見えてはいけないもの
《魔力視》を得てから、黒鉄地下城の景色は以前と同じには見えなくなった。
だからといって、ユアンは常に使わなかった。
数分続けるだけで目の奥が重くなり、濃い魔力を見続けると頭痛まで出る。シキナとガルドからも、必要な時だけにしろと念を押された。
「次の分岐だけ見る」
ユアンはそう言って《魔力視》を使った。
すぐ使える状態は《瞬駆》《魔力視》《硬化》のままにしている。
視界へ薄い光が重なる。
中層の黒鉄壁には、これまで気づかなかった微かな魔力の線が走っていた。
「やっぱりある」
ガルドが壁へ近づく。
「何が」
「中を流れてる」
「現代の魔導具みたいなもの?」
「分からない。かなり弱い」
ユアンは壁の継ぎ目へ沿って視線を動かす。
光は途切れず、床の下へ消えている。
ルゥが鼻先を壁へつけた。
「道だ」
「前も言ってたな」
「そうだったか?」
「覚えてないのかよ」
ルゥは少し考えた。
「言葉だけ残っている。何の道かは分からん」
シキナが黒鉄壁へ手を当てる。
「通路ではない?」
「少なくとも人が通る道には見えない」
ユアンは《魔力視》を切った。
「魔力が流れる道なら、近い」
「何のために?」
「それが分からない」
少し先には、壁から半分だけ突き出した黒鉄製の台座があった。表面には円形の窪みが3つ並び、その周囲へ細い溝が伸びている。
ルゥが足を止める。
「ここも知っている気がする」
「何に使った?」
「分からん」
ユアンは《魔力視》を短く使った。台座の溝にはごく弱い光が残り、壁の中の線へ繋がっている。ただし3つの窪みのうち2つは完全に暗く、残る1つだけが途切れそうに明滅していた。
「まだ動いてる部分がある」
ガルドが触れようとして手を止める。
「押すなよ」
「押さない」
「お前も好奇心強いだろ」
「お前ほどじゃない」
シキナが2人を見た。
「どっちも触らない」
ユアンは素直に手を引いた。未知の装置を試すことと、調査することは違う。何が起きるか分からない場所で、答えを急ぐ必要はない。
台座の位置と形だけを写し取り、管理局へ回すための印を地図へ付けた。
分からないことが増えるほど、黒鉄地下城の静けさが不気味に感じられた。
ユアンは自分が《魔力視》を得たことを少し後悔しかけた。見えなければ気づかなかった線がある。見えたせいで、その先が気になる。能力を得ることは答えを得ることではなく、質問を増やすことなのかもしれない。
「後悔してる?」
シキナが隣で聞いた。
「何を」
「眼を核にしたこと」
考えを読まれた気がして、ユアンは少し驚く。
「後悔まではしてない。でも、便利だから取って正解だったとはまだ言えない」
「それならいいと思う」
「何が?」
「前は新しい力が使えると、まず使い道を考えてたから」
ユアンは返事に詰まった。確かにそうだった。
「今は?」
「使わない方がいい時も考えてる」
「少し進歩したね」
「少しか」
シキナは小さく笑った。
さらに進む途中、通路脇にC級《岩甲ヤギ》の死骸が横たわっていた。角の片方が折れ、背中には大きな裂傷がある。だが食べられてはいない。
ユアンは手袋をはめて傷を見る。
「新しい。数時間くらい」
シキナが周囲を警戒する。
「何にやられた?」
「裂傷は大きいけど、これだけじゃ分からない。角が前に折れてるから、逃げながらどこかへぶつかった可能性もある」
《魔力視》を短く使うと、死体にはもうほとんど魔力が残っていない。ただ、傷口の周囲だけ焼けたように流れが途切れていた。
「魔法?」
ガルドが聞く。
「そう見えるけど断定できない。死後に魔力が抜けたせいかもしれない」
ユアンは死骸をそのまま記録した。調査対象として回収札を打つ。核にすることは考えなかった。処分権がないだけでなく、今は異常の証拠を残す方が重要だった。
少し先には、壁を擦った跡が長く続いていた。高さがばらばらで、1種の魔獣が残したとは考えにくい。大小の魔獣が同じ方向へ密集して走った痕跡に見える。
「群れじゃないな」
ユアンが言う。
「別の種類が同じ方向へ動いてる」
シキナの顔から、わずかな柔らかさが消えた。
「翡翠樹洞より広いかもしれない」
その言葉を否定できなかった。
さらに進むと、前方から細かな足音が聞こえた。
シキナが手を上げる。
全員が止まる。
曲がり角の向こうから、D級《裂爪ネズミ》が5匹現れた。
本来なら群れで獲物を探す魔獣だが、こちらを見る余裕すらない。
真っすぐ上層方向へ走ってくる。
「避ける」
シキナが言う。
4人が壁際へ寄る。
裂爪ネズミたちは目の前を通り過ぎた。
1匹だけ足をもつれさせて転んだが、すぐ立ち上がり、仲間を追う。
「俺たちを無視した」
ガルドが言う。
「餌として見てないくらい急いでる」
ユアンは後ろ姿へ《魔力視》を向けた。
5匹の魔力は乱れている。
傷や病気の乱れ方ではない。
全身の魔力が同じ方向へ偏り、背後にある何かを拒むように揺れている。
「待って」
ユアンは視線を戻す。
裂爪ネズミが来た方向を見る。
何もいない。
だがそちらへ向けると、視界の端で魔力がわずかにざらついた。
「何?」
シキナが聞く。
「こいつら、同じものから離れてる気がする」
「見えるの?」
「身体の魔力が同じ方向に偏ってた。進んできた方を見ると反応が強くなる」
ガルドが聞く。
「恐怖?」
「たぶん。でも魔力の乱れが恐怖そのものかは分からない」
言葉を慎重に選ぶ。
《魔力視》で見えるのは魔力の動きだけだ。感情に名前が書いてあるわけではない。
「進む?」
ユアンが聞く。
シキナは地図を見る。
「正式な観測地点まではあと少し。そこまでは行く。異常が強くなったら戻る」
再び歩き出す。
途中、崩れた広間へ出た。
天井の半分が自然岩で、残り半分は黒鉄板に覆われている。中央には折れた柱が何本も倒れ、その奥には壁しかない。
ユアンはそこで足を止めた。
何かが気になる。
音ではない。
匂いでもない。
「見る」
《魔力視》を使う。
黒鉄壁の細い線が見える。
その線が広間の奥で集まり、壁の向こうへ流れていた。
太い。
これまで見たものとは比べものにならない。
「何だ、これ」
ユアンは無意識に近づいた。
ガルドが肩を掴む。
「何がある」
「流れ」
「壁の向こう?」
「ああ。川みたいに太い」
光の流れは黒鉄壁を抜け、さらに地下へ落ちている。
物理的な壁が透けて見えているわけではない。だが魔力の強さだけが、壁越しにも滲むほど濃い。
ユアンは目を細めた。
もっと奥を見ようとする。
光の向こうに、大きな影のようなものが動いた。
生き物なのか、設備なのか分からない。
巨大だった。
その瞬間、視界が白く弾けた。
「っ!」
目の奥へ激痛が走り、ユアンは膝をついた。
《魔力視》を切る。
何も見えない。
真っ白な残像だけが残る。
「ユアン」
シキナの手が肩へ触れる。
「見える?」
「少し待って」
まぶたを閉じる。
白い光の中に黒い点が浮かぶ。
呼吸を整えると、少しずつ暗さが戻った。
「何を見た?」
ユアンは答える前に自分の記憶を確かめた。
大きかった。
動いた気がした。
それだけだ。
「分からない」
「生き物?」
「分からない。大きな何かが動いたように見えた。でも魔力の流れが揺れただけかもしれない」
シキナはしばらくユアンを見た。
「ここから先、《魔力視》は必要な時だけ」
「まだ見られる」
「見られることと、見ていいことは別」
ガルドも言う。
「目を潰してまで調べる価値はない」
ユアンは口を閉じた。
以前なら、答えが少し先にあると感じたら、もう1度見たかもしれない。
今も見たい。
指輪の時と同じだ。
分からないものがあると、確かめたくなる。
だが視界が戻るまでの20秒ほど、自分は何もできなかった。あの時、魔獣が来ていればシキナかガルドに守られるしかなかった。
「分かった」
シキナが少しだけ表情を緩める。
「なら進もう」
「戻らないの?」
「観測地点まではあと200メートル。目を使わず行ける。そこで判断する」
ユアンは頷く。
歩き出してすぐ、視界の端がまだわずかにちらついていることに気づいた。強い光を見た後のような残像が消えきっていない。
「本当に歩ける?」
シキナが速度を落とす。
「歩ける。細かい字は今読みたくないけど」
「次に使う時は私に言って」
「許可が必要?」
「止めるためじゃない。使った後に見えなくなったら、私たちが知ってないと困る」
言われて納得した。能力の仕組みを秘密にする段階は過ぎた。同行者が危険を引き受ける以上、反動まで共有する必要がある。
「分かった」
ユアンは答えた。
広間を離れる前、もう1度黒鉄壁を見る。
もちろん今は普通の黒い壁だ。
ルゥが隣へ来た。
「嫌な感じがする」
「何が」
「下だ」
「何がいる?」
「分からん」
「そこは変わらないな」
「だが、昔もここは静かではなかった気がする」
ユアンはルゥを見る。
「思い出した?」
「欠片だ。誰かが走っていた。遠くで大きな音がしていた」
「誰が?」
ルゥは目を閉じる。
しばらくして首を振った。
「出てこない」
無理に聞いても仕方ない。
「分かった」
歩き出す。
下層境界の観測地点が近づくにつれ、床の傷は増えた。大きな爪跡、割れた黒鉄板、乾いた血痕。どれも上層側へ向かっている。
ユアンは胸の奥に重いものが溜まるのを感じた。
何かが下から上へ押し上げている。
その考えは、まだ仮説にすぎない。
だからこそ、次に見つけるものが怖かった。




