翡翠樹洞
パナリア傭兵・冒険者組合の執務室へ呼ばれた時、ユアンは灰鐘坑道の追加報告だと思っていた。扉を開けると、机の向こうでバルドが報告書をめくり、窓際にはミレナが資料を抱えている。壁際には黒い軽装のシキナ・アルヴェールが立ち、肩に届く黒髪の奥から灰黒色の瞳をユアンへ向けていた。
「翡翠樹洞へ行け」
バルドが報告書を閉じた。
ミレナから渡された資料には、パナリア北東の中規模迷宮《翡翠樹洞》で起きている異変がまとめられていた。上層で大型魔獣の爪痕が増え、地図にない亀裂が見つかり、本来は深い場所にいるはずの魔獣らしい足跡まで中層側で確認されている。
「調査隊に俺が?」
「護衛じゃねえ。目として連れていく。そいつの指名だ」
ユアンはシキナを見る。
「何で」
「よく見るから」
「それだけ?」
「十分」
バルドは鼻を鳴らした。
「痕跡確認、解体、現場観察だ。ノアも支援術師として入る。現場責任者はアルヴェールだ」
「中層まで?」
「状況次第」
シキナが答える。
「C級圏へ入るなら私が責任を持つ」
バルドが続けた。
「もう1つある。ユアンが退くと言ったら、理由を聞く前に1度止まれ」
「俺が決めるのか」
「お前だけに決めさせるわけじゃねえ。だが灰鐘で逃げる判断が最も早かったのはお前だ。役に立った判断は次も使え」
シキナは迷わず頷いた。
「分かった」
バルドは非常信号筒と帰還用の標識札を机へ置いた。
「中層から先で異常が増えたら、調査を欲張るな。見つけたことより、持って帰った情報の方が役に立つ」
「支部長がそんな慎重なこと言うんだな」
「お前にだけは言われたくねえ」
「俺は慎重だぞ」
「灰鐘で靴を壊すまで走った奴が言うな」
シキナが横から言った。
「逃げるためなら正しい」
バルドは一瞬黙り、ため息をつく。
「お前まで甘やかすな」
「甘やかしてない」
翌朝、3人は翡翠樹洞へ入った。森の斜面に開いた裂け目の内部は湿っており、天井から垂れた巨大樹根と、壁を埋める緑色の魔晶が淡い光を放っている。
ユアンは入口から少し進んだところで右手の指輪へ意識を向けた。《瞬駆》《暗視》《振動感知》を前へ出し、《硬皮》を奥へ押し込む。ノアが、シキナに聞こえない程度まで声を落とした。
「今日はどうするんだ」
「探す方を優先する」
「大丈夫?」
「先に見つけた方が避けやすい」
「見つけた後で殴られたら?」
「その時考える」
ノアは呆れたように息を吐いた。
「最近こういう言い方増えたな」
上層には組合の番号杭が打たれていたが、自然型迷宮は少しずつ形を変える。根が壁を押し、古い通路を塞ぎ、別の場所に亀裂を作るため、地図も長くは当てにならない。
ユアンは壁際で足を止めた。暗がりの根に細い傷があり、その脇へ黒褐色の体毛が1本引っかかっている。
「新しい」
シキナが近づく。
「何の?」
「まだ分からない。毛は猫系に近い」
さらに進むと足跡は途中で消えた。ユアンはしゃがみ、指先を地面へ触れる。土を通る細かな揺れを拾うと、遠くの水流と左奥の小型魔獣の動きは分かったが、大型の反応はない。
「近くにはいない」
「分かるんだ」
シキナが聞く。
「地面を歩いてるなら」
「歩いてなかったら?」
「分からない」
シキナはそれ以上聞かなかった。
ユアンは注意して歩いたつもりだったが、しばらくしてシキナが壁を指した。
「そこ」
高さ4メートルほどを這う根の側面に、3本の爪痕が走っていた。下から見れば魔晶の影と重なり、ほとんど見えない。
「見落とした」
「私もさっき気づいた」
ノアが笑う。
「珍しいな。悔しそう」
「別に」
「顔に出てる」
シキナは爪痕を見たまま言った。
「だから3人いるんでしょ」
ユアンは少し黙った。全部を自分で見つける必要はない。見えなかったものを誰かが拾えば、それを次の判断へ使えばいい。その考えは、以前より自然に受け入れられた。
上層と中層の境界近くでは、報告にあった亀裂が見つかった。太い樹根が壁を内側から押し割り、人が横向きになれば通れそうな裂け目が奥へ続いている。泥には大型獣の足跡が重なり、中層側から上層へ向かっていた。
「何かが上がってきてる」
ユアンが言う。
シキナが跡を比べる。
「1頭?」
「たぶん違う。幅が2種類ある」
ノアが亀裂を覗く。
「入る?」
ユアンは首を横に振った。
「今はやめた方がいい。狭すぎる。中で大型魔獣と会ったら退けない」
「同じ意見」
シキナも即座に答えた。
亀裂を離れる前に、ユアンは入口脇の泥へもう1度しゃがんだ。大きな足跡の縁に、小さな削れが並んでいる。
「何かある?」
シキナが聞く。
「同じ場所を何度も通ってる。1回だけなら泥がもっと崩れる」
ノアも覗き込む。
「巣でもある?」
「それなら上から下へ戻る跡も欲しい」
中層側から上層へ向かう跡ばかりで、逆向きのものはほとんどない。ユアンは解体刀の背で足跡の端を少し持ち上げた。乾いた泥の下に、さらに古い踏み跡が残っている。
「少なくとも何日か続いてる」
シキナが地図へ印を加える。
「深いところから押し上げられてる?」
「可能性はある。でも追われてるとは限らない」
「餌が減ったとか?」
ノアが言う。
「それもある。巣が崩れたかもしれないし、迷宮の形が変わっただけかもしれない」
シキナがユアンを見る。
「候補、多いね」
「だからまだ決めない」
「うん。その方がいい」
3人が立ち上がったところで、遠くから低い鳴き声が響いた。熊ほど太くはないが、小型魔獣のものでもない。音は1度だけで消えた。
ノアが盾へ手をかける。
「今の何?」
「距離がある」
ユアンは地面へ意識を向けたが、大きな振動は拾えない。
シキナが鳴き声の方向を見た。
「追わない」
ノアが少し意外そうにする。
「調査なのに?」
「見つけるために危険な道へ入るのと、見つかったものを調べるのは違う」
ユアンはシキナを見る。
「慎重だな」
「誰かに言われたくない」
「俺は慎重だぞ」
ノアが即座に首を横に振った。
「お前は慎重に無茶するだけ」
「何だそれ」
「最も止めにくいやつ」
シキナの口元がほんの少し緩んだ。
亀裂へ目印だけを残し、周囲を確認して戻る。帰路ではE級の苔背鼠がこちらを見るなり根の隙間へ逃げ込んだ。普段は人の食料まで狙う魔獣だとノアが言う。
「小さいのまで何か警戒してるのかな」
「大型が近くにいれば、それだけでも変わる」
ユアンは断定しなかった。灰鐘坑道のように誰でも分かる異常ではない。だからこそ、普段と少し違うものを1つずつ拾うしかない。
中層境界へ戻ったところでシキナが言った。
「何か変だと思ったら言って」
「A級がD級の判断を聞くのか?」
「ランクじゃなくて、見たものを聞いてる」
「間違ってたら?」
「私も見る」
即答だった。
ユアンは一瞬だけ言葉に詰まり、それから亀裂の方向を見る。
「今のところ変なのは生息域だ。灰鐘みたいに静かすぎるわけじゃない。でも深いところの魔獣が上へ動いてるなら、理由があるはずだ」
「分かった。今日はここまで」
ノアが驚く。
「もう?」
「中層へ入る前に、今の情報を整理する」
ユアンがシキナを見る。
「慎重だな」
「誰かに影響されたのかも」
「俺?」
「さあ」
野営地点へ戻ると、3人は見つけた痕跡を地図へ書き込んだ。ノアが荷袋から乾燥肉を出し、シキナが魔晶灯の光量を落とす。
「今日、戦闘ほとんどなかったな」
ノアが言う。
「調査なんだから、その方がいいだろ」
「分かってるけど、こういう日は逆に疲れる」
ユアンも少し分かった。敵が見えていれば警戒する場所を絞れる。何が変なのか分からない状態では、道も音も匂いも全部見ることになる。
シキナが地図の爪痕に印をつける。
「ユアン、明日も今みたいに見て」
「命令が雑だな」
「細かく言うと?」
「足跡、体毛、傷、糞、食べ残し、巣、魔力跡、地形変化。全部」
ノアがパンを持ったまま固まる。
「今聞いたら、急に仕事量が多く見える」
「だから解体屋を連れてきた」
シキナが言う。
「傭兵だって言ってるだろ」
「両方でいいんじゃない?」
「雑だな」
そう言いながらも、嫌ではなかった。剣の腕だけなら上は大勢いる。自分が長く続けてきた仕事まで含めて必要だと言われる方が、ユアンには納得しやすかった。
ノアが水を飲みながら笑う。
「支部長が聞いたら喜ぶぞ」
「何で」
「解体士って認め始めたから」
「認めてない」
シキナが小さく言う。
「顔に出てる」
「今日はそればっかりだな」
火を少し落とし、見張りの順番を決めた。その時だった。
地面からは何も伝わらない。
シキナも同じ方向を見ている。
「何かいる」
ユアンが言う。
「うん」
ノアが丸盾へ手を伸ばした。
火の届かない高い樹根の上で、黒い影がほんの一瞬だけ横切った。




