硬化
鋼角熊を載せた簡易そりを引き、3人は討伐地点から約100メートル離れた広い場所まで移動した。左右を見渡せ、退路も2方向ある。
ユアンは討伐時刻を確認した。
まだ30分も経っていない。
「ここでやる」
シキナが周囲を確認して頷く。
「長居しないなら」
ユアンは鋼角熊へ右手を置いた。
《スキル核作成》を発動すると、巨大な身体の輪郭が淡く光り始める。灰褐色の毛皮も黒鋼色の角も、骨も血も細かな粒子へ崩れ、最後には跡形もなく消えた。
透明な核が地面へ残る。
これまでのものより1回り大きい。
シキナが覗き込む。
「それが核なんだ」
「ああ」
「C級だと大きくなる?」
「分からない。C級で作ったのは初めてだ」
「大きさだけ記録していい?」
「構わない」
《スキル核作成》そのものは秘密ではない。C級魔獣を核化した時に、これまでより大きな核ができたという事実まで隠す必要はなかった。
シキナが寸法だけを記録する。
ノアは何もなくなった地面を見てため息をついた。
「やっぱり惜しいな」
「何が」
「角、毛皮、腱」
「言うと思った」
「売ればしばらく飯に困らなかったぞ」
ユアンは透明な核を見る。
「分かってる」
シキナが横から聞く。
「後悔してる?」
「まだ結果が分からないから、今は何とも言えない」
「そう」
シキナはそれ以上、なぜ核にしたのかを聞かなかった。
ユアンは核を革袋へ入れる。
透明な核の中で揺れる光を見ながら、ユアンは一瞬だけ黒鋼色の角を思い出した。あれだけでも相当な値が付いたはずだ。毛皮も腱も骨も使い道がある。核を選ぶということは、目の前にある確実な金と素材を全部捨てることでもある。
それでも今回は迷いが少なかった。
影猫の時とは違う。C級を自分たちで倒せた理由を、もう1つ確かめたいという気持ちがあった。今の自分には、単に高価な装備を買うより、指輪がどこまで変化するのかを知る価値の方が大きい。
ただし、それが毎回正しいとは思わない。
次に同じ鋼角熊を倒したなら、核ではなく素材を残すかもしれない。
選択肢が増えたからこそ、全部を能力へ変えればいいわけではなかった。
その日の調査はここで打ち切りになった。ノアの魔力はほとんど残っておらず、ユアンも右腕と肩に痛みがある。大型個体の回収位置へ標識を残し、安全区画へ戻る。
帰路ではシキナが先頭を歩き、時折2人の歩調に合わせて速度を落とした。
「普通に歩いていいぞ」
ユアンが言う。
「置いていったらバルドに怒られる」
「俺たちのためじゃないのか」
「結果は同じ」
ノアが笑う。
「そういうところ似てるな」
「誰と誰が」
「言わない」
安全区画へ戻ると、ユアンは肩の傷を洗い、ノアに最低限の治癒補助を受けた。
「今日はもう変なことするなよ」
「しない」
「信用できない」
「何で」
「熊相手に『もう少し』って言った奴だから」
シキナも横から言う。
「私も信用しない」
「味方がいない」
夕方、シキナが周囲の警戒札を確認しに出た。姿が曲がり角の向こうへ消え、足音も聞こえなくなってから、ノアがユアンを見る。
「今?」
「ああ」
「C級の核か」
「消えるまで待つ理由はない」
ユアンは革袋から透明な核を取り出した。
黒銀の指輪へ近づける。
古い紋様が淡く光り、核が溶けるように吸い込まれた。
腕から胸へ、これまでより重い感覚が流れ込む。
頭の奥に《硬化》という名が浮かんだ。
ユアンは前腕へ意識を向けた。
そこで違和感に気づく。
「《硬皮》がない」
ノアが身を起こす。
「消えた?」
ユアンは指輪の中を探る。《瞬駆》《暗視》《振動感知》《気配希薄》は残っている。《硬皮》だけが見当たらない。
その代わり、《硬化》の奥に似た感覚が重なっていた。
「たぶん違う」
「何が?」
《硬化》を弱く使う。
前腕の皮膚が張る。以前の《硬皮》とほとんど同じ感覚だった。
「試す」
「待て。お前の試すは怖い」
ユアンは出力を少し上げた。
皮膚だけではなく、その下の筋肉まで締まり、腕の重さが変わる。
ノアが木片で軽く叩くと、鈍い衝撃はあるが以前より痛みが浅い。
さらに強くする。
前腕全体が石のように固くなった。
代わりに肘がほとんど曲がらない。剣の柄を握ろうとしても、指先の細かな動きが鈍る。
ユアンはすぐ力を抜いた。
数秒遅れて腕が戻る。
「強いけど、そのままじゃ戦いにくいな」
ノアが言う。
「場所と出力を選ばないと駄目だ」
手の甲だけを弱く固める。次に肘から先を少し強くする。範囲を狭くすれば動きを残せる。逆に腕全体を強くすれば受けには使えるが、その直後の反撃は遅れる。
「《硬皮》を残したまま《硬化》も使えた方が便利そうだけどな」
ノアが言う。
「指輪はそうしないらしい」
「同じ系統だから?」
「まだ1回しか起きてない。決めつけない方がいい」
「そこはいつも通りだな」
ユアンは指輪の内側をもう1度確かめた。
鋼角熊と戦い終えた時、すぐ使える状態だったのは《瞬駆》《気配希薄》《硬皮》だった。今は《硬皮》の代わりに《硬化》が収まり、《硬皮》の感覚だけが完全に消えている。
休ませていた《暗視》《振動感知》も残っていた。
数が減ったわけではない。
同じ系統だけが整理されたと考える方が自然だった。
「すぐ使える数は?」
ノアが聞く。
「3つのまま。今は《瞬駆》《気配希薄》《硬化》だ」
「じゃあ《硬皮》が《硬化》に置き換わった?」
「たぶんな」
「便利だけど、怖くもあるな」
「何が」
「勝手に整理されるところ。お前が決めてるわけじゃないだろ」
ユアンは指輪を見る。
確かにそうだった。
能力を得ることも、上位の力が下位を取り込むことも、指輪側に何らかの規則がある。ユアンは利用しているだけで、その規則自体を支配しているわけではない。
「だから試すしかない」
「身体で?」
「できれば違う方法で」
「その言葉は覚えとく」
ユアンはもう1度だけ《硬化》を使った。今度は右手の甲だけを強く固め、肘と指はほとんど変えない。
拳を握る。
動く。
次に前腕の外側だけを固める。
これも動く。
「部分ごとに変えられるのか」
ノアが興味深そうに見る。
「細かくやるほど集中がいる。でも、全部まとめて固めるより使える」
「攻撃を受ける瞬間だけ?」
「それが理想だな。早すぎると動けないし、遅ければ間に合わない」
「面倒な能力だな」
「強い能力ほど雑に使えると思うな」
自分に言い聞かせるように言った。
《硬皮》は常に一定の防御を上乗せするだけだった。《硬化》は明らかに強い。だが強くする場所と時間を間違えれば、自分から動きを止めることになる。
単純な上位互換ではない。
使い方まで含めて初めて上位になる。
ユアンはその点も手帳へ書こうとした。
その時、指輪が熱を持った。
「熱っ」
右手を見る。
黒ずんだ銀の表面へ、これまで見たことのない細い光が走っている。
1本、2本と紋様が広がり、指輪全体が脈打つように明滅した。
「ノア」
「俺じゃない!」
「何も言ってない」
「絶対見ると思った」
光がさらに強くなる。
地面の魔導灯の火が揺れ、周囲の魔力が指輪へ吸い寄せられるような感覚があった。
ノアが剣へ手を伸ばす。
「止められる?」
「分からない」
「指輪外す?」
ユアンは一瞬考え、首を横に振る。
「今外して止まる保証がない。無理に触らない方がいい」
これまで核を吸収した時とは明らかに違う。
跳脚兎、夜爪猟犬、鎧甲蟲、震尾蜥蜴、影猫、鋼角熊。どれか1つだけが特別だったというより、何かが少しずつ蓄積し、今の核で境界を越えたように感じる。
指輪の内側にあるものが、今までよりはっきりと脈打っていた。
スキルそのものとは違う。
もっと土台に近い場所で、閉じていた何かが軋みながら開こうとしている。
ユアンは思わず息を止めた。
「痛い?」
ノアが聞く。
「いや。変な感じがするだけだ」
「魔力持っていかれてる?」
「俺の魔力とは違う」
自分の魔力は減っていない。それなのに指輪の周囲へ別の流れが集まり、空気だけが重くなっていく。
ノアもそれを感じたのか、冗談をやめて盾を手元へ引き寄せた。
足音が近づいた。
「ユアン?」
シキナが戻ってくる。
ユアンは反射的に右手を背へ隠しかけたが、光は服越しでも分かるほど強い。
シキナの手が《暮断》へ伸びる。
「何が起きてる?」
「分からない」
シキナはユアンの右手を見る。
「その指輪?」
答えるより先に、指輪から銀灰色の光が噴き出した。
ノアが盾を構え、シキナも《暮断》を抜く。
光は空中で渦を巻き、4本の脚を作り、長い尾と獣の頭部を形作っていく。
敵意は感じない。
それでも3人とも武器から手を離さない。
銀灰色の光の中で、青白い2つの目が開いた。
低い声が響く。
「……ようやく、開いたか」
光が収まる。
そこにいたのは大型犬ほどの狼だった。銀色の毛並みは焚き火の光を受けて淡く輝き、首から肩、四肢へ黒い古代紋様が浮かんでいる。立った耳の下には青白い瞳があり、獣というより人間に近い理性が宿っていた。
狼はノア、シキナの順に見て、最後にユアンへ鼻先を近づける。
「……お前が主か?」
ユアンは答えに迷った。
「たぶん」
狼はユアンを上から下まで眺めた。
「弱いな」
ノアが口を開く。
「出てきて最初にそれ?」
シキナは黙って狼を観察する。
やがて、少し首を傾げた。
「犬?」
狼の耳がぴんと立つ。
「狼だ!」
怒鳴り声が安全区画へ響いた。




