覚えてたらな
覚えてたらな
004
幸助のために作られた問題集は、冬が終わるより先に半分を切った。俺が解くたびに残りの頁は数を減らし、先生が赤丸を付けるたびに卒業までの日数も減っていった。
成績は上々。要領がいいなんて思ったことはなかった。それでも先生とのこの関係が終わってしまう。そう考えるだけ数学に限らず熱が入った。その先を期待するには、県大への合格は絶対条件だった。
受験も佳境へ入った冬休み間近、成績は十分に合格圏内だった。それでも数学を除いて完璧だといえる科目はなくて、流石にその穴を埋めることに必死になっていた。先生との時間が少しづつ減って、それでも週に一度は必ず、現状の報告も兼ねて談笑交じりに最終下校のベルが鳴るまで参考書を広げて二人で過ごした。この息抜きが心の支えで、きっと彼女もそれを分かっていた。
だんだん問題を解いている時間よりも、先生が珈琲を飲む間に交わす会話のほうが少しずつ長くなった。そうやって俺は、先生の事を知っていった。
旦那さんは先生より七つ年上で、海外に本社を置く会社に務めているらしい。海外勤務が決まったのは、俺たちが高校に入って先生が担任になった年と同じだった。もう三年近く夫婦は同じ家で暮らしていないことになる。
連絡は毎日ではないらしい。時差もあれば、互いに仕事がある。用事がなければ数日連絡を取らないことだってあるそうで、それでも先生は不満そうには話さなかった。
「信頼されてるんですね」
「連絡がないくらいで逐一疑われたって面倒だろ。何か大事でもない限り、仕事中まで連絡を取り合う必要なんてない」
「先生も随分旦那さんを信頼してるみたいですね」
「してなきゃ、結婚なんて出来ない」
「そんなもんですか」
「……でも、どうだろうな。思えば、結婚したから信頼できるのかもしれない。守れなかったら正しく罰を受ける約束事ってのは、社会で生きていく上では結構重いんだよ」
「愛情じゃなくて契約の話になってません?」
「この先の何十年愛情だけじゃ人間は縛れないよ。そこまで人間は信用できる生き物じゃないし、だから重い約束を交わす」
「先生らしいですけど。後ろ向きな考えですね」
「そうかもな。でも、旦那とだったらその面倒を引き受けてもいいと思ったんだよ」
「……そうですか」
「露骨に残念な顔するなよ。いつかきっと、お前にもそう思える時が来る」
「してませんから。話し終わったんなら、さっさとここ教えてください」
「はいはい。じゃぁ、そういうことにしといてやるよ」
会えないことと、愛されていないことは違う。旦那さんは帰国の度に、先生が以前何気なく欲しいと言っていたものを土産に買ってくる。短い時間の中で、それでも離れていた時間を埋めるように先生を大切にしてくれるのだという。旦那さんの話になると、先生の声には隠しきれない柔らかさが混じっていた。
夫婦仲が悪い訳ではない。旦那さんは誠実だった。先生が見捨てられてるなんて事もなかった。
ただ、今ここにいなかった。
この三年だけでいえば、きっと俺の方が先生と長く過ごしていた。旦那さんさえ知らない先生の顔を俺は知っていた。気にかけていた教え子を失って、公園で煙草を燻らせながら泣いていたこと。自傷まがいな仕事の詰め方をしたこと。いなくなった生徒のために、もう渡せない問題集を作るまで追い詰められていたこと。
それらを知ったところで、何の権利もない。
それでも、意味が無いとは思えなかった。
俺だけが知っている彼女の弱さに、あわよくば理由が欲しかった。
旦那さんの代わりになんて思いあがるほど馬鹿じゃない。それでも卒業と同時に『元生徒』の一言で片付けられてしまうのは、考えるだけで辛かった。
県大の二次試験を数日後に控えた、最後の個別指導だった。
「先生。俺が合格したら、一個だけお願いを聞いてくださいよ」
普段あまり表情を変えないくせに、露骨に嫌そうな顔をする。
「他を当たれ、私はそういう約束はしないって決めてるんだ」
「まだ一言も言ってないでしょう」
「言わなくていい。どうせろくでもないことを言い出すんだろ。それでいて、聞いたら断りにくくなるように出来てる。その手のやり口はよく知ってる」
「先生の生徒ですよ。ちょっとくらい信用してください」
「だから、余計にだ」
「少なくとも、先生にとって悪い話は持ち掛けませんよ。迷惑を掛けたいわけじゃないですし」
「その口上で話を持ち掛ける奴は、大抵自分にしか得がない」
言葉の端を摘まんでは、先生は器用に逃げていく。ただ俺もこのまま引くことは出来なかった。
卒業してしまえば、教師と生徒という理由はなくなる。当たり前だった、いつまでも先生が先生でいてくれるわけじゃない。
だったら、それがなくなった後にも残る理由を、今のうちに作っておかなければならなかった。
「大学生になった俺を、見てください」
彼女の指先で舞っていた赤ペンが止まる。
大学生になれなかったアイツを、先生は知っている。分かった上で、この言葉を選んだ。
ただ卒業後も会いたい、そう言ったところで先生は頷かない。それでも、見届けられなかった生徒の先を重ねられる言葉なら、きっと彼女は無下にはできない。
そう考えてしまった。
卑怯だった。
それでも、嘘ではなかった。
「……まだ受かってもないだろ。大学生になれるのかの瀬戸際なんだぞ、寝言は寝て言え」
「だから、合格してからですよ。こうやって話せる時間は、もう無いんですから」
「そんなことないだろ。私はお前の担任だぞ」
「それも、卒業までです」
先生はしばらく俺の顔を見ていた。お願いの裏まで採点をするみたいに、見透かした顔をする。
「……狸が」
「皮算用は捕ってから言え。ですか、端折りすぎですよ」
「そういうことにしといてやるよ」
彼女に隠し事は無駄らしい。
先生は何も約束せず、答案へ目を戻した。最後の一問へ付けられた赤丸は、なんだかいつもより歪んでいるように見えた。
「覚えてたらな」
約束というには、あまりにも雑な言葉だった。
日時も場所も、何一つ決めなかった。先生は気にも留めなったような顔をして、俺もそれ以上彼女に確認をするようなことはなかった。
それで、十分だった。
先生が見たいのは、手塩にかけた生徒の進路かもしれない。見届けられなかった幸助の先を、俺の中に重ねているだけなのかもしれない。
それが何から始まったって良かった。その理由の中に俺自身を混ぜてしまえば、きっと切り分けられなくなる。
旦那さんの代わりにも、幸助の代わりにも、なりたいわけじゃなかった。ただ、違う何かとして。先生が俺をそばに置いてもいいと思える理由が一つ欲しかった。
そのために幸助の死を使った。
先生の痛みに寄り添うような顔をして、俺はその痛みが残した隙間へ入り込もうとしている。その醜さを自覚できないほど、馬鹿ではなかった。
それでも自覚したくらいで身を引けるほど、正しくもなかった。
きっと先生はそこまで分かっている。
だから、約束はしなかった。それでも、はっきりとは断らなかった。
半分はそんな先生の歪さにつけ込んだ計算だった。もう半分は、俺を見てくれていると信じたいだけの願望だった。
そんなものに、自信なんてあるはずもない。
数日後、俺は県大を受験した。
その数日後の卒業式で、俺は先生に正しく送り出され、教師と生徒でいるための最後の理由を失った。何を話すこともなかった。先生は他生徒に引っ張り凧で、結局俺たちは何一つ特別な話をしなかった。
それから、しばらくたって、合格者一覧の中に自分の番号を見つけた。
『狸、確保』
それだけを先生へ送った。
返信は今までで一番早かった。狸が万歳をしているスタンプが一つ返ってきた。たったそれだけだった。
それでも、画面の向こう側では俺以上に喜んでいるに違いないと思えた。合格した本人に祝いの言葉一つ寄越さず、狸に全部を代弁させてしまう。
なんでも器用にこなす癖に、こういう不器用な人だった。
結局俺は彼女に入学式の日程を伝えなかった。時間も場所も、何もかも。県大の入学式がいつ行われるかなんて、ちょっと調べようと思えば今時誰にだって調べられる。
先生が来るかどうかは、また別の話。
約束はしていなかった。
覚えていたらな。そう言われただけで、覚えていたところで見に行くなんてなかった。そもそも、先生は俺のお願いに頷いてすらいない。
それでも俺は、先生に見られることを想像しながら新しいスーツを選んだ。入学式の朝、慣れない襟元を何度直しても、ネクタイは少しだけ右へ傾いた。親父は気にするほどでもないと言い、お袋はみっともないから直せと言った。何度やり直しても結果は同じだった。
会場には、俺と同じような格好をした新入生が溢れていた。
真新しいスーツに身を包み、履きなれない革靴の音を響かせる。少しだけ浮ついた声。誰もが今日から大学生なのだと、まだ服装から言い聞かせているように見えた。
式典は、あくびが出るほど正しかった。
開式の辞に始まり、学長の言葉があって、新入生の代表が宣誓する。誰も一葉に興味がないであろう話に耳を傾け、号令で一斉に立ち上がる。
半年前の通夜を思い出す様子だった。
あの日と違って、今日は誰の不幸もない。そのはずなのに、隣にいるはずのないアイツを探してしまう。
式が終わると、両親と大学の正門前で写真を撮った。入学式と書かれた立て看板の横に並び、親父に頼んで一人でも撮ってもらう。
写真の中の俺は、確かに大学生に見えた。
「もう帰っていいから、あとは好きにさせてほしい」
撮影を終えたところで、両親へと告げた。
「飯くらい、一緒に食べないのか」
親父はあからさまに不満そうだった。
「そこら辺を見て回りたいんだよ。二人が居たら気を使うし、親父目立つから」
お袋が笑った。親父は、継ぐならお前の未来だからな、自前の坊主頭を撫でながら釘を刺した。
「じゃぁ、誰に会うかは知らないけど、迷惑を掛けるなよ」
不意をつかれ、黙る。
「人に見せるための準備の仕方くらい、見てりゃ分かる」
じゃぁな。そういって背を向けた。たまには実家に顔だせだとか、家の手伝いをしにこいだとか、何度も振り返って去っていった。
二人の姿が見えなくなってから、正門近くのベンチに腰を下ろした。
待ち合わせの場所なんて決めていない。そもそも来るかも分からない。それでも、もし先生が来てくれるなら、まずはここを通ると思った。
大学構内を闇雲に探すような人でもない。きっと正面から入って。そして俺が見当たらなかったら、何事もなかったみたいに帰っていくんじゃないだろうか。なんとなく、そんな気がしてならなかった。
式を終えた新入生とその家族が、次々と正門を抜けていく。
立て看板の前にはただ駄弁っているのか、順番待ちをしているのか分からない人だかりが残っていた。新しく知り合ったらしい学生同士がお互いに探り探りに会話して、連絡先を交換していた。
十一時を過ぎた。
先生は来なかった。
約束はしていない。何度目になるかわからない言葉を、頭の中で繰り返した。
スマートフォンを開く。先生とのやり取りを開いても、狸の間抜けな万歳で終わっていた。
『どこにいますか』
そこまで入力して、消した。
先生が来るとは聞いていない。来ていない人間に勝手に期待して、居場所を尋ねるのは、あまりに滑稽だった。
十二時を過ぎた。
正門周りがようやく捌け始めて、大学の係員が案内用に張っていた紙を一枚ずつ剥がし始めた。
時間外。そう言われればそれまでだった。
今はもう生徒ですらない。貴重な休日を潰す理由なんてない。まして俺一人のために、わざわざここまで来る理由もない。
俺が作ったつもりでいた理由は、卒業と一緒になくなってしまったのかもしれない。そう考えるたびに立ち上がろうとして、それでも革靴の底は地面から離れなかった。
十二時半まで。
一時まで。
立て看板が片付けられるまで。
言い訳だけを先延ばしにして、待つ時間を少しずつ足していった。
一時を過ぎた。
とうとう、立て看板が運び出される。さっきまで入学式だった場所が、少しずつただの大学に戻っていく。
もう一度だけ、スマートフォンを見る。連絡は勿論なかった。流石に、諦めるべきなんだろう。立ち上がろうとして、膝に手をついた。
溜息が漏れた。
「入学式だろ、もっと景気のいい顔しろよ」
それは、聞きなれた声だった。
顔を上げれば、春物の薄いコートを着た先生が、呆れたような顔でこちらを見下げる。
春風に攫われた花びらが、一枚先生の肩に落ちた。
ようやく、桜が咲いていたことを知った




