影猫
夜明け前から、何かが3人を尾行していた。
姿はほとんど見えず、足音もしない。ユアンが地面から拾えるのは水流と小型魔獣の動きだけで、昨夜から続いている視線の正体までは捉えられなかった。
「気持ち悪いな」
ノアが声を落とす。
「昨日のやつ?」
「ああ」
ユアンは頭上へ視線を向けた。翡翠樹洞の中層近くでは、巨大な根が天井から天井へ橋のように伸びている。地面を踏まずに移動しているなら、《振動感知》が役に立たないのも当然だった。
シキナも上を見る。
「地面じゃないね」
「たぶん」
ユアンは《暗視》へ意識を向けた。緑色の魔晶光が薄れ、代わりに根の輪郭が鮮明になる。右上で長い尾のような影が動き、すぐに根の裏へ消えた。
「いた」
剣へ手を伸ばす。
シキナは《暮断》を抜かず、少し後ろへ下がった。
「任せる」
「何で」
「今の3人なら対応できると思う。危なくなったら入る」
ノアが嫌そうな顔をした。
「俺も数に入ってるよな?」
「もちろん」
「もう少し安心できる言い方して」
ユアンはノアを少し後ろへ置き、自分は根の多い側へ立つ。
黒い影が左へ移った。
速い。
「来る」
シキナが言う。
ほぼ同時に影が落ちてきた。
《影猫》だった。大型犬ほどの身体を黒灰色の毛で覆い、細長い四肢の先には湾曲した爪が伸びている。顔の両脇には柔らかな長毛があり、着地寸前まで空気を切る音すらほとんど立てない。
狙いはノアだった。
「やっぱり俺か!」
薄青い障壁が展開する。
影猫は前脚を膜へ当てたが、そのまま着地せず、障壁そのものを蹴って横の根へ飛び移った。
ユアンは追わない。
目で追えば間に合わない。
次に飛べる場所を見る。
影猫が乗った根は先端ほど細く、体重を受けてわずかに沈んでいる。そこから届くのは左の岩棚か、正面の垂れ根くらいだった。
枝が揺れる。
「ノア、左を狭めろ!」
「了解!」
障壁が岩棚側へ斜めに出る。
影猫が跳び出した瞬間、逃げ道が1つ潰れた。空中で身体を捻り、垂れ根へ向かう。
ユアンは《瞬駆》を弱く使って2歩分だけ距離を詰めた。改修した靴で着地し、重心が戻ってから剣を振る。
刃が肩口を裂いた。
影猫が甲高い声を上げ、根の裏へ消える。
「当たった?」
「浅い」
《暗視》の中では、根の上へ落ちた血の跡がはっきり見えた。
「右へ回ってる」
影猫は同じ動きをしなかった。今度は根から根へ細かく移り、ユアンの視線を切ろうとする。
学習している。
ユアンは魔獣そのものではなく、周囲を見る。
葉が1枚だけ逆方向へ揺れた。
根の表面から粉が落ちる。
「上!」
影猫が真上から落ちてきた。
前脚の爪を剣の腹で受ける。腕へ重い衝撃が走った。
ユアンは柄で顎を押し上げる。
ほんの瞬間だけ影猫の姿勢が崩れた。
「今!」
ノアの障壁が背後へ出る。
逃げ道が消える。
ユアンは首の側面へ刃を入れた。
影猫が横へ逃げようとして障壁へぶつかる。さらに1歩詰め、同じ傷へ刃を滑らせた。
喉が切れる。
影猫は地面を何度か掻いた後、動かなくなった。
討伐証票が淡く光るまで待ってから、ユアンは剣を下ろした。
「終わり」
ノアが息を吐いた。
シキナが近づき、死体へしゃがむ。
「傷、少ないね」
「肩と首だけだ」
ユアンも反対側へ回る。
黒灰色の毛皮はほぼ無傷で、爪もすべて残っている。素材としてならかなり状態がいい。
右手を伸ばしかけたところで、シキナが言った。
「これは残して」
ユアンが顔を上げる。
「調査個体?」
「うん」
シキナは影猫の耳元に生えた長毛を指で確認した。
「上層寄りまで出てきた個体だから、毛、爪、胃の中身を調べたい。調査指定個体は組合管理になる」
ノアが補足する。
「余った素材を売った分も、今回は個人取りじゃなくて調査契約側だな」
「分かってる」
ユアンは手を引いた。
今回の契約では、調査対象と判断された魔獣の死体は組合管理になる。解体後に売却できる余剰素材が出ても、その金は調査費や危険手当へ回される。主討伐者だからといって、ユアンが勝手に処分することはできない。
逆に、調査対象とは無関係の偶発魔獣については、通常の依頼と同じく主討伐者に処分権がある。
その線引きは出発前に確認していた。
シキナは解体刀を持つユアンを見る。
「お願いできる?」
「ああ」
腹側から刃を入れる。
皮を傷めないように開き、胃を外す。中には小型獣の骨と毛が残っていた。
ユアンは骨を洗い、形を見る。
「これ、岩鼠じゃないな」
ノアが覗き込む。
「何?」
「洞棘鼠だと思う」
シキナの目が少し細くなる。
「中層より下にいるやつ?」
「ああ。少なくともこの辺では見ない」
胃の中身が新しいなら、この影猫自身がもっと深い場所から上がってきたか、深層側の獲物がここまで上がってきた可能性がある。
シキナが小袋へ骨を入れる。
「持って帰る」
影猫の毛皮、爪、長毛、胃内容物を調査試料としてまとめ、残った肉や骨も回収札をつけて近くの保管地点へ運ぶ。
調査としては十分な成果だった。
「最初の1頭から当たり引いたな」
ノアが言う。
「当たりかどうかは帰って調べてからだ」
ユアンが答える。
シキナは少しだけ笑った。
「そこは慎重なんだ」
「そこ“は”って何だ」
さらに中層側へ進む。
巨大樹根が複雑に絡み合う区画で、シキナが先に細い根橋を渡った。ユアン、ノアの順で続こうとした時、足元で乾いた音がした。
「止まれ!」
ユアンが叫ぶ。
根橋の中央に亀裂が走る。
次の瞬間、古い根が大きく折れ、橋の中央部分が下へ崩れ落ちた。
シキナはすでに反対側へ渡り切っている。
ユアンとノアは手前側に残った。
下を覗くと、10メートル以上の空間があり、折れた根が何本も重なっている。
「飛べる?」
ノアが聞く。
「お前を置いてなら」
「却下」
反対側からシキナが声をかける。
「無理に渡らないで」
「回り道ある?」
「昨日の地図だと下の通路から合流できる。20分くらい」
ユアンは周囲を見る。
「そっちも1人になるぞ」
「私なら大丈夫」
「それ言われると反論しにくいな」
シキナは根橋の向こう側から退路を確認する。
「合流標識3番で待つ。30分経って来なければ私から戻る」
「分かった」
「無茶しないで」
ユアンが眉を上げる。
「どっちが言ってる」
「ユアンに」
シキナはそれだけ言って先へ消えた。
ノアが横で笑う。
「信用ないな」
「お前に言われたくない」
2人は迂回路へ入った。
細い坂道を下り、古い水路跡のような通路を進む。シキナから離れたことで、周囲の音が急に少なく感じた。
「こういう時だけ2人になると、昔に戻った感じするな」
ノアが言う。
「昨日までずっと組んでただろ」
「シキナがいるのといないのじゃ違う」
「何が」
「安心感」
「俺じゃ足りない?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味だ」
「A級が後ろにいる安心感は別枠だろ」
それはユアンも否定できなかった。
曲がり角を抜けた時、頭上で根がわずかに沈んだ。
ユアンが止まる。
ノアも盾へ手を伸ばした。
「また?」
「たぶん」
《暗視》を使う。
左上の根に黒い影がいる。
先ほどの個体より小さい。
若い影猫だった。
「1頭目の仲間?」
「分からない」
影猫がこちらを見た。
逃げない。
むしろ身体を低くする。
「来るぞ」
今度はユアンを狙った。
根から跳び下り、正面へ爪を出す。
ユアンは《瞬駆》を使わず横へ避けた。若い分、1頭目より動きは単純だった。
ノアの障壁が退路を塞ぐ。
影猫が根へ戻ろうとしたところへ剣を入れる。
浅い。
魔獣が振り向き、爪を振る。
ユアンは後ろへ下がる。
狭い通路なので、速度を上げすぎれば壁へぶつかる。
「右へ追う」
ノアが言う。
障壁が左へ出る。
影猫が右へ逃げる。
ユアンはその先へ《瞬駆》で入った。
着地。
剣を首の下へ突き入れる。
影猫が暴れ、ユアンの肩へ爪を伸ばした。
半歩だけ外す。
刃を抜かず、角度を変える。
魔獣の力が抜けた。
しばらく待ってから討伐証票を確認する。
ノアが影猫を見る。
「どうする?」
ユアンも死体を見る。
毛皮は使える。
1頭目ほど綺麗ではないが、それでも売れば金になる。
「こいつは調査指定じゃないよな」
「今のところは」
ノアが契約内容を思い出すように言う。
「1頭目で影猫の試料は取ってる。こいつに外から分かる異常もない。偶発個体扱いなら主討伐者の処分権だ」
「お前の取り分は?」
「俺は今回、支援報酬と危険手当が固定。素材分配には入ってない」
ユアンは影猫の毛皮へ手を置いた。
「なら核にする」
ノアが顔をしかめる。
「毛皮、結構するぞ」
「分かってる」
「本当に?」
「前にも同じこと言っただろ」
ノアが眉を上げる。
「今、変な言い方したな」
「気のせいだ」
ユアンは死体の外見を確認する。目立った奇形も傷もない。1頭目で調査用の影猫試料も確保済みだ。
「やる」
《スキル核作成》を使う。
影猫の身体が淡い光へ変わり、毛皮も爪も魔核も消えた。
透明な核だけが残る。
ユアンは周囲を確認した。
シキナはいない。
ノアだけだ。
そのまま指輪へ近づける。
核が吸収され、新しい感覚が頭の奥へ流れ込む。
《気配希薄》。
同時に、これまで前面にあった感覚の1つが奥へ押しやられた。新しい力が加わったことで、すぐ使えるものがまた3つに絞られている。
「何だった?」
「気配を薄くする」
「透明?」
「そこまでは無理そうだ」
ユアンはノアに背を向けてもらい、根の陰へ移る。
新しい力を使う。
「いいぞ」
ノアが振り向く。
1度元の位置を見た後、ユアンを見つけた。
「少し探した」
「正面から見たら?」
「普通」
ユアンが靴を擦る。
「音は?」
「聞こえる」
「匂いも消えないだろうな」
「俺に嗅がせるな」
完全に消える能力ではない。
だが、視線を切った後の位置取りには使えそうだった。
核化から吸収まで終えても10分ほどだった。
2人は急いで合流地点へ向かった。
標識3番では、シキナがすでに待っていた。
「遅かった」
「影猫が1頭出た」
シキナの眉が少し動く。
「また?」
「ああ。若い個体」
「怪我は?」
「ない」
シキナの視線がユアンとノアの荷物へ移る。
「素材は?」
ユアンは少しだけ間を置いた。
「残ってない」
「固有スキル?」
「ああ」
シキナはユアンを見る。
「昨日までほとんど使ってなかったんだよね」
「最近、確認したいことがある」
「何を?」
ユアンは答えなかった。
シキナは数秒待った。
「契約上は問題ない?」
ノアが答える。
「偶発個体で、1頭目の調査試料は確保済み。処分権もユアン」
「ならいい」
それ以上は聞かなかった。
ただし何も気にしていないわけではない。
シキナの視線が、ほんの少し長くユアンへ残った。
翌朝、水場から戻る途中でユアンは新しい力を試した。太い根の陰で1度姿を切り、そのまま存在感を薄くする。
野営地まであと10歩ほどで声がした。
「ユアン」
振り向くとシキナが後ろにいる。
「……いつから分かった?」
「そこ曲がったあたり」
「ほとんど最初じゃないか」
「でも昨日より見失いやすい」
シキナはそれだけ言った。
「何で聞かない?」
ユアンが思わず尋ねる。
「何を?」
「いや」
シキナは少し首を傾げる。
「気にはなるよ」
「なら聞けばいい」
「今の調査に必要?」
ユアンは考える。
「今は、たぶん」
「なら後でいい」
それ以上踏み込んでこない。
その距離の取り方が、ユアンには少しだけ意外だった。
朝食後、3人は中層へ入った。
昨日より大型の足跡が増えている。
ユアンがしゃがみ、2つの足跡を比べた。
「熊系だ」
シキナが隣へ来る。
「大きいね」
「1頭じゃない」
「何で分かる?」
ノアが聞く。
「幅が違う。同じ方向へ進んでる」
シキナの表情が変わった。
「距離を取ろう」
誰も反対しなかった。
だが、動き出すより先に前方の太い根が大きく揺れた。
ほぼ同時に背後で重いものが地面へ降りる。
ノアが振り向いた。
「……2頭?」
シキナの手が《暮断》へ伸びる。
「鋼角熊」




