンは一瞬、昔のノアを思い出した。7年前から一緒に仕事をしてきたが、普段のノアは怒ったり笑ったり、怖いものを怖いと言う男だった。だから忘れそうになる。こいつはもうC級なのだ。西街道へ到着すると、ラウ村からの避難民が荷車を連ねて移動していた。ニルスが前方から戻る。
「右前、5。追加はなし」
エナが街道脇の岩へ登る。
「見えた! 先頭2体が速い!」
林から犬型のD級魔獣が飛び出す。ノアの声が飛ぶ。
「マルク、中央! エナは先頭! ユアンは右を抜けるやつ!」
マルクの大盾へ1体がぶつかる。エナの矢が別の1体の前脚へ刺さる。ユアンは右から街道へ出ようとした個体へ走った。
「ルゥ、右!」
「分かった!」
1体目をかわし、2体目が避難列へ向きを変える。
「右、2枚!」
ノアは理由を聞かなかった。
「はいよ!」
透明な障壁が2枚、少し角度をずらして現れる。魔獣が1枚目にぶつかって進路を変え、2枚目で足を止めた。そこへユアンが入る。剣を首へ通し、すぐ次を見る。戦闘は長く続かなかった。最後の1体をマルクが短槍で止めると、街道に静けさが戻った。エナが岩から降りながらノアとユアンを見る。
「今の『右、2枚』だけで分かるんです?」
ニルスが先に答えた。
「長いんだろ。組んでるの」
ノアが肩をすくめる。
「7年」
ユアンは避難列を見る。昔もノアとはこうして戦った。ただし、あの頃は自分たちが生き残ることで精一杯だった。今は背後に村人がいる。泣いている子供も、荷車を押す老人もいる。守る対象が増えただけで、同じ連携の意味が違って見えた。その時、ニルスの獣耳が立った。
「大きい」
全員が振り向く。旧採掘坑の方角から木々が揺れる。直後、監視員の笛が鳴った。
「C級反応! 西旧坑道!」
ノアの顔から笑いが消えた。ユアンも剣を握り直す。避難列の最後尾は、まだ街道を抜け切っていなかった。




