黒鉄工房
岩殻猪の素材と鎧甲蟲の甲殻を抱えて《黒鉄工房》を訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
工房はパナリア東区の職人街にある。
通りへ入った瞬間から金属を打つ音が響き、煤と油と焼けた革の匂いが混じっていた。
黒鉄工房の看板は古い。
鉄板に黒い槌の印が打たれ、何度も熱で歪んだ跡がある。
中へ入ると、黒鉄工房の中は、昼でも薄暗かった。
炉の火だけが赤く揺れ、壁には大小の槌、やすり、鋏、革紐が整然と掛かっている。油と煤と焼けた革の匂いが混じり、奥では金属を打つ音が一定の間隔で響いていた。
「そこ置け」
ゴードン・ヘインズは振り向かずに言った。
44歳のドワーフで、背は低いが肩幅はユアンより広い。頭頂部に髪はなく、赤褐色の髭が胸まで伸びている。革前掛けには細かな焼け跡が無数に残っていた。
ユアンは作業台へ荷物を置いた。
持ち込んだのは鎧甲蟲の甲殻と岩殻猪の腱、筋膜、それから灰鐘坑道から何度も縫い直してきた靴だった。
ゴードンは槌を置き、まず靴を持ち上げた。
裏を見る。
眉が寄る。
「走り方変えたな」
「分かるのか」
「見りゃ分かる」
「最近そればっかり言われる」
「ならお前が分かりやすいんだろ」
ゴードンは靴底の外側を指で押した。
「前は踵から減ってた。今は前が潰れて、外へ逃げてる。何した」
ユアンは少し迷った。
指輪のことを話すつもりはない。
スキル核が使えることも伏せる。
だが、装備を作る職人へ動きまで隠せば、合わないものができるだけだった。
「一瞬だけ、普通よりかなり速く踏み込めるようになった」
ゴードンが顔を上げる。
「魔法か」
「違う」
「身体強化?」
「それとも違う」
「自分でも分かってねえのか」
「使い方は分かる」
「一番面倒なやつだな」
奥から声が飛んだ。
「速いってどれくらい?」
橙色の髪が炉の横から現れた。
リオ・クラインは18歳で、人間とドワーフの混血だった。身長は153センチほどだが、腕は鍛冶仕事で鍛えられている。橙色の癖毛を後ろで雑に束ね、黄緑色の目がユアンの靴へ釘づけになった。頬と鼻には煤がついている。
「こいつは?」
ユアンが聞く。
「弟子だ」
「共同研究者!」
「弟子だ」
「細かいこと言わないでよ」
「そこは細かくねえ」
リオはユアンの靴を奪うように持った。
「何これ。変な裂け方」
「さっき同じこと言われた」
「見たい」
「何を」
「走るところ」
ゴードンが低い声を出す。
「工房の中でやるな」
「外ならいい?」
「俺に聞くな」
ユアンはため息をついた。
結局、工房裏の試験場へ出ることになった。
土は硬く踏み固められ、中央に木人が3体並んでいる。
ユアンは今の靴を履き直した。
「全力は出さない」
「出すな」
ゴードンが即答する。
弱い《瞬駆》を使う。
身体が前へ弾かれた。
数歩先へ着地する。
右足が外へ滑る。
踏ん張るため膝が内側へ入り、身体が少し遅れて止まった。
「もう1回!」
リオが叫ぶ。
「お前、それで見えたのか?」
「見えなかったからもう1回!」
「正直だな」
今度は斜めへ動く。
着地後に剣を抜く動作までつなげた。
柄が手の中でわずかにずれる。
胸当ての肩も引っかかった。
ゴードンは何も言わない。
ユアンの足元へ来て、膝と足首を順に触った。
「靴だけ固くするなら簡単だ」
「じゃあそれで」
「次は膝が壊れる」
ユアンは黙った。
リオが笑う。
「今の返事、すごく傭兵っぽかった」
「どういう意味だ」
「壊れてから考える感じ」
「俺はそこまでじゃない」
ゴードンとリオが同時にユアンを見る。
「何だよ」
「自覚ねえな」
工房へ戻る。
ゴードンは岩殻猪の腱を引き、筋膜を曲げた。
「こっちは靴だ。衝撃を受けて戻る」
次に鎧甲蟲の甲殻を持ち上げる。
「これは肩と手甲」
「胸全部じゃないのか」
「全部替えたら割れた時に困る。正面は今の鉄を残す」
説明はそれだけだった。
ゴードンは甲殻を胸当てへ重ね、余る部分へ白墨で印をつけた。
「これ、自分で取ったのか」
「ああ」
「売らなかったのは正解だな。今買えば工賃より素材代の方が高い」
ユアンは少しだけ胸を張った。
「珍しく褒められた」
「褒めてねえ。必要な材料を持ってきただけだ」
「十分じゃない?」
リオが横から言う。
「素材持ってきても、使い方を決めずに全部貼りつけてくれって人、結構いるよ」
「強い素材なら強くなると思うからだろ」
「その結果、重くて動けない鎧ができる」
ゴードンが鼻を鳴らした。
「作らねえけどな」
ユアンは岩殻猪の腱を見る。
あの時、核にできなかったから残ったものだ。鎧甲蟲の甲殻は、核にせず自分で残すと決めたものだった。
同じ素材袋に入っていても、手に入った理由はまるで違う。
「工賃は?」
ゴードンが金額を言った。
ユアンは黙った。
リオが笑う。
「素材自前なのに、その顔?」
「最近、力を試すたびに金が減る」
「何それ」
「こっちの話」
「払えねえなら胸当ては後回しにするか」
ゴードンが言う。
ユアンは財布を確かめた。
宿代と食費を残しても払える。余裕はなくなるが、壊れた靴のまま依頼へ行く方が高くつく。
「全部やってくれ」
「なら前金半分」
銀貨を机へ置く。
その音を聞いた時だけ、夜爪猟犬の毛皮が頭をよぎった。
「やっぱり素材って大事だな」
「今さら何言ってんだ」
ゴードンが呆れた。
あとは2人が勝手に話し始めた。
リオが靴底の形を紙へ描き、ゴードンが半分消す。リオがまた書き足し、今度はゴードンが黙る。
ユアンには何をしているのかよく分からない。
「俺、いて意味ある?」
「足だけ置いて帰れ」
「足は帰るのに必要だ」
「じゃあ寸法測るまで黙ってろ」
3日後、完成した装備を受け取りに来た。
靴は見た目ほど変わっていなかった。
底が少し厚くなり、足首の固定が高くなっている。中には岩殻猪の腱と筋膜が仕込まれ、踏み込んだ時の力を1か所へ集中させない構造になっていた。
籠手の手甲には薄く削った鎧甲蟲の甲殻が入っている。
胸当ても肩周りだけが軽い甲殻へ替わり、腕を前へ出した時の抵抗が減っていた。
「派手じゃないな」
ユアンが言う。
リオが頬を膨らませる。
「名前つけようって言ったのに、師匠が嫌がったから」
「いらない」
「《迅雷踏破1型》」
「絶対いらない」
「じゃあ《高速猪甲靴》」
「もっと嫌だ」
ゴードンがリオの頭を軽く叩く。
「試せ」
工房裏へ出る。
ユアンは新しい靴で地面を踏んだ。
普通に歩く分には違和感がない。
走る。
問題ない。
最後に《瞬駆》を弱く使った。
身体が前へ出て、そのまま着地する。
右足が地面を掴んだ。
外へ流れない。
衝撃はある。
だが足首だけへ集中せず、膝へ突き上がる感じも弱い。
そのまま剣を抜く。
肩が引っかからない。
木人へ踏み込み、横薙ぎに振る。
柄が手の中で逃げなかった。
刃が木へ深く食い込む。
「どう?」
リオが聞く。
ユアンは自分の足を見る。
「速くなったわけじゃない」
「当たり前だろ」
ゴードンが言う。
「靴に加速する魔法なんか入れてねえ」
「でも使いやすい」
「なら終わりだ」
「もっと喜んでよ!」
リオがゴードンへ言った。
「金払うのはこいつだ」
「俺にも喜べってこと?」
「そう!」
「ありがとう」
「雑!」
ノアが見物に来たのは、その少し後だった。
新しい胸当てを叩き、感心したように頷く。
「これ、あの鎧甲蟲?」
「ああ」
「残した方?」
ユアンはノアを見る。
リオとゴードンもいる。
ノアがすぐに言い直した。
「売らなかった方」
「ああ」
工房を出てから、ユアンはノアの肩を掴んだ。
「言い方」
「悪かったって」
「核を作れるのは知られてもいい。でも、選んで残したみたいな言い方をすると余計な疑問が出る」
「分かった。今度から気をつける」
ノアは素直に謝った。
「飯で許して」
「何でお前が奢られる側なんだ」
「この前の約束がまだだから」
「別件だ」
2人が言い合いながら職人街を抜けると、共同訓練場の脇で黒い人影が立っていた。
シキナ・アルヴェールだった。
黒い軽装に身を包み、肩に届く黒髪を風に揺らしている。腰には黒い片刃の短剣《暮断》があった。
「何してるの?」
「装備を直した」
ユアンが答える。
シキナの視線が靴へ落ちる。
「試した?」
「今」
「もう1回見せて」
ノアが小声で笑う。
「今日それ言う奴2人目だな」
「誰?」
「知らない方がいい」
ユアンは訓練場へ入った。
弱い《瞬駆》で斜めへ動く。
着地して、そのまま剣を抜く。
シキナは1度しか見なかった。
「前より止まれるようになったね」
ユアンが振り返る。
「速くなったじゃなくて?」
「速さはそんなに変わってない」
「よく分かるな」
「見れば」
シキナは近づき、ユアンの足元へ視線を落とした。
「前に見た時は、止まった後で右足が半歩流れてた」
「そこまで見てたのか」
「動く相手を見るのは仕事だから」
「俺は魔獣じゃないぞ」
「知ってる」
シキナは真顔で答えた。
ユアンは返す言葉を探したが、ノアが後ろで笑いを堪えているのが聞こえた。
「何だ」
「別に」
「今日はそればっかりだな」
シキナは気にせず、靴と胸当てを順に見る。
「鎧甲蟲?」
「分かるのか」
「軽い甲殻は見慣れてる」
「岩殻猪も使ってる」
「足?」
「ああ」
シキナは少しだけ口元を緩めた。
「その方が前より厄介」
「俺が?」
「相手が」
それだけ言って歩き出した。
ユアンはしばらくその背中を見た。
ノアが横へ来る。
「褒められたんじゃない?」
「そうなのか?」
「たぶん」
「分からないな」
「お前ら似てるとこあるよな」
「どこが」
ノアは答えず笑った。
ユアンは新しい靴で石畳を踏む。
指輪の中には4つの力がある。
だが今日増えたものは1つもない。
それでも前より動きやすい。
残した甲殻も、核にできなかった猪の腱も、ちゃんと自分の力になっている。
強くなる方法は、指輪の中だけにあるわけではない。
そのことが分かっただけでも、今回の出費は少しだけ安く思えた。




