ハッピーエンド逃避行前編
ハッピーエンド逃避行前編
007
『今日、温泉に行きましょう』
七月最初の土曜日。眠りが浅かったことをぼんやり頭痛で感じながら、それでも予定通りの午前八時。昨日から送信待ちだったその文を、ようやく彼女に送った。
既読は早かった。返信は直ぐには返ってこなかった。
休日の薫さんは決まってこの時間に起きる。きっとまだ布団の中で、眠気眼でも擦っているに違いない。そろそろ目が覚めて、悪態をつき始める頃だろうか。
そんな様子を浮かべながら、寝返りをついて俺は待った。
『寝言は寝て言え』
文字は冷たい。それでも、なんとなく彼女のことを分かり始めていた。
『ご心配なく、もう頭は冴えてます。それと、宿と車ももう押さえてあります』
『ナニモキイテナイ』
『伝えてませんから。もし断られたら一人寂しく温泉旅行してきますよ』
『お土産よろしく』
『今日のお昼、迎えに行きます』
数秒間が開いた。慌てて何かを確認しているような、そんな間だった。
『二時』
行くという言葉は最後まで出てこなかった。時間だけが調整され、予定だけが残る。合意でも拒否でもない、ただの擦り合わせ。
『分かりました』
言葉としては成立していないのに、それでも今日の目的地は決まり、車は手配されて、宿には二人分の夕食と布団が用意される。結果だけは確かな現実だった。
いつでも崩せる。そんな余白だけが免罪符として綺麗に残っていた。俺たちの関係は、ずっとそんなものの上で不安定に揺れていた。
ベッドから起き上がり、旅行鞄を引き寄せる。軽いままのそれは、まだ何も決まっていないことの重さと釣り合っている気がした。
部屋の中には、いつの間にか俺じゃない誰かの気配が増えている。洗面台に立てば、俺のものではない歯ブラシが一本と、化粧水。使い慣れない小物が棚に馴染んできている。そうやって何もなかった部屋の空白が、ちょっとだけ彼女で埋まっていた。
朝食に珈琲を飲む習慣ができた。背の揃ったマグカップの片割れに、インスタントにしては香りとコクが強い珈琲を淹れる。必要になるたびに俺が勝手に揃えて、彼女は当然のように使った。
ものが増える度に少しだけ呆れ顔をしながら、それでも何も言わなかった。
彼女は決まって土曜の夕方に来て、日曜の昼には帰る。一週間のうちの半日ちょっと。それだけだったけれど、三か月言葉にしないまま繰り返していた。
相変わらず約束は嫌う。だから、これは約束ではないのだろう。けれども、習慣なんてもっと認めないに決まっている。気まぐれ、偶然、間違い。言葉は何でもよかった。
何でもないそれらを詰め込んでファスナーを閉める。
最近一人になると、狭いはずのワンルームが広く感じるようになった。一人で寝るベッドの余白や、肩の当たらない洗面台の前、隣の居ないローテーブル。その空白まで今は愛おしかった。
一時半を過ぎた頃、薫さんから位置情報だけが送られてきた。示されたのは自宅ではない。住宅地から少し外れた、小さな公園の脇。言葉は何も添えられていなかったけれど、それでも迷うことなく車を走らせた。
十分前には着いていた。早すぎたことを悟られないように、公園の周りを一周してから路肩に寄せる。借りたばかりの車内にはまだ他人の匂いがしていた。後部座席には旅行鞄が一つ。隣には、これから埋まるはずの空間が残っている。
エンジンを切らずに待った。二時を過ぎる。それでも遅刻ではない。約束なんてしていないのだから。
それでも、この五分は長かった。
視界の端から見慣れない女性が歩いてくる。見間違えるはずはなかった。それでも、目を疑った。
深い藍色のワンピースに、薄手の白羽織り。普段は好き勝手遊ばせてる髪も、今日は大人しく肩へ落ち着いている。化粧だって、いつも部屋で見ていたものよりずっと丁寧に見えた。
片手には一泊分にしては少し小さな鞄。
二時を指定された理由を、勝手に見つけた気がした。
「お待たせ」
扉が閉まる。
「さっさと出せ」
薫さんは鞄を足元へ置き、シートベルトを引く。少しだけ落ち着かない様子で、横目で何度も外を確認していた。
「顔がうるさい」
「褒めてもいいですか」
「ここを出てからにしろ」
拒まれたわけではなかった。
「分かりましたよ」
アクセルを踏む。薫さんは後ろを確かめるようにミラーへ目を向け、それからようやく背凭れへ体を預けた。
「もういいぞ」
「ふふっ。何がですか」
「何か言いたかったんじゃないのか」
今日は後ろ髪まで落ち着いていて、一束も遊んでいなかった。
「髪、いつもと違うと、大人に見えますね」
「ずっと前から大人だろ」
「大人の女性の魅力が出てて良いって話ですよ」
「今まではちんちくりんだったって言いたいのか?」
「そんなこと言ってないでしょう。今日はより素敵だって話です」
早く触れたい。そう思うほど、似合っていた。
「終わったか?」
「そんなわけないでしょう。あと十分は語りますよ」
「恥ずかしいから、簡潔にして渡せ」
「……難しいことを言いますね」
本音を言えば、路肩に止めて一つずつ吟味したかった。簡潔になんて纏められる訳がない。
「語り尽くせないですけど、それでも簡潔に纏めるんだったら、きっと静謐って言葉が一番合ってるんだと思います」
「私が?」
心外だとでも言いたげに彼女は眉を寄せた。それでも、薫さんがその言葉から遠いとは、少しも思わなかった。
「えぇ、運転中じゃなかったら釘付けだったでしょうね。服だけじゃなくて、化粧もいつもと違ってて、そのリップも色気があって……味見しても?」
「いい訳ないだろ。若葉マークなんだから、ちゃんと運転に集中しろ」
「せっかく二時まで準備したんでしょう。一つでも見落としたら勿体ないじゃないですか」
「採点を頼んだ覚えはない」
「勿論満点です」
「配点を見せろ」
「俺が嬉しかったところに百点。以上です」
「とんだ欠陥試験だよ」
薫さんは窓の外へ顔を向けた。耳だけが少し赤く見えたのは、きっと差し込んだ光の加減だった。
「それで、私はいったい今どこに連れていかれてるんだ」
「まるで誘拐でもされてるみたいな言い草ですね」
「お前ほど信用がならない奴もいないからな。暇を持て余してるお前と、同じ時間で振り回される訳にはいかないんだよ。週明けには仕事が待ってる」
薫さんが教師へと戻る日の話だった。
「心配しなくたって、日曜日の昼までには帰れるように組んでますよ。いつも通り。それだったら、何の問題もないはずです」
「三時間もかけるのにか。なんだか非合理だな」
「そうでもないですよ。俺たちにとっては、きっと」
薫さんは答えず、窓の外へ視線を戻した。俺たち、という括り方は訂正されなかった。
「そこまでする必要があったのか」
「ありますよ。少なくとも俺にとっては」
素直に返す。映画を見て、食事をして、身体を重ねて、同じベッドで眠る。それだけなら、俺の部屋で十分だった。三か月の間に、何度もそうしてきた。
不満があった訳じゃない。それでも今日だけは、部屋から持ち出したかった。
「ほんと、しょうがない奴だな」
薫さんは、それ以上何も聞かなかった。
だんだん、窓の外は見慣れない景色に入れ替わっていく。
背の高いビルが途切れ、古い瓦屋根が増えていく。片側二車線だった道路はいつの間にか細くなり、車窓の近くまで田畑が迫った。青々と伸びた稲が、風に撫でられ同じ方向に頭を垂れる。
「随分と何もなくなったな」
「のどかになりましたね」
「都会の人間は、こういう景色を眺めただけで長閑だとか言って喜ぶだろうな。実際暮らすとなれば、虫が多いだの、店が遠いだの、数日で音を上げる癖に、偶にこうやって通る分にはありもしない故郷に思いを馳せてみたりする」
「薫さんだって都会育ちだったでしょう」
「だから言ってる。住みたくないくらい、いい景色だ」
窓を少し開ける。入り込んだ風が肩に落ちていた髪を流す。薫さんは直そうとはしなかった。
大きな川沿いに出る。水面は傾き始めた陽を細かく砕いて、白く輝いている。対岸に古い煙突が一本だけ。その隣に、使われているかも分からない煉瓦造りの建物が見えた。
「大学時代に、何度かこの辺に来たんだよ」
「あの建物辺りですか」
「そう、あれは大昔は製糸工場だったらしい。とっくにもう廃墟になってたんだけど、残った遺物とそれを飲み込んでいく自然がなんだか寂しくて、何枚も描いたんだよ」
所謂、思い出の地なのだろう。
「そんな顔するなよ。一緒に行ったのは、大学の女友達だ」
「別に、誰と行ったかなんて聞いてませんよ」
「顔に書いてあった」
「薫さんには今半分しか見せてません」
「それだけ見えてりゃ十分だよ。何回お前を採点してきたと思ってる。間違い方くらい、式の途中でもわかる」
「今はそんなにぺらっぺらな物を見せてるつもりはありませんよ」
「似たようなもんだろ。余計なことばかり書くとこも、何も変わってない」
俺が抱いたつまらない想像を、彼女は自分から消した。それを喜んでしまうと、ますます見透かされるような気がした。
「その人は、今も会うんですか」
「たまにな。結婚して子供もいるから、昔みたいにはいかない」
「よく二人で出かけてたんですか?」
「なんだ、女にも嫉妬か? 節操がないな」
「違いますよ。そんな見境ない奴じゃありません。薫さんの大学時代に興味があるだけです」
「まぁ、そういうことにしておいてやる」
道は低い山を一つ回り込む。やがて木々の間から、小さな観覧車が見えた。派手だった名残はあった。けれど遠めにもその色の褪せは明らかだった。その下に幾つかの遊具と、三角屋根の建物が小さく寄り集まっていた。
「お、まだ動いてる。潰れてなかったんだな」
「あの遊園地、行ったことがあるんですか?」
「さっきの友達と、一度だけ。大学二年の頃だったかな」
「夢の国とかに比べたら、随分と寂しく見えますけど」
「馬鹿にするなよ。あんなんでも、当時はもっと賑わっていたんだ。入園料が安くて、学生には丁度良かった」
薫さんは遠ざかっていく観覧車を、わざわざ身を捩って追う。
「観覧車が途中で止まってさ。十分くらいだったかな、結構上の方で閉じ込められたんだよ」
「なかなかパンチの効いた思い出ですね。それは怖かったでしょう」
「まさか。景色が良くて得した気分だったよ。友達の方は半分パニックみたいになってて、まぁそれもいい笑い話になった」
「なんだか、薫さんらしいですね」
「何がだよ」
「降りられないなら、そこで景色をゆっくり見てる。俺にはきっと、出来ませんよ」
「なんだ、嫌味か?」
「褒めてるんですよ」
「お前の褒め言葉は分かりにくい」
森の方へ道は入っていく。観覧車は木々に隠れてもう、見えなくなってしまった。
「俺も薫さんと、同じ大学生としてそういうことをしてみたかったです」
何の役割も持たない、講義を抜け出す理由や、少ない金で一日を潰す方法を一緒に考えるような、ただの年の近い二人の男女として。
薫さんは少しだけ黙った。
「十年遅く生まれたことを後悔してろ」
「後悔してますよ。ずっと」
「不毛だな」
「自分が言ったくせに」
「だったら、その後悔と同じくらい私が十年早く生まれたことにも感謝しろ。そうじゃなきゃ、お前の担任になってない」
「それは、そうですね」
どちらが良かったのか。そんなタラレバは考えるだけ無駄だった。
今とは違う可能性の代わりに、今の俺たちにはなれなかった。
「感謝してますよ。とっても」
「素直でよろしい」
「だから、いつか遊園地に一緒に行けたらいいなって、思っておきます」
「話聞いてたか?」
「約束はしません。俺が勝手にそう思っとくだけですから」
「勝手にしろ」そう返す声は少し小さくて、柔らかかった。
遊園地の話は、それきりだった。
山道へ入る手前、小さなコンビニと広い駐車場が見えた。珈琲を買いたいといわれ、休憩を兼ねて停まった。
「俺が買ってきますよ」
「運転手は休んでろ。ブラックでいいか」
「薫さんとお揃いの奴で」
「わかった、わかった」
微笑んだ俺に、しっしっ、と手の甲を振って薫さんは扉を閉めた。
助手席だけが空く。車内に残った甘い香りも、足元に置かれた小さな鞄も、彼女がここに戻って来ることを当然だと言いたげに、そこに佇んでいた。
数分して、薫さんは二つのカップを抱えて戻ってくる。
「熱いからな」
差し出された左手から、珈琲を受け取った。
そこで、ようやく俺は気付いた。
きっと、遅すぎるくらいだった。
毎回必ず目にしていて、だから目を背けることが当たり前だった。俺が外して、彼女が必ず元に戻すはずだった。
薬指の約束が、そこにはなかった。
「何見てる」
今まで悟らせないような澄まし顔で居たのだから、面食らってしまう。
「いいえ……。ただ、今日はなんだか、随分と気が利くなって思っただけですよ」
「なんだ、不満だったか? だったら返せ」
「嫌です。もう受け取りました」
蓋の飲み口へ唇をつける。頼んだ通り、お揃いの苦さだった。
薫さんは何も言わずにシートベルトを引く。空いた左手に指輪の跡を薄く残して、ワンピースの裾へ置いた。
旅館へ着いたのは、午後五時の鐘が鳴ったその少し後だった。
人里から離れた山の中。舗装された道からさらに細い脇道に入って、木々の間を抜けた先で低い瓦屋根が見えた。
駐車場には数台の車が止まっていて、それでも人の話し声は聞こえない。耳を澄ませば、遠くで流れる水の音と、葉が擦れる音だけがした。
車を降りて三時間分の伸びをする。薫さんとのドライブはあっという間だった。
「だいぶ無茶をしたな」
「危ない運転はなかったでしょう」
「若葉がやることじゃない」
「それでも、こうしたかったんですよ」
「帰り、力尽きて事故るなよ」
「薫さんと二人なら、それはそれで悪くないかもしれません」
「勘弁してくれ」
看板がなければ、大きな古い屋敷の風貌だった。門をくぐって、玄関へ入る。木と畳の匂いが占領していて、懐かしかった。
受付で名前を告げる。予約票を確認した女性は俺と薫さんを一度ずつみてから、にこやかに頭を下げた。
「八坂様ですね。お待ちしておりました」
一括りに俺の名字で呼ばれる。予約したのがその名だっただけなのに、少し意味を考えそうになる。
「離れのお部屋をご用意しております。お荷物、お預かりいたしましょうか」
「これくらいなら、大丈夫です」
薫さんより先に答えた。
女性はそれ以上勧めず、廊下の奥へ俺たちを案内する。母屋を抜け、石畳の渡り廊下を進む。庭の木々が建物同士の間を埋めて、他の客室からは距離的にも視覚的にも隔てられている。
「お部屋には露天風呂もございます。お湯は常に流しておりますので、好きな時間にご入浴いただけます」
「楽しみですね。薫さん」
「随分と白々しい言い方だな。知ってただろ」
「えぇ、勿論」
案内の女性が小さく笑った。
「仲がよろしいんですね」
薫さんは黙る。俺も訂正しなかった。
先導され離れの平屋の一棟に着く。女性が引き戸を開け、先に俺たちを通した。玄関には二人の履物を置くには十分な余白があった。
「お食事は十九時より、こちらのお部屋へお持ちいたします。奥様、苦手な食材などはございませんでしょうか」
一瞬だけ時間が止まった。薫さんは左手を下ろしたまま、女性を見る。
「大丈夫です」
短くそれだけを答えた。
奥様。薫さんが妻であることは間違っていない。間違っているのは全て、その隣に立っている男だった。
「承知いたしました。それではごゆっくりお過ごしください」
女性は深く頭を下げ、玄関を閉める。二人して、その遠ざかっていく足音に耳を立てていた。その音が完全に消えて、ようやく薫さんは口を開けた。
「お前、予約するときに何か要らないこと言ったんじゃないだろうな」
「濡れ衣です。何も言ってません」
「本当か」
「嘘はつきませんって」
「都合の悪いことを言わないだけだろ。故意に誤解させることは嘘を吐くよりよっぽどタチが悪いからな」
薫さんは疑う目でこちらを見る。しかし冷や汗をかいたのは俺も同じだった。俺の届かないその肩書に心臓をざらざらと擦られる気分だった。そんな様子に「まぁ、そんなこといちいち確認しないか」と彼女は引き下がった。
部屋は広い和室だった。窓の向こうには木々が迫って、その手前に縁側がある。ふすまの奥には寝室らしい部屋が続いていて、既に二組の布団が隣り合わせに並べられていた。
「しっかし。随分、奮発したな」
薫さんは部屋を見回してから、最後に俺を見た。
「幾らだった?」
「それは、無粋でしょう」
「大学生が見栄張って出すような金額じゃなかっただろ。相場がわからないほど、世間知らずでもないんだよ」
「薫さんとの思い出を買ったと考えたら、安かったですよ」
大きな溜息をついて、薫さんの眉が寄る。きっと彼女は俺が譲らないことを知っている。
「自分への誕生日プレゼントだったんです。これくらい散財したって罰は当たりませんよ」
その言葉に、少しだけ眉間の皺が緩んだ。
「まだだろ。誕生日」
「来週なんで、誤差ですよ」
「知ってる」
あまりに自然に返されて、今度は俺が黙る。
薫さんは遅れて目線を合わせる。自分が何を口にしたのか、俺の顔を見てから気づいたらしい。視線が一度だけ泳ぎ、直ぐ窓の外へ逃げた。
「深い意味はない。三年も受け持ったんだ。生徒の生年月日くらい、何度だって名簿で見てる」
「卒業してから、もう三か月経ちましたよ」
「だから何だ」
「いえ。嬉しいなと思って」
「気持ち悪い顔をするな」
薫さんは俺から目を逸らし、窓際へ向かった。縁側の向こうには、石造りの露天風呂が見える。湯気が薄く漂い、その先を木の柵が取り囲んでいた。ここからなら、山以外は何も見えない。
「ほんと、自分の誕生日だからってここまで豪勢にはしないだろ」
独り言のように呟く。
「自分には過ぎた祝いだとは思います。大きすぎて受け止めれないかもしれない」
彼女の傍に立った。
「それは、良かったな」
彼女の腰へ手を回す。沈黙を共有して、少しの時間外を眺めた。本当に何もかも、俺には過ぎた現実だった。
「誠」
「……はい」
「手、出せ」
「何かくれるんですか」
「いいから」
言われた通りに片手を差し出す。けれど薫さんはそこへ何も置かず、腰に回っていた俺の腕から抜け出して、自分の鞄を引き寄せる。
期待がないわけではなかった。それでも、彼女は俺に形の残るものを渡すことは許せないんだろう、そう思っていた。
「本当は、明日渡すつもりだったんだけどな」
ファスナーを開き、慎重に取り出されたのは小さな紙袋だった。
「このまま隠しておくのもなんだかむず痒い」
「俺は待てますよ。明日でも、来週でも」
「私が待てないんだよ」
差し出された紙袋は、そのまま二人の間に残った。薫さんは眉を寄せる。
俺が受け取らないからか、それとも自分の口から出た言葉が気に入らなかったのか。そのどちらかは聞かないことにした。
「今の、もう一度だけお願いします」
「却下だ。いいから、さっさと受け取れ」
差し出された紙袋を受け取る。紙袋の大きさから想像した重さは無くて、その軽さに少し驚いた。袋の底に収まっていたのは、丁寧に布で何重にも包まれた小さな何かだった。
「これ、開けても?」
「だったら、何のために渡したと思ってる」
布を解く。中から現れたのは、小さなグラスだった。
普段俺たちが使っているマグカップと大差ない大きさ。透明な容器の底には、黒い土が僅かに入り、そこから細い緑色が一本だけ伸びている。
背丈は、グラスの半分ほどしかない。頼りない茎の先に艶のある葉が数枚。掌へ乗せれば、容器ごと包み隠せそうなほど小さかった。
草なのか木なのか、それすら見ただけでは分からない。
「これは、何ですか」
「まぁ、分からないよな」
「植物だなぁとは」
「珈琲の木だよ」
直ぐには信じられなかった。豆から珈琲が出来る常識くらいはあった。それでも、薫さんがいつも飲んでいる黒色と、目の前の緑がどうにも結びつかなかった。
「珈琲ってこんな小っちゃかったんですね」
「生まれた時から大木な植物なんてないだろ」
「これ、本当に木になるんですか」
「ちゃんと育てばな」
随分先になるような言い方だった。こんな小さな茎が太くなり、葉を増やし、いつか花を咲かせ実を付ける。目の前のひよっこは、その一歩目さえ踏み出していないようだった。
「お前の部屋、殺風景だっただろ。緑がちょっとくらいあったっていい」
「なるほど」
「狭い部屋なのに何にも置かないから、より無機質に見える。だから」
「だから、これがあったら。ちょっとは、来やすい部屋になりますか」
「そうかもな」
「全然私物は置いていかないくせに」
「これはもう私の物じゃないしな」
「今貰いましたからね」
「だから、置いていける」
あまりにも彼女らしい理由だった。
自分の物は置かない。けれど、俺に渡してしまったものなら、部屋に残っても構わない。薫さんはそうやって境界を守ったまま、その内側へ今日一つだけこの小さな鉢を持ち込んだ。
「水は、土が乾いたらでいい。やりすぎると根が腐る。寒さにも弱いから、冬は窓際から少し離した方がいい」
「詳しいですね」
「渡すんだから、そのくらい調べたよ」
「手が掛かりそうだ」
「そこが、お前には丁度いいだろ」
「どういう意味ですか」
「好き勝手に世話焼いて、様子をニコニコ覗いて、そういうの好きだろ」
「否定できませんね」
グラスを両手で持ち上げる。少し傾けただけで細い茎が頼りなく揺れて、葉と葉が微かに触れ合った。
「枯らすなよ」
薫さんの指先が、一度だけその小さな葉を撫でる。
「大事にしますよ」
「その言葉が何年後まで持つかな」
「実がなるまでは」
「下手したら数年掛かるぞ」
「それでも待ちますよ。気長に」
まだ、草にしか見えないものをもう一度眺める。
「もし育ったら、一緒に飲みましょう」
窓の外へ目を向ける。山の端へ沈みかけた太陽が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「自分で育てた豆なんて、たぶん美味いものじゃないぞ。それに手間も暇もかかる」
「それでも、薫さんは飲んでくれますよ」
「そこまで育ててから言え」
断られはしなかった。約束だとも言わなかった。
それでも、実をつけるまでには何年もかかる小さな木を、薫さんは自分で選び今日ここに持ってきた。今はまだ、草なのか木なのかすら分からない。それでもこれから育つものだった。
初めて彼女は俺に未来に残るものを渡した。
きっと彼女を抱きしめるには十分すぎる理由だった。




