2頭の鋼角熊
中層へ入る前、ユアンは人目につかないところで指輪の状態を組み直していた。明るい地上戦を想定し、《暗視》と《気配希薄》を休ませ、《瞬駆》《振動感知》《硬皮》をすぐ使える状態にしている。
前方に現れた鋼角熊は、立ち上がれば3メートルを超えそうな大きさだった。灰褐色の厚い毛に覆われ、額から前方へ湾曲した黒鋼色の角が2本伸びている。肩回りは鎧のように発達し、前脚の1振りだけで人間の骨を折れる。背後の個体も1回り小さいだけで、十分にC級の威圧感があった。
「親子?」
ノアが言う。
シキナは2頭を見比べる。
「大きさが近い。たぶん違う」
鋼角熊は本来、成獣同士なら縄張りを分ける。こんな近距離で同じ方向へ動いていること自体がおかしい。
前方の大型個体が低く唸り、背後の個体も身体を沈めた。左右には太い樹根が壁のように立ち、2頭が合流すれば退路を失う。
シキナが《暮断》を抜いた。
「大きい方を私が止める」
ユアンが背後を見る。
「こっちは?」
「任せる」
「逃げるかもしれない」
「それでもいい」
シキナは前へ出た。
「無理なら下がって。どうするかは任せる」
大型の鋼角熊が咆哮した。
シキナが走る。
ほぼ同時に背後の個体も地面を蹴った。
「来る!」
ノアが障壁を張る。
鋼角熊が薄青い膜へ激突した。障壁が大きくたわむ。
「重い!」
ノアが歯を食いしばる。
地面を踏む四肢の振動がユアンの足裏へ届く。巨体の割に速い。障壁が砕ける直前、熊の右前脚が深く沈んだ。
「右へ来る!」
ノアが横へ飛ぶ。
障壁が割れ、鋼角熊がそのまま前脚を振った。
ユアンは《瞬駆》を弱く使って側面へ入り、前脚の内側へ剣を滑らせる。刃は厚い毛を切り、皮膚へ浅く食い込んだだけで止まった。
「硬いな」
熊がユアンへ向く。
横薙ぎの前脚が迫る。
避け切れない。
《硬皮》を右腕へ集中し、剣の腹も使って受けた。
衝撃が骨まで抜け、身体が横へ飛ばされる。背中から根へぶつかり、肺の空気が一気に抜けた。
「ユアン!」
「平気!」
すぐ立つ。袖は裂けたが、皮膚は浅い擦り傷だけだった。ただし腕全体が痺れている。《硬皮》は爪を防いでも、巨体の衝撃までは消さない。
鋼角熊がまた走る。
踏み込みの振動を先に拾い、ユアンは横へ外れた。ノアが障壁を斜めに出し、進路を半歩ずらす。
熊の角が根へ突き刺さった。
「今!」
前脚の付け根へ剣を入れる。
今度は少し深い。
熊が暴れて角を抜く。ユアンは追わず距離を取った。
「倒すつもり?」
ノアが叫ぶ。
「まだ決めてない!」
「早めに決めて!」
前方ではシキナと大型個体が戦っている。《暮断》を持つ黒い人影が巨体の正面へ入り、攻撃を紙一重で外しながら同じ場所へ刃を重ねていた。
助けを求めれば来るかもしれない。だがシキナが持ち場を離れれば、あちらの熊まで合流する。
ユアンは背後の通路を見る。
逃げられないわけではない。ただし背中を向けた状態では熊の方が速い。
なら先に、追われても逃げられる形を作る。
鋼角熊が再び突進した。
右前脚の踏み込みが先に来る。体重が左へ移る。
ユアンは直前に外れ、また同じ前脚の内側へ刃を入れた。
血が飛ぶ。
浅い傷が2本つながった。
熊が怒り、ノアを無視してユアンだけを追う。
「完全に嫌われたぞ!」
「分かってる!」
ユアンは倒れた巨大樹根の裏へ回り込んだ。視界が切れる。
今なら昨日得た力が使える。
問題は、現在それをすぐ使える状態にしていないことだった。
「ノア、少し時間くれ」
それだけでノアの表情が変わる。
「どれくらい?」
「少し」
「一番困る答えだ!」
理由は聞かなかった。
ノアが前へ出て1枚目の障壁を張る。
ユアンは指輪へ意識を沈めた。《振動感知》を休ませ、《気配希薄》へ切り替える。
戦闘中の切り替えは重い。意識を取られ、周囲の音まで遠くなる。
1枚目の障壁へ鋼角熊がぶつかる。
ひびが走る。
ノアが2枚目を重ねる。
「まだ?」
ユアンは答えない。ここで焦れば切り替えを失敗する。
1枚目が砕ける。
鋼角熊が2枚目へ激突した。
感覚が入れ替わる。
「いい!」
ユアンは根の陰で息を殺した。
2枚目の障壁が破れる。鋼角熊は正面のノアへ顔を向けた後、ユアンを探して左右へ首を振る。
視線が外れた。
ユアンは《気配希薄》を使った。
足音まで消えるわけではない。靴を滑らせないよう慎重に根の反対へ回る。
熊の反応が1拍遅れた。
その1拍で十分だった。
ユアンは《瞬駆》で一気に距離を詰めた。
死角へ入り、傷つけていた前脚の内側へ剣を深く突き込む。
鋼角熊が絶叫した。
ユアンは刃を抜く。
直後、爪が後ろから来た。
《硬皮》を肩へ集中する。
革鎧が裂け、身体が地面へ叩きつけられた。皮膚は深く切れていないが、肩の奥が焼けるように痛む。
「ユアン!」
ノアの障壁が熊の顔へ張りつくように出て、視界を塞いだ。
ユアンは転がって離れる。
「下がる?」
ノアが叫ぶ。
ユアンは熊を見る。前脚からかなり血が出ている。踏み込みも浅い。最初より相手の動きは明らかに落ちていた。
「もう少し」
「お前のもう少し怖いんだよ!」
熊が障壁を破る。
ユアンは真っすぐ逃げず、根の陰へ入る。視線が切れたところで再び《気配希薄》を使う。
鋼角熊がほんの一瞬だけ位置を迷った。
ノアが反対側へ石を投げる。
熊がそちらを見る。
ユアンは《瞬駆》で前脚側へ入った。
今度は剣ではなく、背中へ括っていた細い予備槍を抜く。
解体で何度も見てきた構造を頭へ浮かべる。前脚の内側には、発達した肩肉を避けて胸腔へ抜ける角度がある。
槍を突く。
浅い。
熊が身体を振る。
「ノア、左!」
障壁が横から巨体へ当たり、半歩だけ姿勢を崩した。
槍の角度が変わる。
ユアンは両手で押し込んだ。
肉を抜け、手応えが急に軽くなる。
胸の奥へ入った。
鋼角熊が立ち上がる。
ユアンは槍を手放し、《瞬駆》で退く。
熊は1歩、2歩と追った。3歩目で傷ついた前脚が崩れ、巨体が地面へ落ちる。
低い息が漏れ、口から血が流れた。
すぐには近づかない。
前脚が1度だけ地面を掻き、その後で動かなくなる。
討伐証票が光った。
「終わった」
ノアがその場へ座り込む。
「今度こそ?」
「確認した」
ユアンも根へ背を預けた。右腕は痺れ、肩は痛み、脚も《瞬駆》の連続使用で重い。
「魔力は?」
「ほぼ空」
「悪い」
「飯2回」
「増えてる」
「命の値段だ」
前方で凄まじい音が響いた。
もう1頭の鋼角熊が倒れる。
シキナが《暮断》の血を払いながら戻ってきた。小さな裂傷はあるが、息はほとんど乱れていない。
倒れた熊と胸へ刺さった槍を見比べる。
「逃げるって言ってなかった?」
「逃げられる形を作ってたら、倒せる形にもなった」
「最初から倒すつもりじゃなかった?」
「本当に逃げるつもりだった」
シキナは傷が集中している前脚を見る。
「途中で変えた?」
「ああ」
「ならいい」
ノアが座ったまま手を上げた。
「俺は良くない。もう何も出したくない」
シキナがノアを見る。
「よく耐えたね」
ノアが目を丸くする。
「今、褒められた?」
ユアンが言う。
「たぶん」
「お前までその返事やめろ」
3人で短く笑った。
少し呼吸が落ち着くと、シキナがユアンの右肩へ目を向けた。
「さっき、爪を受けたよね」
「浅い」
「見せて」
「大丈夫だって」
「大丈夫かどうかは見てから決める」
ノアが笑う。
「諦めろ。今日は現場責任者が2人いる」
「増やすな」
革鎧の裂け目を開くと、皮膚には赤黒い打撲が広がっていた。傷そのものは浅いが、まともに受ければ肩を砕かれていてもおかしくない。
シキナは傷と倒れた鋼角熊を見比べる。
「今のユアンがC級を普通に倒せるとは思わない方がいいね」
「分かってる」
「本当に?」
「ノアと地形がなかったら無理だった。最初の障壁がなければ、切り替える時間も作れなかった」
シキナは短く頷く。
「ならいい」
勝ったという事実だけを見れば、自分がC級へ届いたようにも思える。だが実際には、ノアの障壁が何度も攻撃を受け、地形が熊の進路を限定し、解体で知った構造を同じ場所へ積み重ねてようやく届いた結果だった。もう1度同じ条件が揃う保証はない。
それでも、逃げる以外の選択肢を自分たちで作れたことは残る。
ユアンにとっては、その方が討伐証票に刻まれたC級の文字より意味があった。
シキナは自分が倒した個体を調べる。腹部の毛へ赤茶色の粉が付着していた。
ユアンも指先で少量を取る。
「この辺の土じゃない」
ユアンが倒した個体の足裏にも、硬い泥と細かな白色結晶が詰まっている。
ノアが顔をしかめた。
「2頭とも深いところから?」
「可能性はある」
「もっと強い何かに追われてるとか?」
「そこまでは分からない」
シキナも頷く。
「だから今日は進まない。2人とも消耗してる」
勝った直後だからこそ先へ進める気もする。だが腕の痺れとノアの顔色を考えれば、進む理由の方が少なかった。
シキナは大型個体を見た。
「こっちは調査用として残す。毛、血、内臓、足裏の付着物を全部取る」
ユアンが自分の倒した個体を見る。
「こっちは?」
「外見、寸法、足跡、傷の位置を記録する。同種の物理試料はもう1頭から取れるから、それが終わったら処分権はユアンでいい」
「なら核にする」
シキナの視線が、熊の角と毛皮へ向いた。
「素材価値、高いよ」
「分かってる」
「それでも?」
「ああ」
シキナは数秒だけユアンを見る。
「処分権はユアンにある。決めたなら止めないけど。なるほど、、、」
理由までは聞かなかったが、何か考えているようだ。
ユアンは少しだけ肩の力を抜いた。
調査に必要な記録と採取を終える。血の匂いが濃くなっているため、ここで長居はできない。
討伐時刻を確認すると、死後60分までまだ余裕がある。
「100メートル先に見通しのいい場所があった」
シキナが言う。
「そこで処理しよう」
3人は太い根を組んだ簡易そりを作り、ユアンが倒した鋼角熊を載せた。
ノアが縄を持って呻く。
「倒した後まで重い」
「C級だからな」
「そういう問題?」
シキナも無言で3本目の縄を持つ。
3人で巨体を引き、血の匂いが濃い戦闘地点を離れた。




