もう、お前の先生じゃない
もう、お前の先生じゃない。
006
先生は自分の足で俺の部屋に入った。
鍵を開けたのは俺だった。扉を引いて、先に入るように促したのも俺だった。それでも、最後に玄関を跨いだのは、彼女だった。
「寺の跡取りにしちゃ、随分慎ましい部屋だな」
「欲を絶ち質素倹約することは坊主の本懐ですから」
「そんなこと言って、そのうち女でも連れ込む気だろ?」
「俺はまだまだ半端者ですから。そういう未熟なところは幾らでもありますよ」
「否定はしないんだな」
「現に今、先生を連れ込んでますし」
俺の部屋は、玄関からでもその殆どが見渡せた。簡素な台所と、背の低いテーブル。壁際に寄せた机と本棚。その反対には小さなシングルベッドが一つ。
先生の視線は、部屋をゆっくり一周する。
最後にベッドの辺りでわずかに止まり、それから何事もなかったように、足元へ戻った。
まだ、先生は靴を履いていた。
「なんか、小綺麗というか。こざっぱりしてんな」
「まだ物がそんなにないせいでしょうね」
「もっと脱ぎっぱなしの服がが床に積んでるとか、流しに食器が溜まってるとか。男の一人暮らしの部屋なんてそんなもんだと思ってた」
「それは、先生の部屋の話ではなく?」
「減点。家主の口が悪い」
彼女はそれから小さく息を吐いて、踵へ指を掛ける。靴を脱いで、俺の靴とは触れないように、ほんの少しだけ隙間を開けて玄関の端へ寄せた。
その程度の境界だけ残して、先生は部屋へ上がった。
「合格ですか?」
「今のところは可もなく、不可もなく。でも、少なくとも明日野垂れ死ぬような奴が住んでる部屋じゃない」
「安心しました?」
「まぁ、元担任としてはな。元気そうで良かったよ」
「連れてきた甲斐がありました」
「じゃぁ、もう帰っていいか?」
「夕飯を食べる約束でしょ。それに、さっきお腹鳴ってたじゃないですか」
「そんな約束はしてないし、腹が減ってるのはお前が連れ回したせいだ」
「はいはい。責任取りますから、その辺に座って待っててください」
支度のために袖を捲ろうとして、まだスーツのままだった事を思い出した。
「待て。なにしてる」
「一張羅が汚れても面倒ですし、着替えようかと」
「ここで脱ぐな。さっと脱衣所に行け」
「意識しました?」
「そんなに帰って欲しいか?」
これ以上は駄目らしい。相変わらず教師として優秀な人だった。
「冗談ですよ」
替えの服を持って脱衣所へ向かう。背中へ何かが飛んでくることも覚悟していたけれど、聞こえたのは深い溜息だけだった。
脱衣所の鏡には、まだ着なれないスーツ姿の自分が映った。
朝から何度直しても右に傾いていたネクタイは、今もきちんと中央に収まっている。先生が一度触れただけで、俺が何度やっても定まらなかった物が、正しい場所に落ち着いていた。
結び目へ指を掛ける。
解いてしまうのが、少し惜しかった。
ネクタイを緩める。首元が軽くなり、正しく整えられた結び目が崩れていく。そうやって、大学生に見せるための服を脱いだ。
「お待たせしました」
「その格好だと、やっぱりまだ高校生と大差ないな」
「数週間で変わってしまうほど、簡単には生きてませんし。俺は変わりたいとも思ってませんよ」
先生の言葉を返す。
「退屈な返事だ」
「俺にとっては、大事な言葉ですよ」
「さっさと忘れろ」
コートは先生の膝からテーブルの脇に置きなおされていた。すぐ手の届く位置だけど、それでも帰るためのものが彼女から一つ離れた。
俺は何も言わずに台所に立った。
手短に支度を進める、彼女は頬杖をついて「なんだか、手馴れたもんだな」なんて言いながらこちらを見ていた。
「今回は指切ってないか?」
「一年のときでしょ、俺だって成長するんですよ」
調理実習で恥をかいた思い出があった。先生はそれを覚えていた。
「成長ねぇ……。ちょっと前まで問題一つ解くのにも私が横についてやらないといけなかった奴が偉くなったもんだな」
「一人でも、解けましたよ」
「だったら、どうして毎回来てたんだよ」
「今更、そんなこと聞かないでください」
包丁を動かし続ける。半分は呆れ口調で、残り半分はすでに知っていることの確認だったのだろう。
そんなやり取りをぽつぽつと交わしながら手を動かした。彼女はもう赤ペンを持っていない。俺の前にも、答えを出すべき問題集は置かれていない。それでも彼女は俺を見て、何気ないやり取りの続きを繋いでくれた。
カレーが出来上がる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
炊きあがったばかりの米を二つの皿へよそい、その隣にカレーを流し込む。先生の方を少なくしたつもりだった。それでも、テーブルに並べると彼女は眉を寄せた。
「食べきらなきゃ、帰さない。みたいなつもりか?」
多かったらしい。
「一皿だけなら、付き合ってくれるんでしょう?」
「私はもう何も育たないんだよ。大学生基準でつぐな」
「次からは、気をつけますよ」
「次なんてない」
先生はスプーンを手に取る。大袈裟なくらい慎重に一口分だけ掬って、しばらく眺めてから口へ運んだ。
「どうです?」
「まだわからん」
「先生は味覚に届くまで時間がかかるんですか」
「今、粗を探してる」
「素直に美味しいと言ってくれればいいでしょう」
「うるさい。黙って食え」
否定はされなかった。
俺も向かいに座って、自分の皿に手を付ける。特別なものは何もない。箱の裏に書かれた通りの分量で、書かれた通りの時間煮込んだだけだった。料理と呼ぶにはあまりに素直な手順だったけれど、少なくとも失敗はしていない。
「酒が欲しくなるな」
「ビールでいいなら、ありますよ」
「お前……大学生になったからって、随分調子に乗ってるみたいだな」
きっとそれは先生の目つきだった。
「誤解です。親父が置いて行ったんですよ。入学祝だとかで。俺はまだ飲んでませんよ」
「当たり前だ」
先生は空になりかけた皿へ目を落とす。
「よこせ。ガキには勿体ない」
嬉しい誤算だった。立ち上がって、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
先生に手渡した。プルタブが開く乾いた音が鳴った。
「一本だけだ」
「誰に言ってるんですか」
「自分」
先生は缶へ口を付け、一口目を随分長く飲んだ。息を吐いて、テーブルへ戻す。左手の薬指に嵌まった指輪がアルミに触れ、小さく硬い音を立てた。
先生は、改めて俺を見る。
さっきまでとは、違う目をしていた。
「お前も、大きくなってたんだな」
少しだけ、寂しそうにも聞こえた。
「きっと、先生が知らなかっただけですよ」
「そうだな。お前の言うとおりだよ」
あっさりと認められた。先生はもお一度缶へ口を付ける。
「ちゃんと見ていたつもりになってた。きっと、それだけだったんだろうな」
「先生は、十分見てくれてましたよ」
「それでも。何も知らなかった。料理ができることも。一人で暮らせることも。案外しっかりしていることも。私がいなくたって、こうやってちゃんと大学生になってることも」
「先生が、そうしたんでしょう」
「なにが」
「一人でできるように、手を引いてくれたんじゃないですか」
先生の手が、缶から離れた。
生徒が教師を必要としなくなるのが、教師にとっての正解なのだと思う。
分からなかった問題が解けるようになる。進路を決めて、卒業して、教室を出ていく。いつまでも教師の隣に残っている生徒なんていない。
先生は正しく俺を送り出した。
だから、俺は先生がいなくても生きていけるようになった。
「それでも、俺は先生に来てほしかったですけどね」
「お前は、いつまでたってもガキだな」
「さっき大きくなったなって、言ったばかりでしょう」
「撤回だ、何も変わってない」
「一度付けた丸には責任を持ってください」
いつもの軽口だった。
それでも、先生の声は少しずつ沈んでいった。
「アイツも」
不意に落ちた言葉は、それだけで十分だった。
「私が知らなかっただけで、大きくなってたのかな」
答えはなかった。
今頃は幸助が一人暮らしをしていたのかもしれない、洗濯物をためて、ごみを出す日を間違えていたかもしれない。慣れないスーツを着て、誰かに曲がったネクタイを直して貰っていたのかもしれない。
そんな未来は、もう何処にもなかった。
幸助は、ずっと高校生のままだった。
「分かんねぇな。なんにも」
先生は笑った。
「教師なのに。お前らがどんな大人になるのか、私は何にもわかってなかった」
「それでも、いいんですよ」
「それは、無責任だろ」
「もし先生が全部わかってたら、俺たちは先生の想像通りにしかなれないでしょう」
「それの何が悪い。せめて死なない未来くらい、選んでやれたかもしれない」
「それは先生が選ぶことじゃないですよ。先生が責任を持つことでも、きっとない」
「だったら、誰が選ぶんだよ」
「俺たちです」
先生の指先が、缶の縁で止まった。きっと、こんなことは分かってるだろう。それでも、伝えなくちゃいけないと思った。
「自分で選んで、間違えて。それでも、自分で引き受けるしか無いんだと思います」
「……随分、偉そうなことを言うようになったな」
「俺も、大きくなりましたから」
「……そうだったな」
同じ言葉を繰り返す。けれど今度は少しだけ寂しそうだった。
「お前がこれからどうなるのか。どうしたいのか、私には分からない」
「一緒に考えてくださいよ、先生でしょう」
「もう、お前の先生じゃない」
分かっていた。それでも、本人から聞くと上手く息が吸えなかった。
「それも、そうでしたね」
空になった皿を重ねようと、手を伸ばす。その手首を、先生が掴んだ。強くはななかった、振りほどこうとしてしまえば、きっと簡単にできる。
それでも、俺は動かなかった。
「……先生?」
彼女は何も言わない。
俺の手首に触れたまま、俯いていた。
教師でなくなった彼女が、どうして俺の手を取ったのか。それだけは、俺から理由を与えてはいけない気がした。
暫くして、彼女の指先が掌へ降りてく。
あの夜と同じだった。
通夜の後。冷え切った公園のベンチで、先生は何も言わずに俺の手を包んだ。何も聞かなかった。
「もう、先生じゃないんでしたね」
掴まれた手は、そのままにしておく。俺から握り返すことはしなかった。
「薫さん」
初めて呼んだその名前は、思っていたよりも簡単に口から出た。
それでも、部屋のなかに落ちた途端、もう取り返せないものになる。
彼女の指が、わずかに強張った。
「勝手に呼ぶな」
「嫌ですか」
「本当に可愛くない聞き方だ」
口調だけなら、いつものままだった。それでも、俺の手を離さなかった。
「薫さん」
「一度で聞こえる、呼ぶな」
「嬉しくて、つい」
「気持ち悪い」
「知ってますよ」
彼女はようやく顔を上げた。
目元は少しだけ赤くて、頬にもそれが淡く広がっていた。
幸助のことを思い出して、二人で少し弱くなった。それだけのことにして帰ることだって出来た。
それでも、俺は。
「八坂」
呼ばれて、少しだけ胸が痛んだ。
苗字は生徒を呼ぶためのものだった。教室で何度も呼ばれた、俺だけのものではない名前だった。
何度も返事をした。それでも、今だけ返事をしなかった。
彼女は口を閉じる。名前の続きを探して、躊躇っているようにも見えた。
それでも、繋いだ手に少しだけ力がこもった。
「……誠」
それは、ただ俺だけを示す言葉だった。
「はい」
少し声が震えた。
「返事をするな」
「もう一回お願いします」
「調子に乗るな」
薫さんは俺の手を離した。
そのまま立ち上がるものだと思った。コートを拾って、何もなかったように帰ってしまうのだと。
けれど、彼女の右手が向かったのは、コートではなかった。
左の薬指に触れて、細い金属の輪を親指で一度だけ撫でた。その指輪に何が乗っているのか、俺は知っていた。
「今なら、ちゃんと見送れます」
指輪へ指を掛けたまま、彼女は動かなかった。
「黙ってろ」
それきり、何も言わなかった。
薫さんは、ゆっくり指輪を抜いた。
僅かに残った跡を親指で隠しながら、それはテーブルの上に運ばれて、小さく硬い音がした。
約束は置かれた。
「誠」
もう一度名前を呼ばれた。
返事の代わりに、彼女の空いた薬指に触れる。彼女の手は逃げなかった。
「なにしてる」
「確かめてるんですよ。俺が触れてもいいのかどうか」
答えは返ってこない。答えがないまま、指同士だけが絡まった。
それで、十分だった。
距離が詰まっていく。アルコールのにおいがして、珈琲のにおいもした。その奥に湿った熱と、汗の匂いがした。
唇が触れる寸前で、彼女が止めた。
「電気。消せ」
「……はい」
「返事はするな」
「なんだか、我儘ですね」
それでも、絡んだ指は離れなかった。
照明を落とす。
光と一緒に、躊躇っていたものは消えていった。すぐ傍に彼女が居る、わかっているのに何度確かめたって、気が済まなかった。もっと触れていたかった。
初めて、腕の中に収まった。初めて、俺だけを見てくれていた。初めて、彼女の余裕のない声を聞いた。
今日だけは薫さんと間違っていたかった。
薫さんは、柔らかかった。




