教師と生徒の理由
教師と生徒の理由
003
先生と二人きりで過ごす理由なら、ずっと前からあった。
俺は数学が得意ではなかった。
とはいえ、赤点を取るほど救いようがない訳ではない。教科書を開き、時間をかけて模範解答の式一つ一つを順に追えば、どうにか自力で答えへ辿り付ける。それでも再現性はそこまで高くなくて、ラッキーパンチで解けたり式の途中で迷子になってしまう。その程度だった。
だから、そんな不安定な出来るは、出来るうちに入らないらしい。職員室へ疑問を持って行けば、先生は一度だって追い返したりしなかった。
決まって、隣の生徒指導室の鍵を借りて、面談するに丁度いいだけの狭い空間で。最初は本当に分からない問題だけを持って行った。次は解き方に自信が持てない問題を。その次は、一度自力で解けた問題を。
いつしか俺は、先生に聞くための問題を残すようになっていた。
嘘はついていない。数学が苦手なのは本当で、質問があるのも本当だった。ただ、聞かれなかったから、答えなかっただけだった。
幸助が死んでから、先生は以前より目に見えて仕事を抱え込むようになった。
朝は誰よりも早く職員室にいて、放課後日が暮れても帰らない。授業に関係のない資料まで作り、生徒ひとりひとりの苦手な範囲まで拾っては、頼まれてもいない問題集へと変えていった。
それでも「これくらいしかできないから」と先生は言う。
俺が質問へ行くたびに、机の上に積まれる紙の束は厚くなっていた。反面、先生の顔からは少しずつ肉が落ちていった。
それが先生なりの身の守り方だった。
だから、日に日に先生を頼る時間を増やしていった。今を暈す手伝いをした。初めは、それだけだった。
一問が二問になった。十分が三十分になった。気づけば下校時刻を知らせるチャイムを聞くようになって、ほんの少しだけ彼女の話を聞くようになった。今日黒猫が目の前を通って行っただとか、いつもの缶珈琲の味が変わっただとか、久しぶりに旦那さんと電話したとか、そんな他愛無いことばかりだった気がする。今のクラスの誰がどうだとか。楽しめてるか、なんて。
いろんな話をした。それでも幸助の名前は一度だって出てこなかった。話さないことで、俺と彼女はきっと話題のその先にあったアイツを、一緒に思い出していた。
「正解。今日は随分調子がいいな。何かいいことでもあったか?」
「きっと、先生の教え方がいいんですよ」
「お世辞は結構。それでも、なんだ。こう成長を見せてくれると、教え甲斐があるよ」
まるで、誰かの話だった。
「先生は、俺が何処で迷ったのか、見つけてくれるじゃないですか。この問題の中で俺と一緒に迷ってくれて、俺のペースに合わせて手を引いてくれる。きっとそれが合ってるんですよ」
「なんだ、ポエムにでも目覚めたか」
「俺を見てくれてることはわかります。今だけは」
きっとこれだけで届く。
「お前は可愛くないな」
「比べられたら、勝ち目はないでしょうね」
「生意気」
赤ペンの尻で額を小突かれる。全く、痛くはなかった。
まだ下校時間には余裕があった。今日分は解けてしまって、本当はもうここにいる理由は無くなっていた。それでも、俺はまだ参考書を閉じなかった。
「今日は終わりだな。もう帰っていいぞ」
「もう少し、駄目ですか」
「出来たやつの相手をしてやるほど、先生は暇じゃないんだよ。まだやるべき仕事が、山ほど残ってんの」
先生は机の端に積んだ紙束に手を伸ばす、学籍番号と名前がひとりひとり印刷された、個別の問題集だった。それが教師一人の仕事量でないことくらい、俺にもわかった。
俺の前へ一冊置いて、残りを揃えようとしたんだろう。それでも、手に力が入りきらなかったのか、一番下の冊子が床へ落ちた。
反射的に拾い上げた表紙は、幸助の名前だった。
「……先生」
「返せ」
いつもの声だった。
ただこちらに伸ばされた手だけが、酷く強張っていた。
「これ、いつ作ったんですか」
「いいから。返せ」
「だって」
「わかってるよ」
語尾だけが、少し重かった。視線が俺を避けていった。
それ以上、俺は何も聞けなかった。けれど、黙って返すことだって、できなかった。表紙の名前さえ親指で抑えてしまえば。そうすれば、その他の問題集と変わらない。きっとそんなわけがなかった。
「俺がやりますよ」
「お前にはまだ難しすぎるし、要点が違う」
「アイツに負けっぱなしなのも、癪ですから。今更、追い越したいんですよ」
「お前用に作ったやつがあるだろ。それで十分だ」
「でも、これはもう渡せないじゃないですか」
「八坂」
「先生。これ、捨てられないんでしょう」
先生の眉に皺が寄った。怒らせただろうか。それでも、取り返そうと伸びた手は途中で止まった。
きっと捨てられないだけじゃない。そしてこれは幸助に渡しそびれた問題集でもない。表紙の日付は新しかった。
仕事に埋まって、そうやって今を暈して、考えないようにしたって。それでも先生は死んだ幸助のために時間を使ってしまう。
きっと先生は異常だった。追い込まれていることくらい、俺にだってわかった。正しい選択肢を探せば、幾らでも見つけられた。
それでも、その暗がりから先生を引き上げたいとは思わなかった。同じ場所まで降りて、あの夜彼女がしてくれたように、その手を握って隣にいたいと願った。
それが誰のための優しさなのかなんて、考えなかった。
「だったら、俺にください」
「これは、お前のためにならないよ」
それでもいい。
「先生のためには、なりませんか」
先生は答えなかった。
「俺が解いて、先生に確認しに来ます。間違えてたら、また一緒に向き合ってください。それなら、少なくとも。先生ひとりで見なくてもいい」
「……お前は、私を休ませたいのか働かせたいのか、どっちなんだよ」
「先生が独りにならない方です」
「……呆れる。受験生は他人の心配してる場合じゃないだろ。あまつさえ、教師を管理しようだとか」
「でも生徒としてだったら、先生は許してくれるんでしょう?」
問題集を鞄へしまう。先生は最後まで許可を出さなかった。それでも、止めもしなかった。
「お陰で最近模試の結果も良いんですよ。志望校をひとつ上げようと思っていて、丁度いいんです。県大の二次だったら、きっとこれくらい解けないと受かりませんから」
教師の献身的な指導で生徒の学力が向上し、結果志望校のレベルを一つ上げた。生徒と教師が二人きりでいるには、これ以上ない理由だった。
「どうでしょうか」
「……お前なぁ」
きっと半分くらい冗談を言ってる。そう思われたんだろう。
「明日までにやってきますから」
それでもよかった。少しだけいつもの先生の顔へ戻っていく。それだけで良かった。
あの日から、質問がなくても放課後に残るようになった。
幸助のために作られた問題は、俺が解いた。俺の答案を先生が採点した。赤い丸が増えるたびに、アイツのためのものが少しずつ俺と先生の時間に変わっていった。
数学は、先生と二人で過ごす時間だった。
いつからか、それは理由でしかなくなった。




