深層
黒鉄オオザルとの遭遇後、シキナは迷わず撤退を決めた。
ユアンも反対しなかった。
それどころか、帰路へ入る前に魔獣と遭遇を避ける若しくは逃げることを優先にスキル構成を変えた。
《硬化》を休ませ、《滑空》をすぐ使える状態へ切り替える。《瞬駆》《魔力視》《滑空》の3つだ。
負けた直後だからこそ、戦う準備ではなく逃げる準備を選んだ。
中層へ戻る通路を半分ほど進んだ時、地下全体が震えた。
最初は小さかった。
次に、足元の石が跳ねるほど大きな振動が来た。
「止まって」
シキナが言う。
全員が壁際へ寄る。
遠くから何かが聞こえる。
重い足音が連続して響き、1つではないと分かる。
「来るぞ」
ルゥの毛が逆立つ。
深層側の通路から、魔獣の群れが現れた。
最初に見えた裂爪ネズミの後ろから、鎧甲虫、岩甲ヤギ、細長い蛇型魔獣が次々と押し寄せる。互いの身体へぶつかっても争わず、とにかく上層へ進もうとしていた。
「右の窪み、浅い!」
ユアンが叫ぶ。
シキナが左側の古い設備跡を指す。
「こっち!」
4人が入り込んだ直後、群れが通路を埋めた。
岩甲ヤギの角が入口をかすめ、黒鉄板へ火花を散らす。ルゥが反射的に唸ったが、ユアンは首元を掴んだ。
「出るな」
「分かっている」
群れの圧に巻き込まれれば、戦う以前に踏み潰される。
ユアンは《魔力視》を使いたい衝動を抑えた。魔獣の数が多すぎる。ここで濃い魔力をまとめて見れば、また視界を失うかもしれない。
「見るな」
シキナが短く言った。
考えていたことを読まれ、ユアンは頷く。
「今は見ない」
群れが通り過ぎてから、必要な方向だけ数秒見る。それで十分だ。
群れの最後尾では、脚を痛めた鎧甲虫まで上層へ這っていた。普通なら互いに襲い合う種が、争うことさえ忘れて同じ方向へ逃げている。
「何だよ、これ」
ユアンの背中へ寒気が走る。
ルゥが低く唸る。
「来る」
シキナが聞く。
「何が?」
「分からん。だが嫌だ」
深層側の通路から灰色の煙が流れてきた。
煙に見えたが、匂いが違う。
熱気が肌へ触れ、焦げた石と灰の匂いがする。
ユアンは数秒だけ《魔力視》を使った。
視界が変わる。
通路の奥に巨大な魔力反応があった。
黒鉄オオザルとは比べものにならない。
胸部から喉へ、膨大な魔力が集まっていく。
「伏せろ!」
考えるより先に叫んだ。
全員が床へ身を落とす。
直後、通路を灰色の熱風が走った。
炎ではない。
細かな灰と火の粉を巻き込んだ熱波が頭上を通り、反対側の壁を赤く焼く。
呼吸するだけで喉が痛い。
「何だ、今の」
ガルドが顔を上げる。
灰煙の向こうで、巨大な影が動いた。
最初に見えたのは頭で、その後ろから長い首が続いた。
黒灰色の鱗に覆われた身体が通路へ現れる。
全長は10メートルを超えている。4本の脚は太く、背には大きな翼が畳まれていた。翼膜の端は焼けた布のように赤黒く、口元からは灰と火の粉がこぼれている。角は後方へ湾曲し、黄色い眼が煙の中で光っていた。
シキナの表情が変わる。
「灰燼竜」
ガルドの声が低くなる。
「A級」
ユアンは剣へ手を伸ばしかけた。
その手を止める。
黒鉄オオザルでさえ、弱点が見えても刃が通らなかった。
目の前の相手はさらに上だ。
シキナが即座に言う。
「逃げる」
「分かった」
自分でも驚くほど早く答えた。
灰燼竜が前へ出る。
通路の幅いっぱいに身体が広がる。
シキナだけが逆方向へ1歩出た。
ユアンは止めようとして、言葉を飲み込んだ。シキナが残るのは戦いたいからではない。3人が走り出すまでの数秒を作るためだ。黒鉄オオザル相手に自分とガルドが作った時間を、今度はシキナが1人で作ろうとしている。
自分も残れば助けになるのか。
答えはすぐ出た。
ならない。
灰燼息を1発受ければ、《硬化》を外している今の自分はほぼ終わる。仮に《硬化》があっても耐えられる保証はない。
悔しさより先に、その計算ができた。
「シキナ」
「進路だけずらす。先に行って」
「1人で?」
「勝つつもりはない」
《暮断》を抜く。
ユアンは唇を噛んだ。
残れば邪魔になる。
その事実を認めるのが苦しい。
ガルドがユアンの肩を掴む。
「出口だけ探せ!」
「分かってる」
4人が上層側へ走る。
灰燼竜が咆哮し、シキナへ前脚を振る。
シキナはぎりぎりでかわし、《暮断》を鱗の継ぎ目へ滑らせた。
黒い鱗に細い傷が入る。
浅い。
A級のシキナですら、簡単には通らない。
ユアンは前を見る。
地図上ではこの先に旧連絡橋がある。ただし崩落しているという記録がある。
「右!」
ガルドとルゥを連れて曲がる。
視界が開けると、巨大な縦穴が口を開けていた。
向こう側へ続く黒鉄橋は中央から崩れ、10メートル以上の空間が空いている。
「行き止まりだぞ!」
ガルドが叫ぶ。
ユアンは下を見る。
底は見えない。
反対側の橋は少し低い。
「渡れる」
「どうやって」
ユアンは荷物から細い補助縄を出した。
「俺が向こうへ行く。固定する」
ガルドが崩落幅を見る。
「届くか?」
「落ちながらなら」
使うのは《滑空》だ。
ここで使うために残したわけではない。
それでも今、使える。
ユアンは縄の端を腰へ結ぶ。
「ルゥ、お前は?」
「飛べん」
「知ってる」
「言うな」
ガルドが縄を持つ。
「途中で落ちたら?」
「引き戻して」
「壁に叩きつけられるぞ」
「落ちるよりまし」
背後で灰燼竜の咆哮が響く。
時間がない。
ユアンは崩れた橋の端から走り、飛び出した。
足元が消える。
身体が落ちる。
すぐ《滑空》を使う。
見えない膜が身体を支えるような感覚が広がり、落下が前方へ変わる。
風が強い。
左へ流される。
姿勢を変える。
反対側の橋が近づく。
高さが足りない。
「もう少し!」
自分に言い聞かせる。
足先が縁へ届かない。
手を伸ばす。
指が黒鉄板の端へ掛かった。
身体が下へ振られる。
肩に激痛が走る。
「ユアン!」
向こうからガルドの声。
ユアンは歯を食いしばり、もう片方の手も掛ける。
身体を引き上げる。
橋の上へ転がった。
「生きてる!」
すぐ縄を黒鉄柱へ回し、結びつける。
ガルドが反対側で固定を確認し、簡易の渡り綱を作る。
「ルゥ、胴に巻くぞ!」
「俺を荷物みたいに扱うな!」
「今だけ我慢しろ!」
ガルドがルゥの胴へ補助帯を回し、ユアンが向こう岸から縄を引く。ルゥは前脚で縄を押さえながら空中を運ばれ、着地した瞬間に全身の毛を逆立てた。
「2度とやるな!」
続いてガルドが腕だけで渡り始める。
最後にシキナが走ってくる。
その背後から灰燼竜が迫っていた。
シキナの左肩が少し焦げている。
「早く!」
ユアンが叫ぶ。
灰燼竜の胸へ魔力が集まる。
《魔力視》を短く使う。
喉へ流れ込む。
さっきと同じ。
「来る!」
シキナが縄へ飛びつく。
ガルドが引く。
ユアンも縄を握る。
灰燼竜の口から灰色の熱風が放たれた。
シキナが最後の数メートルを跳ぶ。
ユアンとガルドが腕を掴み、引き上げる。
直後、灰燼息が崩れた橋を焼いた。
縄の反対側が燃え、切れる。
灰燼竜は向こう岸で咆哮した。
こちらへ飛べば追ってこられる。
ユアンは身構えた。
だが縦穴の天井は低く、灰燼竜の大きな翼を広げられる幅がない。巨体で崩れた橋へ踏み出せば、自重で残った床まで落としかねない。
灰燼竜はしばらくこちらを見た後、深層側へ身体を向けた。
ゆっくり灰煙の中へ消える。
誰もすぐには動かなかった。
シキナの左肩の布が焦げていたため、ユアンは近づいて傷を確認した。皮膚には赤い火傷があるが、深くはない。
「平気?」
「熱かっただけ」
「それ、平気って言う人の言い方じゃない」
「ユアンには言われたくない」
ガルドが低く笑う。
「そこは同意する」
緊張が少し抜ける。
ユアンは自分の両手を見る。橋の縁へ掴まった時に皮が擦れ、指先から少し血が滲んでいる。戦っていないのに傷は増えていた。
それでも、その傷の方が灰燼竜へ剣を振って死ぬよりずっとましだった。
ユアンは床へ座り込む。
手が震えていた。
怖かった。
黒鉄オオザルの時とは違う。
戦えば負けるではなく、戦いという形にすらならないと身体が理解していた。
「何もできなかった」
口から出た。
シキナが焦げた肩を確認しながら言う。
「ロープを渡した」
「攻撃は」
「しなくていい」
ガルドも隣へ座る。
「A級相手に攻撃しなかったのが、今日1番正しい判断だ」
ユアンは灰燼竜が消えた方を見る。
悔しくないわけではない。
だが、黒鉄オオザルの時とは違う。
自分が剣を振らなかったから、全員が戻れた。
その事実を否定する方が愚かだ。
ルゥが鼻を鳴らす。
「逃げるのも戦いだ」
「お前までまともなこと言うな」
「俺はいつもまともだ」
シキナが小さく笑った。
その笑いで、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
4人は上層へ向かって歩き出した。
しばらく進んだ後、ユアンは《魔力視》を使わずに後ろを確認した。何も追ってこない。そこでようやく、肺の奥に溜まっていた息を吐けた。
「帰ったら何て報告する?」
ユアンが聞く。
シキナは歩きながら答える。
「見たまま。A級《灰燼竜》が境界より上まで移動していた。追跡は崩落橋で止まった。原因は不明」
「原因は不明、か」
「分からないものを埋めない」
黒鉄地下城へ入る前にバルドが言ったことと同じだった。
ユアンは頷く。
もう振り返らなかった。




