そういうことにしておく
そういうことにしておく
005
「……覚えてたんですね」
「まぁ、たまたまな」
「約束、してなかったのに」
「恩知らずを今ここで蹴り倒して帰ってもいい」
また、回りくどい言い方をする。
「誰が一番世話焼いてやったと思ってる」
「でも、俺はもう先生の生徒じゃありませんよ」
「元生徒だって、私の大事な教え子だろ。違うか?」
「……便利な方便ですね」
「ちょっとは、物分かりが良くなったみたいだな」
先生は肩に落ちた花びらを摘まんだ。捨てるでもなく、その白細く伸びた指先で弄んでいる。
「入学式はとっくに終わりましたよ」
「折角の休日なのに、そんな退屈なことできるか。今日は大学生のお前を見に来ただけ。だから、ちゃんと間に合っただろ」
何時間もベンチで待たせておいて、少しも彼女は悪びれない。
「先生には、今日の俺はどう見えてますか」
先生は指先の花びらから俺へ視線を移した。革靴から始まって、スーツ、襟元、最後に顔まで。採点でもするようにゆっくり眺めていく。
「ネクタイが曲がっている」
「朝から何度も直したんですけどね。まだ慣れないみたいです」
「それでも格好は、まぁ張り切っててよろしい」
「それは、どうも」
張り切った理由は、入学式でなかったけれど。
「じっとしてろ」
先生の手から花びらが攫われる。彼女はそのまま俺のネクタイへ手を伸ばした。結び目を摘まみ、ほんの少しだけ中央に寄せる。
近かった。
伏せられた睫毛も、風に揺れる髪も、薄く化粧の乗った頬もよく見えた。俺が黙ると、先生はその理由に気づいたらしい。乱暴に結び目から手を離した。
「これで、多少はましになっただろ」
「多少ですか」
「外面がちょっと整ったところで、数週間で中身は変わったりしないだろ。人間はそう簡単な生き物じゃない」
「相変わらず、手厳しいですね」
「ただ、まぁ」
もう一度、彼女は俺の方を見る。
「感慨がないわけじゃないよ。お前は、ほんとによくやった」
その言葉はきっと、俺一人に向けられた言葉ではなかった。それでも、今、彼女の目に映っているのは俺だけだった。
「先生のお陰ですよ」
「当たり前だ。恩知らず」
先生はあからさまに時計を確認した。読むのにそう時間がかかるわけがないアナログ時計を、やたらゆっくり眺めている。
「それじゃ、私は帰るから」
「まだ、外見しか見てないでしょう」
「それで十分だろ。中身はまだ高校生のままだった」
「いいえ足りませんよ。もっと見てください」
「八坂。お前卒業した途端に我儘になったな」
「もう生徒として、遠慮をしなくていいかと思いまして」
「じゃぁ、私にその我儘を聞かせる理由はもうないんじゃないか?」
「ありますよ。俺は先生の大事な教え子なんですから」
「便利な方便だ」
先にそれを使ったのは先生の方だった。
元生徒も大事な教え子である。その言葉さえあれば、先生はここにいてもいい。入学式へ来たことも、この先もう少し俺との時間を過ごすことも、全て教師としての情として片付けることができる。
きっと、理由がなければ選べないわけじゃない。理由のない選択だけは、自分に許せない人だった。だから、彼女がその方便を差し出すのなら、それを拾う。形を整えて、断りにくい頼み事に作り替えて彼女へ返す。
卑怯なのは、今に始まったことじゃない。
「先生が用意してくれたものですから」
「悪用していいなんて言った覚えはない」
「大事な教え子がこれからどんな場所で過ごすのか、先生は興味ありませんか?」
「案内でもしてくれるのか? 入学初日の何も知らないお前が」
「また一緒に迷ってくださいよ。同じ目線で知っていけば、帰るころには案内したのと大差ないでしょう」
「相変わらず、屁理屈だけは達者だ」
先生は呆れた顔で息を吐いた。それでも時計に落としていた視線を再び俺へ戻す。
彼女が帰る理由はきっと幾らでも挙げられる。目的は果たされた。入学式は終わっている。俺が無事に大学生になったことも確認できた。休日を元教え子一人に費やす義理もない。
それでも、先生は帰らなかった。
「しょうがないから、少しだけ付き合ってやる」
「先生の気が済むまで、何処までも案内しますよ」
「お前の気が済むまでの間違いだろう」
訂正はしなかった。
どちらか一人の気が済んでしまえば、この時間は終わる。だったら、二人とも満足しないままの方が都合がいい。
俺は先生と並んで、ひときわ大きな建物へと足を進めた。
案内役として、俺は赤点だった。講義棟だと思って近づいた建物は研究棟で、図書館へ向かったつもりが行き止まりに出た。先生はそのたびに、慣れていないのに格好つけるからだと笑った。
その声を隣で聞きながら、俺も初めて自分の通う場所を見ていった。
広い講義室。まだ何も張られていない掲示板。閑散とした中庭。これから俺が何年も通い、知らない人間と出会い、知らなかった事を学ぶ場所だった。
そして、幸助が来られなかった場所だった。
アイツの代わりにここに立った訳じゃない。アイツの分まで生きるつもりもない。そんな正しい言葉で纏めるには、俺は道を踏み外しすぎていた。
先生と俺の間には、一人分の空白があった。俺たちは、その空白を挟んだまま歩いていた。
昼は学食で済ませた。
同じ日替わりの定食を頼んで、先生は「安い味がする」なんて悪態をついて。それでも残さず平らげていたから、きっと気に入らなかった訳ではないのだろう。
何を食べたかより、その程度の不満を俺に零してくれた事の方が、喜ばしかった。
向かい合って昼食を取りながら、春休みの話をした。運転免許を取ったこと。両親をどうにか説得して、一人暮らしを始めたこと。洗濯物は油断するとすぐ溜まり、料理は思った以上に面倒で、それでも少しずつ一人でできることが増えていること。
先生は後期試験を受けた生徒の結果が出るまで落ち着かなったらしい。最後の一人が決まり、ようやく肩の力が抜けたと笑った。
「そういえば、卒業式で何人かに告白までされたよ。学校から解放された途端、気が大きくなる奴ばっかりで困った」
「随分と人気だったんですね」
「今更気づいたのか、お前は見る目がないな」
「それで、先生はソイツらになんて答えたんですか」
「みんな一緒。卒業おめでとう。悔いのない大学生活を送れよって」
「答えになってませんよ、それ」
「教師が送り出す言葉としては満点だろ」
「告白の返事としては、きっと零点です」
「だろうな、ソイツらもそう思ったんだろう。みんなえらくしょげた顔を見せてくれたよ。でも、卒業したからって、ガキの恋愛に構ってあげる義理なんてない」
そういって、先生は俺を見る。それでも、その忠告は聞かなかったことにした。
「なんだか、青春ですね」
「そうだな。私にもまだ、そういう役割が回ってくるらしい」
先生はきっと教師としてそれを笑った。好意を受けた一人の女性として、何を思ったのか、それは話さなかった。
食事を終えてからも、僕らは大学内を散策した。
「外から見るよりだいぶ広くて、いいところだな」
夕方に近づき、殆ど人がいなくなった校内を眺めながら先生はいった。
「先生が通ってた大学はどんなとこだったんですか」
「もっとずっと山奥だったよ。イノシシがよく校内に乱入してくるくらい、クソ田舎だった。学科の少ないキャンパスだったからここよりずっと狭くて、学ぶだけならそれで事足りたけど、それ以上は何もなかったかな」
「……それは、よかったです」
「何の心配してんだ」
「別に。ただ、余計な誘惑が少なくてよかったと」
「喧嘩なら買うぞ」
「褒めたんですよ」
「伝わるかよ。もっと国語を勉強しておくべきだったな」
そうやってくだらない話ばかりをした。
そうしている間だけは、俺は先生の教え子でいられた。そこから一歩も踏み出さないまま、安全な場所で、彼女と二人でいることができた。
けれど、陽は少しずつ傾いていく。
長く伸びた二つの影が、舗装された道の上で一つに重なる。歩みを止めてしまえば、簡単に離れてしまう。だから俺は、隣で歩く速さを変えなかった。
正門へ戻って来た頃には、時計の針は五時を回っていた。
「随分時間がかかったな」
「そうですか? 俺には一瞬でしたよ」
「そうかい、それは良かった良かった」
先生はため息を吐いた。それでも、門の外にはでなかった。引き延ばした理由もここまでだった。
大学生になった俺を見る。それだけなら、もう十分すぎるほど果たしている。それでも彼女を引き留めるには、新しい理由が必要だった。
考える。
先生が興味を持つもの。呆れながらでも確かめずにはいられないもの。元担任として、辛うじて体裁を守れるもの。
「先生、今日の夕食予定は?」
「帰って、適当に食うよ」
「自炊するんですか?」
「お前、今なんか失礼なこと考えただろ。週末くらい、たまには、気が向いたら作ってる」
「普段は」
「カップ麺か、冷凍食品か、スーパーの惣菜。最近のはそれで十分旨い」
どの口で学食を安っぽい味だと言えたのか。
それでも、予想通りだった。きっと平日料理にかける時間なんてなかったんだろう。洗濯物もため込んで、そういった家事のため込みを週末に清算して。また月曜になる。なんとなく、想像は出来ていた。
「うち今日カレーなんですけど、食べていきませんか」
何気ない誘いのように、そう伝えた。本当は喉が渇いて、声も少し裏返りそうだった。
「俺、先生より美味く作れる自信ありますよ」
「高々一ヶ月自炊齧ったくらいで調子に乗るな、馬鹿の山に居るだけだろ」
「食べてもらったら、きっと先生も唸りますよ」
先生は答えなかった。
答えないまま、俺の後ろにある大学を一度振り返る。次に正門の外へ目を向ける。先生が帰る方向と、俺のアパートがある方向は途中まで同じだった。
今ならまだ、どちらを選んでも不自然はない。
「食えないようなゲテモノ出てきたらどうする」
「カレーなんて失敗する方が難しいでしょう。そんなに心配しなくったって、ちゃんと食べれる物を出しますよ」
目を合わせて、見つめる。
「あぁ」と、先生の口から小さく声が漏れた。どうやら、ようやく先が浮かんできたらしい。俺だけが馬鹿な想像をしている訳じゃなかった。
それを期待と呼んでしまうのは、きっと都合が良すぎた。それでも、可能性として数えられたことくらいは喜んでも許されるだろう。
「そういう問題じゃない」
「だったら、どういう問題なんですか。教えてくださいよ」
「分かってるだろ」
先生はそこで止めた。言わなかった。言ってしまうと確定する。だから、代わりに別の言葉を選んだように見えた。
「元担任が、教え子の部屋に上がるって話だ」
「大事な教え子の新しい生活を、確認してくれるだけでしょう?」
「だからって、家まで面倒見てやるなんて言った覚えはない」
「面倒見てもらうつもりなんてありませんよ。俺が先生に夕食を御馳走するだけなんですから」
「それはそれで、可愛げがない」
「成長したと言ってください。いつまでも可愛いままの子供じゃいられないんです」
一つ言葉を返されるたびに、別の理由を重ねていく。
大学から俺の部屋までは遠くない。駅へ向かう途中にある。カレーはどのみち多めに作る予定で、先生がいてもいなくても手間は変わらない。夕食を食べれば、そのまま帰ればいい。
どれも、嘘ではなかった。
嘘ではない言葉を並べて、その先にある本心を見えにくく暈していく。正しいことを幾つ重ねても、正しい結論にたどり着くとは限らない。それを俺はよく知っていた。
「お前が理由を並べれば並べるだけ、胡散臭くなるんだよ」
その通りだった。
それでも、疑う材料が増えるのと同じだけ、先生がここから俺と歩いてもいい理由も増えている。
「帰りたいと言われれば、俺は引き留めたりはしませんよ」
「言ったな?」
「えぇ」
それだけは、はっきりと頷く。そこに嘘はなかった。彼女が帰るというのなら、見送るしかない。
「第一、今断ってくれたっていいんですよ」
「ここまで断れないように詰めといて、よくもまぁそんなことが言えるな」
「無理強いはしませんよ。頑張って誘ってるだけです。俺はもう少し一緒にいたいですから」
我ながら、酷く聞こえのいい詭弁だった。
それでも、先生には届いたらしい。
彼女は頭を搔いて、深くため息をついた。困ったとき、答えを出す時間を誤魔化す癖だった。俺はもう何も足さずに、その結論を待った。
「一皿だけ、付き合ってやる」
先生は俺を追い越して、正門の外へ出た。
「おかわりもありますよ」
「いらん」
直ぐにその隣に並ぶ。
先生が帰る道と、俺の部屋へ向かう道は途中まで同じだった。だから、先生はまだ、帰る途中だった。
その角を曲がるまでは。俺のアパートが見えるまでは。先生が自分の足で、その玄関を跨ぐまでは。終電がなくなるまでは。
何度でも、帰る途中だったことにしておけばよかった。




