ハッピーエンド逃避行後編
ハッピーエンド逃避行後編
008
「失礼いたします。お食事をお持ちしました」
扉の向こうから、控えめな声が聞こえて、俺は彼女を抱きしめたまま入室を了承した。
「おい、馬鹿。離せ」
腕の中からくぐもった声がする。
「もう少しだけ」
「飯が来てんだろ」
背中を二度たたかれる。仕方なく腕を緩めると、彼女は簡単に抜けていく。それでも、背中には彼女の回した腕の温度がまだ残っていた。
襖が開いて、低い卓の上へ料理が並べられる。彼女の脱出が間に合って残念だったけれど、何事もなかったような顔をして乱れたワンピースの腰を払う姿は微笑ましかった。
刺身、天麩羅、山菜の小鉢。蓋の閉じた椀や、火のついた小さな鍋。名前の分からない料理も幾つかあった。色とりどりの器で埋まっていく卓上は、見ているだけで腹が膨れそうだった。
「分かっちゃいたけど、圧巻だな」
「少し多いですかね」
「少しか?」
「薫さんもいますから、大丈夫ですよ」
「私を大学生と同じ胃袋で数えるなよ」
行儀よく二人で手を合わせてから、箸をとる。並べられた料理はどれも頬を落とすほどだった。名前の分からない山菜の天ぷらを二人で適当に断定して、焼き魚の骨をどちらが綺麗に外せただとか、そんな下らない張り合いなんかもした。
小鉢へ伸びた薫さんの箸が、冷製のトマトらしいそれの前で一度だけ止まる。そのまま何事もなかったように別の皿へ逃げて、だからその小鉢を攫った。
「おい」
「子供っぽいとこもあったんですね」
「違う、後回しにしただけだ」
「そういうことにしておきますよ」
薫さんは不満そうに鼻を鳴らす。その視線は必然的に俺の傍に置いてある器に落ちた。目ざとく端にまとめた茄子の煮つけを見つけたのだろう。彼女はそれに箸を伸ばした。
「ほら、食わせてやるから口開けろ。お前も後回しにしてるだけなんだろ」
摘ままれた茄子は、彼女の箸で俺の眼前まで運ばれた。勿論苦手だった。一秒未満の葛藤の中で、それでも彼女には勝てないと降参し口を開ける。
「苦手の克服を手伝ってやれる、良い先生だろ」
こんな卑怯な手口で口に突っ込んでおいて、よくもそんなことが言えるものだと。
茄子独特のぶよぶよとした噛み応えのない食感を潰して、なんとも言えない苦手な味が広がる。それでも、その箸先で与えられれば文句はなかった。
食事を終える頃には、もう外は夜色に塗り変わっていた。食器を下げてもらって、先ほどまで埋められていた卓上だけが、やけに広かった。
窓の向こうでは、露天風呂から湯気が上がっては夜の中へ溶けている。
「ねぇ、薫さん」
「断る」
分かっていた押し問答だった。きっと体裁のためには必要な儀式だった。だからそれに付き合いながら、口付けを交わしながら、抱き上げながら、少しずつ彼女を脱衣所へ連れた。
腰を抱いたままワンピースを両肩から滑らせる。そうやって彼女の不器用を埋めるように、器用に一つ一つ落としていく。彼女は押しのけることはしなかった。ただ目を逸らして、口づけを求めれば、やっとこちらに向いてくれる。
「誠」
「はい」
「手馴れやがって、腹が立つ」
「薫さんが、沢山教えてくれましたから」
「……教育方針を間違えた」
床へ落ちる衣服が、一枚ずつ乾いた音を立てる。普段は言葉と態度でひた隠しにされた白い肌が、徐々に照明のもとに晒されていった。
初めて触れたわけではない。それでも、暗闇でなく、こうして俺の目の前に立っている。そのことに見惚れていると、薫さんが居心地が悪そうに腕を組んだ。
「まじまじ見るな」
頬が赤い。アルコールが入ったせいなのかも知れない。
「嫌でした?」
「今更、聞くなよ」
差し出した俺の手を、彼女は暫く睨んでいた。それでも、重なって、指を絡めて、その手を引いた。荒く自分の衣類を落として、曇った硝子戸を開けると、あたたかな湯気が二人の間を埋めた。
先に濡れた石へ足を踏み出したのは俺だった。その後を、薫さんは自分の足でついてきた。
*
「あー。生き返る」
湯船に肩まで浸けて、薫さんは夜空を見上げながら息を吐く。
「なんだか、おっさん臭いですね」
「人が気持ちよくなってるとこに、つまらん水を差すな」
露天風呂を囲った岩の縁に頭を預けて、目を瞑りながらもう一度長く息を吐いた。
周囲は背の高い木々に囲まれていた。葉の隙間から覗く夜空は思っていたよりも狭く、代わりに近かった。
湯の中で伸ばした足先が、彼女に触れる。「狭い」なんて悪態をつく癖に、邪魔だと押しのけはしない。足は重なって、絡んでいった。
「今日は、大人しいんだな」
隣に薫さんがいる。何も纏わずに、俺たちの肩が触れている。湯の中では足先まで絡んでいる。それでも、何かを始めようという気は起きなかった。
きっと今俺は、十分に満たされていた。
いつも、目を離してしまえば直ぐ消えてしまいそうな不安があった。この箱庭だけは彼女が何処にもいかない、そんな気がしていたのかもしれない。
「そのうち、大人しく出来なくなりますよ」
今はただ、彼女を眺めていたかった。
暫くどちらも話さなかった。沈黙を埋めたいとは思わない。流れ続ける水の音も、風で擦れる木々の音も、時折薫さんが溢す呼吸も、全部が二人だけの時間としてそこにあった。
「誠」
「はい」
「来てよかった」
薫さんは目を閉じたままだった。
「……どうしたんですか、急に素直になって」
「温泉が、だよ。勘違いすんな」
「てっきり、俺と来たことを含めてかと」
「調子に乗るな」
彼女はようやく顔を持ち上げて、俺の肩を押さえる。「ほら、沈め」大した力ではなかったけれど、抵抗せずに少しだけ湯に沈む。顎まで浸かる俺を見て、薫さんは僅かに口元を歪める。
無邪気に笑うことだって出来る。これだけ社会から離れてしまって、ようやく素直になれる。それだけで、遠くまで来た甲斐が十分にあった。
「ほら、のぼせる前に上がるぞ」
彼女が先に立ち上がり、手を伸ばす。
頬から体の輪郭を伝っていく水滴が、とても艶めかしかった。
その手を取る。濡れた石へ足を乗せても、薫さんは直ぐには離さなかった。
体を拭いて浴衣に着替える頃には、火照った肌にあたる夜の冷気が心地よくなっていた。
「少し、風にあたりませんか」
縁側の方を見る。
「虫が寄ってくるだろ」
「部屋の電気さえ消してれば、そこまで寄ってきませんよ。それに」
外は夜にしては明るく白んでいる。
「月でも見ましょう。薫さん」
「……最初からそう言え」
浴衣の袖を掴まれる。これはきっと及第点だった。
部屋の照明を落とし、縁側に続く障子を開ける。夜気が静かに入り込んで、少しだけ冷たく、それでも障子を閉めようと思う程ではなかった。
並んで縁側へ腰を下ろす。雲は無かった。
白い月が山の端から少しだけ離れ、庭の木々と石畳を淡く照らしている。隣に座る薫さんの横顔はそれだけで映えた。
湯上がりの頬にはまだ赤みが残っていて、濡れていた髪は乾ききらないまま肩に落ち浴衣の襟元に張り付いていた。几帳面に結んだ帯は、座った拍子に少しだけ緩み始めている。
さっきまで、何も隠さない姿を見ていた。それなのに、今の方がよほど目の置き場に困った。
「何だ」
眺めすぎたらしい。
「いえ。浴衣がとても似合うなと思って」
「旅館でそれを褒めるのは、だいぶ手抜きだろ」
「不思議と、さっきより色っぽい」
「前言撤回だ。それは誉め言葉ですらない」
薫さんは襟元を摘まみ、僅かに合わせを深くする。隠れてしまったせいで、余計にその下を意識した。
月明かりの下では、白も藍も曖昧になっていく。薫さんの浴衣も、庭の石も、遠くの山も輪郭だけを残して同じ夜に沈んでいた。ここだけが世界から切り離されて、俺たちを見つけられる人間は何処にもいないような、そんな気分だった。
「薫さん」
「なんだ」
「月が綺麗ですね」
「借りた言葉を、恥ずかしげもなく使うな」
あまりにも彼女らしくて、つい笑ってしまう。
「せめて月を見てから言え。私は月じゃない」
その通りだった。
「薫さん」
「今度はなんだ」
「今、凄く綺麗です」
「月か」
「そんなもの見てません」
「いつでも見れるだろ。景色を見ろ」
「嫌です」
薫さんの手が上がる。その指先は俺の頬に触れて、撫でるでもなく、確かめるように、そこに留まった。
「本当に、しょうがない奴だな」
その声があまりにも優しくて、堪えてしまうには勿体なかった。
肩に触れているだけでは、足りない。頬を撫でる手だけでも名前を呼ばれるだけでも、足りない。この人が今ここにいることを、もっと確かな形で身体に残したくなった。
もう、薫さんしか見えなかった。
「薫さん」
返事はなかった、代わりに彼女は俺の瞳を見つめていた。
「やっぱり、浴衣はよくないですよ」
「今度は気に入らなくなったのか」
「余計な想像をしてしまう。何も着ていないときより、ずっと」
「少しは我慢してみろ」
「もう、限界です」
頬にあった手を取る。指を絡めると、薫さんは一度だけその手を見た。それでも、解こうとはしなかった。
「随分、堪え性がなかったな」
「俺にしては、よく持った方でしょう」
「赤点だよ」
「だったら、何度だって追試をしてください」
「断る」
口ではそう言いながら、繋がれた手で薫さんの親指が俺の甲を撫でる。それがどんな意味なのか尋ねるほど、俺はもう冷静ではなかった。
重ねた手を引いて、彼女の身体をこちらに傾ける。反対の手を腰へ回して、そのまま縁側に押し倒す。板張りが小さく軋んで、解けかけた浴衣の裾から白い足が覗く。
「今だけでいいんです」
「ほんと、馬鹿な奴だよ」
呆れた声だった。続きは唇で塞いだ。月明かりの下で、浴衣の布が擦れる。薫さんの指が俺の浴衣を強くつかみ、離れかけてはまたお互いにその距離を埋めた。
二枚の浴衣は、縁側から布団まで縺れたまま雪崩れ込んだ。一度は離れた袖が、また重なってその度に皺を増やす。帯は解けて空回り、果てに向かい合って重なる。何度だって求めて、衣擦れとその掠れた声に埋まってしまいたかった。着物が床に落ちても、それでも熱は静まらなかった。そうやって俺は彼女と日付を越した。
熱の鎮まった布団の中で、薫さんは眠っていた。乱れた髪が顔に掛かり、掠れた寝息が俺の胸元に触れる。あれだけ何度も名前を呼んだ唇は、今はもう大人しく閉じていた。
起こさないように髪を払う。頬を撫でても、彼女は目を覚まさない。ただ、俺の背中に回した腕だけが僅かに強くなる。
柔らかかった。
この人が俺の腕の中で眠っている。それだけで、もう人生に必要な物を全て手に入れてしまったような気がした。
ここで終わってしまえたのなら、どれだけよかっただろう。映画のように暗転して、ここで物語を閉じてしまえるのなら。そんなどうしようもないことを考えてしまう。
明日の朝も、帰り道も、その薬指に約束が戻る瞬間を映さない。今夜だけを切り取って、俺たちを終わらせてしまいたかった。
そうすればきっと、これはハッピーエンドだった。
それでも、物語は終わってくれない。
分かっていたことだった。
「おはようございます」
障子から差し込んだ朝日で目を覚ます。薫さんは俺の腕を枕にしたまま、眩しそうに眉を寄せていた。
「……体が重い。節々が痛い」
「気持ちよさそうに眠ってましたよ」
「どの口が言ってんだよ」
掠れた声でそれだけ言って、俺の胸元に顔を埋める。彼女は起き上がろうとはしなかった。満足するまでそのままにした、呻き声と伸びと、そうやってゆっくり彼女は目を覚ました。
朝食を食べ、もう一度だけ二人で露天風呂に入って昨晩の汗を流した。昨夜と同じ湯のはずが、朝日を受けた水面はまた別の顔だった。そんな様子を二人で眺めながら、もう一度だけ彼女を求めた。
「猿が」
「仕方ないでしょう」
呆れた声の後、薫さんは自分から俺の首へ腕を回した。
旅館を出たのは、予定より少し遅い昼前だった。帰りの車内に行ほどの緊張はなかった。薫さんは助手席で何度も欠伸をして、俺の運転へ文句をつける余裕まで取り戻していた。
山を下って、高速へ入る。道中のサービスエリアで休憩をとった。
珈琲を買って車へ戻る途中、一台のバスが駐車場に入ってくる。見覚えのある校章のついた白い車体だった。車へ足早に乗り込む。バスの扉が開いて、見覚えのある制服が次々と降りてきていた。薫さんは背凭れに小さく寝そべって隠れていた。
そのうちの一人と目があった気がする。
「さっさと出せ」
珈琲をカップホルダーへ押し込みエンジンをかける。
「見られましたかね」
「どうだろうな」
乾いたシートベルトの音が鳴ったのを確認して、アクセルを踏んだ。バックミラーの中で、制服の集団と白いバスが遠ざかっていく。誰かが追ってくる訳でもない、それでも暫く後ろを振り返らなかった。
「なんだか、本当に逃避行みたいですね」
「今更気づいたのか」
「でも、薫さんがこんな時でも冷静なのは、面白くないかもしれません」
「貸せ」
彼女は俺の左腕を取り、彼女の左胸にあてた。危ないでしょうと注意する前に、その柔らかさの奥の鼓動に気づく。
「冷静でいられるか。今にも心臓が飛び出そうだ」
掌に伝わる鼓動は、驚くほど速かった。
いつもなら、こんな弱さを何重もの悪態で隠してしまう。それを今は、俺に触らせている。嬉しいと、思ってしまった。
見つかりかけたことでも、薫さんが怯えてることでもない。同じものから逃げて、同じように心臓を鳴らしている。その事実が、どうしようもなく。
「俺もです」
彼女の手を取って、今度は俺の心臓へ当てる。
「お前は随分楽しそうに見えるけどな」
「薫さんと一緒ですから」
彼女は俺の胸から手を放す。
「運転に集中しろ」
アクセルを少しだけ深く踏んだ。誰かが追ってくることはなかったけれど、それでも暫く速度は緩めなかった。
いつもの場所へと帰るための道を走っている。それなのに、どこか遠くへ逃げているようだった。きっと逃げ切れる場所なんて最初からどこにもないのに。それでも、今は隣に薫さんがいた。
これから向かう場所に俺たちが二人でいることはできない。薫さんは教師に戻り、妻に戻る。俺はまた一人になる場所だった。
それでも、そこへ着くまでの帰り道は。俺たちは二人で逃げていた。




