B級
下層境界の観測地点は、幅20メートルほどの円形広間だった。
壁際には古い黒鉄柱が並び、その先に深層へ続く大きな斜路が口を開けている。本来なら調査隊はここで痕跡を取り、引き返す予定だった。
ユアンは床へしゃがみ、黒い毛を拾った。
中層で見つけたものと同じだ。
「ガルド」
渡す。
ガルドは1度触っただけで頷いた。
「黒鉄オオザルでほぼ間違いない」
シキナが深層側の斜路を見る。
「ここまで上がってる」
「毛だけなら、少し前に来ただけかもしれない」
ユアンが言う。
その直後、斜路の奥で石が割れた。
全員が黙る。
重い足音が近づく。
ユアンは立ち上がった。
暗闇から巨大な腕が出た。
続いて、黒い毛に覆われた身体が姿を現す。
それは《黒鉄オオザル》だった。
体長は3メートル近く、前傾した姿勢でも人間より頭2つ分以上高い。両腕は膝より下まで届き、肩から前腕にかけて黒い金属質の皮膚が鎧のように盛り上がっている。顔は類人猿に近いが、鼻は低く、口からは太い犬歯が突き出していた。
B級の魔獣だ。
ユアンの喉が乾く。
黒鉄オオザルは4人を見た。
唸り声は上げない。
ただ、進路を塞ぐものを見るように目を細めた。
シキナが低く言う。
「下がる」
黒鉄オオザルが先に動いた。
床が沈むほど強く踏み込む。
速い。
「右!」
ユアンは反射的に《魔力視》を使った。
右肩へ魔力が集中する。
次の瞬間、長い右腕が横へ振られた。
ガルドが姿勢を落として避ける。
拳が黒鉄柱へ当たり、金属が鈍くへこんだ。
「読めるのか」
ガルドが叫ぶ。
「流れは!」
ユアンは剣を抜く。
すぐ使えるのは《瞬駆》《魔力視》《硬化》。
黒鉄オオザルの身体を見る。
肩、胸、脚へ濃い魔力が流れている。
右脇の下だけ、わずかに薄い。
「右脇が薄い!」
ガルドが黒鉄オオザルの正面へ入り、片刃剣で注意を引く。
ユアンは《瞬駆》を使った。
攻撃が来る前に死角へ入る。
右脇へ剣を振る。
手応えはあった。
だが刃が止まる。
皮膚を少し裂いただけだった。
「硬っ」
黒鉄オオザルの顔がこちらを向く。
魔力が左肩へ集まる。
見える。
左腕が来る。
ユアンは《瞬駆》で下がった。
それでも遅かった。
拳そのものは外したが、腕が巻き起こした衝撃と肩がぶつかる。
左腕へ《硬化》を集中する。
次の瞬間、身体ごと吹き飛ばされた。
背中から黒鉄壁へ叩きつけられる。
息が消えた。
剣を落としかける。
「ユアン!」
シキナの声が遠く聞こえる。
立たないと。
そう思うのに肺へ空気が入らない。
黒鉄オオザルが追ってくる。
その間へガルドが入った。
片刃剣を横に構え、腕の軌道を受け流す。
真正面から止めていない。
1歩ずつ、ほんの少しずつ身体をずらし、拳が最大の力を出す位置から外れている。
黒鉄オオザルの右腕が振られる。
ガルドは剣の腹を当て、身体を回す。
ユアンには《魔力視》で攻撃前の流れが見えるのに、ガルドはそれを使わず同じことをしていた。肩の沈み、腰の向き、足裏の荷重。目で見えるものだけを拾い、攻撃が完成する前に位置をずらしている。
「右、次に左!」
ユアンが叫ぶ。
ガルドは返事をしない。ただ動く。右腕を避け、続く左の振り下ろしには片刃剣を斜めに当てて軌道を外した。
黒鉄オオザルの拳が床へめり込み、石が砕ける。
ガルドがその瞬間だけ前へ入り、脇腹へ刃を走らせた。
ユアンより深い。
それでも致命傷には遠い。
B級同士でも簡単には決まらない。
その事実が、かえって差を分かりやすくした。
刃が金属質の皮膚を滑り、火花が散る。
すぐ左へ抜ける。
次の攻撃も同じだ。
派手な能力は何もない。
それでも間合いの中に残っている。
ユアンはようやく呼吸を取り戻した。
「くそ」
立ち上がる。
右脇が薄い。
見えている。
もう1度入れば、同じ場所を切れる。
だが、さっきより深く切れる保証はない。
ガルドの腕を拳がかすめた。
防具が裂け、血が飛ぶ。
それでもガルドは崩れない。
ユアンはそこで初めて、自分が見ていたものの意味を理解した。
B級の弱点を見つけた。
攻撃も読める。
それでも届かない。
胸の奥に、焦りと悔しさが同時に湧いた。《魔力視》を得た時、少しだけ期待していた。相手の流れが見えるなら、格上にも今までより通用するのではないかと。間違ってはいない。実際、攻撃は読めた。ガルドへ警告もできた。
ただ、見えた先で必要になるのは自分の身体だった。
踏み込む速度、刃を押し込む力、相手の反撃を受け流す技術、長く間合いへ残るための経験。どれも指輪からは出てこない。
その事実は不思議と絶望ではなかった。足りないものが見えただけだ。
だから今、足りないまま何をするかを選ばなければならない。
知識が足りないのではない。
身体と技と武器の全部が足りない。
それでも、何もできないまま立っているのは違う。
ユアンは黒鉄オオザルではなく周囲を見る。右側の黒鉄柱は根元が割れ、少し傾いている。倒せば進路を1つ塞げる。
「ガルド、3歩下がれる?」
「やれ!」
理由を聞かず返ってくる。
ユアンは黒鉄オオザルの攻撃がガルドへ向いた瞬間、《瞬駆》で柱の反対へ回った。剣ではなく、足元へ転がっていた鉄片を割れ目へ差し込み、全身で押す。
動かない。
ルゥが横から体当たりする。
「これか!」
「そう!」
2人で押すと、傾いた柱が軋んだ。
黒鉄オオザルがガルドを追って踏み込んだ瞬間、柱が倒れる。
巨体の前へ黒鉄柱が横たわり、進路がわずかな間だけ止まった。
ダメージはない。
それでも時間は作れた。
ガルドがその間に距離を取り、シキナも退路側へ動く。
ユアンはそこで理解した。刃が通らないなら、通らないまま役に立つ方法を探すしかない。
黒鉄オオザルが再び腕を振る。
「下がって!」
シキナが前へ出た。
黒い影が巨体の懐へ入る。
《暮断》が右肩の内側へ触れた。
大きな傷ではない。
だが黒鉄オオザルの右腕が瞬間だけ落ちる。
力の流れを切った。
シキナは続けて脚へ回り、膝裏へ短く刃を入れる。
黒鉄オオザルの姿勢が崩れた。
「ガルド、退路!」
「了解!」
ガルドが広間の左側へ走り、倒れた柱を蹴って通路を空ける。
シキナは倒し切ろうとしない。
黒鉄オオザルが立ち直る前に距離を取る。
ユアンには、その判断の速さもA級の強さに見えた。勝てるかどうかではなく、任務で何が必要かを先に決めている。自分なら目の前の弱点へ気を取られたかもしれない。
黒鉄オオザルは倒れた柱を片腕で押し退けた。金属が床を擦る音が広間に響く。
あれだけ苦労して作った数秒が、相手にとっては障害ですらない。
それでも数秒あれば、逃げられる。
「ユアン、走れる?」
「走れる」
本当は背中が痛い。
だが脚は動く。
ルゥがユアンの横につく。
「俺が後ろを見る」
「頼む」
4人は上層側の通路へ走った。
黒鉄オオザルは30メートルほど追ってきたが、やがて足を止めた。
縄張りから離れすぎたのか、それ以上は来ない。
安全な曲がり角まで戻ったところで、シキナが手を上げた。
全員が止まる。
ユアンは壁へ手をつき、息を整えた。
背中が脈打つように痛い。
ガルドの左腕からも血が落ちている。
「見えてた」
ユアンが言った。
誰に言ったのか自分でも分からなかった。
ガルドが腕へ布を巻きながら答える。
「そうだな」
「攻撃も読めた」
「そうだな」
「脇も薄かった」
「そうだな」
ユアンは拳を握った。
「でも届かなかった」
ガルドが布を結び終え、ユアンを見る。
「見えることと、できることは違う」
「お前は見えてないのに、避けてた」
「肩と腰と足を見る。何度もB級とやれば、嫌でも覚える」
「何度も、か」
「最初からできたと思うな」
ガルドは裂けた防具を指で押さえる。
「今だって完璧じゃない。まともに食らえば俺も終わる。まずはできることを確実にやれ」
ユアンはその血を見た。B級になればB級魔獣を簡単に倒せるわけではない。格が同じでも、失敗すれば死ぬ。その緊張の中で安定して仕事を続けられるからこそ、ガルドはB級なのだと分かった。
言葉は静かだった。
責めてもいない。
だから余計に重い。
ユアンは自分の剣を見る。
刃こぼれはしていない。
それでも黒鉄オオザルの皮膚をほとんど切れなかった。
ガルドが続ける。
「お前の読みは合ってた。俺も助かった」
「でも倒せなかった」
「倒す必要があったか?」
ユアンは顔を上げる。
「調査だろ」
シキナが同じことを言う。
「目的は討伐じゃない。情報を持ち帰ること」
ユアンは分かっている。
分かっているのに、悔しい。
C級に条件付きで届くようになり、以前よりできることは増えた。《魔力視》まで手に入れた。その直後に、見える弱点へ刃が届かない相手を見せつけられた。
ルゥが横から言う。
「悔しいなら強くなればいい」
ユアンが見る。
「簡単に言うな」
「今すぐ倒せとは言っていない」
意外にまともな答えだった。
ガルドが少し笑う。
「狼の方が分かってる」
「当然だ」
「調子に乗るな」
シキナが地図を広げる。
「ここで調査終了。戻る」
ユアンはすぐ頷いた。
もう1度黒鉄オオザルへ挑みたい気持ちはない。
少なくとも今は。
それだけでも以前の自分よりまともだと思いたかった。
帰路へ向かう前、ユアンは下層境界の斜路を振り返った。
B級がここまで上がってきた。
そして、その奥にはまだ何かがある。
弱い自分が悔しいという気持ちと、奥へ進みたくないという感覚が同時に湧く。
後者を無視しないことが、生き残るためには必要だった。




