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脅しの条件

脅しの条件

009


 薫さんが帰ってから、まだ五分も経っていなかった。


 ベッドに付いた残り香に埋もれる。テーブルにはあの日にもらった珈琲の苗が小さく、それでも僅かな成長が見て取れた。七月がもう終わる、高校教師も生徒の夏休み期間くらい休んでしまえばいいのに、暦通りの出勤で会える日は変わらなかった。


 この夏、あとどれだけ薫さんと過ごせるだろうか。そんなことを朧げに考えていた矢先、インターホンが鳴った。


 珍しかった。忘れ物だろうか、合鍵を渡しているのだからそのまま入ればいいのに。もしかして俺が玄関に出迎える瞬間を好んでくれているんだろうか。流石に都合のいい妄想か。


 足取りは軽かった。鍵を開け、扉を開いた。


「おかえりなさい」


「……ただいま。って言った方が良い?」


 笑みが、そのまま顔に残った。


 扉の向こうに薫さんは居なかった。肩まで伸びた髪に、薄手のブラウスと踵の低いサンダル。記憶にある制服姿とも、あの日の映画館での姿とも違っていた。それでも、見違えるほどの時間は経っていない。


「……久しぶり」


 彼女は俺の顔を見たまま、可笑しそうに口元を緩めた。


「そんな嬉しそうな顔で迎えてもらえるとは思わなかった」


「どうして、ここに? 家を教えた記憶はないんだけど」


「先に久しぶりくらい返してくれてもよくない?」


「……あぁ、久しぶり。本当に、随分久しぶりな気がする」


「うん。たぶん。ちゃんと話すのは二年ぶりくらいだと思うよ。あの時は、色々あったから」


 二年。彼女との関係を数えることなんて無かったけれど、それでも間違ってはないのだろう。高二の春までは、同じ六人でいることが多かった。綾原加奈ともそこで話すだけだった。高二の夏、幸助と綾原に亀裂が入ってからは、俺は幸助側としかつるまなくなった。かといって彼女に特段何かを思ったわけじゃない、映画館で痴話喧嘩はマナー違反だとか、その程度だった。廊下ですれ違えば軽い挨拶くらいはした、必要になればその分の会話はしていたはずだった。


 ただ、それだけだった。


「もしかして、誰かと間違えた?」


「お前には関係ないだろ」


「随分とニコニコしちゃって、そういう仲の子が出来たんだね。八坂って結構堅物のイメージあったから、なんか意外かも」


 彼女の視線が、俺の肩越しに覗いてることは分かった。


 玄関からでも、狭い部屋の大半は見えてしまう。二つ揃えたマグカップに、テーブルに置いたたった一つの緑、間違いを探そうと思えば幾らでも出てきてしまう。反射的に、扉を少しだけ閉じた。


「それで、今更綾原が何の用だよ」


「冷たいなぁ。せっかく同じ大学に入ったのに」


「同じ?」


「やっぱ知らなかった?」


 彼女はわざとらしく首をかしげる。


「私も県大。後期でどうにか滑り込んだ」


「聞いてなかったな」


「まぁ、言ってないしね。八坂だって私の進路に興味なかったでしょ」


 否定できなかった。


 薫さんはきっと知っていたのだろう。後期試験が終わるまで肩の力が抜けないだとか、最後の一人が決まってようやく落ち着いただとか、そんなことを言っていた気がする。あの時薫さんを待たせていた最後の一人が、彼女だったのかもしれない。


「それで、偶然近くを通って、適当にベルを鳴らしたら俺が出てきた、なんて言うのか?」


「それで納得してくれるんなら、それでもいいよ。理由なんてどうだっていい」


「納得するわけないだろ。本当だったとしても気持ちが悪いらかお引き取り願う」


「相変わらず堅物。全然可愛くない」


「最近よく言われるよ」


「それってさ」


 あまりに、簡単に彼女は口を開いた。


「先生?」


 彼女は俺の顔を見ていた。昔から人の変化には目ざとい奴だった。誤魔化すために何かを言えば、それさえ拾われて、きっと墓穴になる。


「ねぇ、八坂」


 彼女は一歩玄関に踏み込む。胸元間際に彼女の顔が来て、思わず後ろに二歩、三歩下がる。手を離した扉が音を立てて閉まった。


「久しぶりにさ。恋バナでもしよーよ」


「帰ってくれ」


「うん。そう言うと思ってた」


 断られることまで含めて、用意してきた言葉らしい。彼女は少しも困らなかった。


「じゃぁ、先生がこの部屋に入っていくとこ見たって言ったら、少しくらいは話してくれる気になる?」


「……いつの話だ」


「ほら、否定しないでしょ」


 彼女は笑った。その言葉に俺は答えなかった。


「安心して。誰にも言ってないよ。今日ここに来たのだって、正義感だとかそういう立派なものは何も持ってきてない」


「だったら、なんだよ」


「ただの興味」


 軽い言葉だった。


 それでも、そのためだけに二年まともに話してもない男の部屋まで訪れるような人間ではない。それを俺は知っている。


「前に先生がここへ入って行くところを見かけてさ。この前は、八坂がここの鍵開けてるのも見ちゃった」


「随分間が悪いな」


「私さ、今向かいのアパート借りてるんだよね。一回気になったら、ついつい確認しちゃって。で、こうなっちゃった」


 綾原は悪びれもせず、閉じた扉を背中にして笑っている。


 ここで帰れと言い続けたところで、きっと彼女には無駄だった。元々そういう自分都合で好き勝手に場を荒らす。追い出したところで彼女の持ってる好奇心なのか猜疑心を払うこともできない。きっともっと面倒なことを言い出すんだろう。


「気が済んだら、帰れよ」


「やった。じゃぁ珈琲出してよ。あるんでしょ、そんな匂いがする」


「犬かよ」


「女の勘」


「どっちだって気持ちが悪い」


 綾原は勝手に靴を脱ぎ部屋に上がった。座るように促すより先に、ローテーブルの横に腰を下ろす。薫さんの定位置とは正反対で、それだけで少し肩の力が抜けた。


 溜息をつきながら、湯を沸かし彼女が何か余計なことをしていないか見張りながら珈琲を淹れた。ローテーブルに俺のマグカップと、来客用のそれを並べる。ベッド脇のゴミ箱を彼女から離すように足で退かす。


「あれじゃないんだ」


「何が」


「いや、別に」


 綾原は片割れのマグカップを一度見てから、何事もなかったように珈琲に口を付けた。そんな間も彼女は遠慮なしに部屋を見渡す。


「あんまりじろじろ見るなよ」


「良いじゃん、初めてきたんだし」


「二度目はない」


「またそんなこと言う。でも男の一人暮らしにしては、うん。結構綺麗にしてるよね。まるで、誰かに見せるため、みたいな」


「何が言いたい」


「ちょっと生々しい。いろんなとこに女の気配がする」


 探せばきっとぼろぼろと出てくるんだろう。薫さん自身は何一つここに置いていかない。それなのに今部屋を見渡せば、俺一人で暮らしているようには見えなかった。


「特に、これとか」


 綾原がテーブルへ手を伸ばす。指先が触れる前に、小さなグラスをこちらへ引き寄せた。


「ほらね」


「繊細なんだよ、コイツは」


「八坂、こういうの興味無かったでしょ。他の植物は何もないのに、これだけは部屋の一番目立つ場所に置いてある、しかも素人が選ばないような奴」


「悪いか」


「これさ、貰いものでしょ」


 図星だった。


「だったら、どうした」


「別に。誰からもらった物なのかなって」


「植物に相手も何もない」


「あるでしょ。少なくとも八坂は、これを見ながら植物のことなんて考えてない」


 逃がした苗をテーブルの端へ置きなおす。ついさっきまで薫さんがいたベッドの傍。それが一番今収まりのいい場所だった。


「貰った時より葉が増えたんだよ」


「へぇ」


「貰ったからには枯らせないし、愛着も湧く」


「それで、いつか実がなったら先生と二人で飲むんだ」


 簡単に見透かされて、酷く居心地が悪かった。彼女を睨んでいたのだと思う。声より先に、頭が熱くなっていった。


「本当に、そうなんだ」


 綾原は声を上げて笑った。耳障りな甲高い声だった。鎌をかけられただけだった。分かってからでは遅かった。


「だいぶ重症じゃん」


「うるさい」


「八坂ってさ、もっと隠すの上手かった気がするんだけど」


「それはお前の勝手な想像だろう」


「じゃぁ、そろそろちゃんと聞こうかな」


 綾原は手に持っていたコップをテーブルに戻す。真直ぐにこちらを見て、口を開いた。


「八坂は、先生と付き合ってるの?」


「付き合ってない」


「ここまでバレてて、その答えはナンセンスでしょ」


「事実だ」


 俺たちは一度だって、そんな口約束を交わしたことはない。薫さんは俺の恋人ではない。俺も彼女の恋人ではない。土曜の夕方に来て、日曜の昼には帰る。映画を見て、本を読んで、下らない話をして、食事をして、同じベッドで眠る。


 それだけだった。


「じゃぁ、どんな関係よ」


「名前が付くような関係じゃない」


「そんな関係なのに、ここに通い詰めてるんだ」


「面倒見がいい人だったし、俺も問題児だった。元担任が教え子の様子を甲斐甲斐しく見に来てるだけだ」


「なにそれ。そんな言い訳を二人で使ってんの?」


「……言い訳じゃない」


「八坂さ。誤魔化すの下手になったよね」


「嘘はついてない」


「だから、余計に分かりやすい。私に言ってるのか、自分に言ってるのか、もうよくわかってないでしょ」


 綾原は俺の顔をまるで間違い探しでも見つけるみたいに、ゆっくり眺めて首をかしげる。


「先生がここに来てることは否定しないのに、付き合ってることだけは否定する。何の関係もないって言っておきながら、目の前で贈り物で惚気る」


「揚げ足取るなよ」


「付き合ってもないのに、今どれだけ先生が心にいるの」


 否定しなければならない。そうやって言葉を探している時点で、きっともう手遅れだった。


「薫さんが、俺の我儘に付き合ってくれてるだけだ。それ以上は、ない」


「我儘って?」


「お前に話すような事じゃない」


「ふうん」


 真っ直ぐ俺を見定めるような、その目付きが嫌いだった。


「三年の時、先生にめちゃくちゃアピールしてたもんね」


「……知ってたのかよ」


「そりゃ知ってるよ。私もたまに数学聞きに行ってたし」


「放課後?」


「うん。隣の部屋で二人になってたでしょ、五時くらいから。だから、それより前に行ってた。ちょくちょく入れ違いだったんだけど」


「そうか」


「八坂の目には入ってなかったんだろうね」


 否定できなかった。


 薫さんが赤ペンを回していたこと。珈琲の缶を傾ける仕草。問題を解く俺の手元へ顔を近づけた時の香り。それならいくらでも思い出せる。それでも、綾原と放課後職員室の前ですれ違ったとか、何かを話しただとか、全く思い出せなかった。


「それで、さっき見られたくなさそうにゴミ箱を動かしてたけど。もう、そういうことまでしてるんだ」


「帰れ」


「高校生みたいな反応するじゃん」


「お前に話すことはない」


「先生の寝顔待ち受けにするくらい?」


 反射的にテーブルに目を落とす。置いていた場所に、スマートフォンがなかった。


「おい」


 綾原の手には見慣れた黒い端末があった。いつ取られたのか分からない。取り返そうと身を乗り出すより早く、側面のボタンが押される。


 画面に光が灯った。俺の腕を枕にして安心して眠る薫さんが、そこにはいた。いつかの旅館で撮った一枚だった。


 髪は乱れたまま頬にかかり、薄い布団が口元近くまで手繰り寄せられている。起きているときは絶対に見せないような、あまりにも無防備な寝顔だった。


 綾原からスマートフォンを奪い返す。


「いい加減にしろ」


「ごめん」


 謝罪は素直だった。これっぽっちも悪いとは思っていないのだろう。綾原は目を逸らさず、ただ俺の顔を見ている。


「それで、まだ言い訳がしたいんだったら、聞いてあげるけど」


 スマートフォンを伏せて、今度は手元へ置いた。


「付き合ってない。そこに嘘はない」


「じゃぁ、何。遊び? だったら相手が悪いんじゃない?」


「違う」


「先生もそう思ってる?」


 答えられなかった。俺の気持ちだったら、何度だって言葉にできる。でも、薫さんの気持ちまで俺が決めてしまうことなんて出来なかった。


「二番目でもいい」


 口にしてしまえば、思っていたより簡単だった。


「その冗談はちょっと笑えない」


「だったら聞くな。俺は現実逃避の相手でもいいと思ってる。薫さんが俺のところに来てくれるなら、今はそれだけでいい」


「……何それ」


 綾原は何かを言いかけて、口を閉じた。


 可哀想だとか、間違っているだとか。そんな安い言葉なら聞くつもりもない。そんなことはとっくに分かってる。分かったうえで、俺は今に縋っていた。


「本当に、それでいいと思ってんの」


「あぁ」


「いつか来なくなっても?」


 答えが少しだけ遅れた。理解している。それでも想像を拒んだ。


「今、来てくれてる」


「答えになってないでしょ」


 綾原は眉を寄せる。


 きっとそれは珍しく彼女が諦めた顔だった。これ以上聞いたって仕方ないと、そんな顔だった。


「お前に理解できなくても、今の俺にとってはそれが全てなんだよ」


 意図がわからないように、彼女は首をかしげる。


「向かいのアパートって言ってたな」


「なにが」


「お前の家」


 綾原の表情から、僅かに余裕が消えたように見えた。その薄ら笑いが癪だった。


「誰かに喋ってみろ」


「それ、脅し?」


「自分で考えろよ」


 俺だけが困るのなら、まだいい。それでも、薫さんから教師として積み上げてきた物を奪う訳にはいかなかった。


「そんな顔出来たんだ」


「知らん」


「私に振られたときは、もっと何でもない顔してたくせに」


「昔の話だろ」


「うん。だいぶ昔の話になっちゃったね」


 高校一年の夏だった。趣味が悪かったとか、そんなことを言うつもりはない。ただ視野が狭くて、今よりももっと衝動的で、行動の方が目的になっていたように思う。


 告白を断られても、翌日にはそれまでと変わらずに話すことが出来た。傷つかなかった訳じゃない。それでも失うことを恐れるほどでは、きっとなかった。


 薫さんを同じように処理できるとは、思えなかった。


「分かった。黙っててあげる」


 あまりにも簡単だった。だから、安心するより先に、その言葉の続きを待った。


「でも、そんな怖いこと言うんだったらこっちにも条件がある」


「なんだよ」


「きっと、そのうち困るよ。八坂は優しいから」


 綾原は先ほど俺が伏せたスマートフォンを指す。


「その時は、必ず私に連絡して」


「どうして」


「恋バナの続きをするから。興味本位で、愚痴くらいだったら幾らでも聞いてあげる」


「それが、お前に何の得があるんだよ」


 綾原は空になりかけたコップを両手で包んだ。視線は黒い液体に落ちたままだった。


「話を聞いてあげるから、代わりに私が話したくなった時に聞いて欲しい」


「何を」


 少しだけ間があった。


「幸助のこと」


 その名前だけが、不意に部屋に戻って来て、後ろめたさを刺される。


「今更、俺と?」


「今だから、でしょ。もうすぐ、一年になるんだよ」


 綾原はそう言って笑った。軽い声だった。


「話し相手に困ってる訳じゃないよ。大学じゃそれなりに上手くやってるし、高校の時の三人とも連絡しようと思えば出来る。でもみんな県外に言っちゃったし、幸助の話をするのも変じゃん」


「草川は」


「栞とは、たまに話すよ」


 彼女は名前で呼んだ。俺の知らない時間が二人の間で積み重なっていたらしい。


「だったら、草川と話せばいいだろう」


「あの子の前で、私まで幸助を失ったみたいな顔できないよ」


 言葉が軽い。それでも、その言葉だけは上手く笑えているようには見えなかった。


「なにか相談したいとかじゃないんだけどね。今更考えたって遅いことばっかりだし」


 綾原は続ける。


「ただ、たまには幸助の名前を出しても、相手を困らせない場所が欲しかった」


 きっと、それだけだった。


 そこには正義感も、悪意もない。


 薫さんとの関係を暴きたいわけでも、俺を正しい位置に戻したいわけでもない。綾原はただ、幸助を知っている誰かと話したかった。


 思い出として、向き合いたかったのかもしれない。


「分かったよ」


「じゃぁ、約束ね」


「脅しの条件だろ、良いように言うな」


「その方が、八坂も守りやすいでしょ」


 否定はしなかった。


「それで、黙るんだな」


「最初から、喋る気なんてないって」


 だったら、この取引は最初から成立しない。綾原は俺の秘密を使って、もう一度話せる理由を作っただけだった。どこかで見覚えのあるやり口だった。


「性格、悪くなったな」


「八坂だけには言われたくないかも」


 綾原は残った珈琲を飲み干す。


「ごちそうさま。今日はもう帰る」


 立ち上がり、玄関へ向かった。綾原は靴を履いて、扉に手を掛ける。開く直前一度だけ、こちらを振り向いた。


「先生によろしく」


 返す言葉を探している間に、扉は閉まる。部屋にはまた、俺一人だけが残った。


 薫さんの残り香に、冷めた珈琲と、久しぶりに呼ばれた幸助の名前が混ざって、この部屋に漂っていた。



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