約束はしない
約束はしない
002
『この鍵は何だ』
薫さんが部屋を出てから三時間が過ぎた頃だった。家に着けば嫌でも気付くと踏んでいて、それにしては少し遅かった。連絡を躊躇っていた時間だとしたら、それは可愛らしいと思った。
『合鍵です』
『揶揄ってんのか』
『俺はいつだって本気ですよ』
『返す』
『いつ来ますか? 明日でもいいですよ』
『学校でいいだろ』
『もう卒業しましたよ。落ち着いてください』
『郵送する、住所送れ』
『大切な鍵ですよ。途中でなくなったら困るでしょう』
『捨てるぞ』
『平日はどうですか?』
『嫌い』
『来週の土曜とかどうでしょう。薫さんの予定は空いてますか?』
『約束はもっと嫌い』
薫さんはこれきりだと言った。それでも、俺は彼女がそう優等生じゃないことを知ってしまっていた。
最後まで彼女は、行かないとは言わなかった。
言葉巧みに人を導くくせに、自分が一番その檻に閉じ込められる。不自由な人だった。だから希望はまだあった。
翌週の土曜日。掃除を終わらせ窓を全開に空気を入れ替えた、清々しい午前十一時過ぎ。
『薫さん。来て』
そう彼女に送った。既読は直ぐについて、断る連絡すらなかった。
十二時を過ぎても、彼女は現れなかった。一時を過ぎた頃には、ただ俺のご都合解釈だったのかもしれないと、何度か彼女とのメッセージを声に出しながら読み直した。それでも、やっぱり行き着く先はこの結論だった。
約束は未来の決まり事で。俺たちの関係はそれに相応しくない。きっと、彼女はそう思っている。
普段の待ち合わせなんかより、よっぽど待ち時間が長く感じた。実際長かったのだけど、壁掛けの時計が何度見ても前に進まなかったのは久しぶりだった。いつ呼ばれるか分からない待てのまま、ゆっくり二時を回って、ようやくインターホンがなった。
「おかえりなさい、薫さん」
勢いよくドアを開けて出迎えた俺に、彼女は呆れた顔で長めの溜息を一つ。一週間ぶりの再会だった。
「これで終わりだ。もう二度と帰ってこない」
「そう言わずに、お茶くらい出しますから上がってくださいよ」
「お構いなく」
彼女はその一言と片手で俺を一度制して、それでもスニーカーを脱いでワンルームのこの狭い部屋にあがった。学校で見ていたようなジャージ姿ではない。薄手のシャツに、ラフなジーンズ。それでも薄い化粧が乗っていて、髪も簡単に結んでいる。来てくれるのならジャージ姿だって歓迎した。デートと言うにはラフで、それでも元生徒に鍵を返すだけだと無遠慮に割り切った格好には見えなかった。
薬指の指輪だけが、いつも通りだった。
「ほら」
差し出された掌には、見覚えのある真新しい鍵が乗っていた。キーケースからはもう外されていて、いつから握ってきていたのか、少し汗がついているように見えた。そんな愛らしい様子に一つ笑みを返す。
「薫さんは、珈琲でいいですか」
「まず、これを受け取れ」
「砂糖とミルクは」
「いらない」
「分かりました。その辺、適当に腰掛けといてください、直ぐ持ってきますんで」
「話を聞け」
彼女も差し出す以上の事はなかった。だから受け取らないまま、簡素な台所に向かう。背中から盛大にため息が聞こえた。それでも玄関の扉が開く音はしなかった。
インスタントの粉を二つの背の揃わないマグカップに入れる。まだ他の知人を家にあげたことがなかったから気づかなかったけれど、来客用なんて持ち合わせていなかった。今度、どこかで。彼女はどういった物が好みだろうか。
「ほら、鍵」
テーブルに置くでもなく、大事そうに握っていたそれをまたこちらに差し出す。
「それは薫さんにあげます」
「あのな、私は────」
「持ってるだけでいいですから。それが口止め料、ということで」
彼女の言葉を遮って、人差し指を立てる。それが彼女の信頼につけ込んだ、卑怯な頼み方だとは分かっていた。それでも、本気で脅しに使うつもりなんてこれっぽっちもない事を、伝わると信じた。
「お前なぁ」
思惑通り、今日出迎えた時と同じ顔を、彼女は見せてくれた。
目の前に置いた珈琲から湯気が立つ。
「さ、どうぞ。冷めないうちに」
ごにょごにょと口ごもりながら、それでも合鍵は大人しくキーケースに収まる。ようやく空いた利き手でマグカップを持ち上げて、指輪が陶器に触れて小さく音を立てた。
「ねぇ、薫さん。俺、薫さんのこと、何にも知らないんですよ」
「あれだけ学校で面合わせておいて、それはないだろ。さっきだって私を知った風な口であれこれと丸め込んだんじゃないのか」
「珈琲が好きで、生徒に頼られれば必ず親身になってくれる先生。口が上手くて、よく人で遊んでる。数学担当だけど、美術も教えれるんでしたね。それと七つ年上の旦那さんがいて、三年近く海外へ単身赴任中。でも、旦那さんを信頼して愛してる」
「なんだ、喧嘩だったら買うぞ」
「俺の知ってる薫さんって、それだけなんです」
「十分だろ」
薫さんは首を竦めて見せた。
「いいえ、全く。ちっとも足りません。もっと教えて欲しいんですよ。先生でも、奥さんでもない、薫さん自身のことを」
薫さんは直ぐには答えなかった。誤魔化すように珈琲へ口をつけて、眉をしかめる。
「薄い」
「文句を言うなら、次は好きな豆でも持ってきてください。道具はこっちで用意しておくんで」
「次なんかない」
「だったら、来なくていいように。今、俺が納得する答えをください」
「何を」
「俺の知らない薫さんを、一つだけでいいから俺にください」
目を逸らして、また一口珈琲に口を付ける。なんだかんだ文句を付けたくせに、悪くはなかったんだろう。それが彼女なりの照れ隠しなのかもしれない。都合のいい解釈が過ぎるか。
「何でもいいんですよ。なんだって知りたいです」
「何でもいいなんて言われると、それはそれで困るんだよ」
「じゃぁ、できたら俺と共有出来るものがいいです」
「ふわっとしたお題だな。でも、だったら外に出る類は無しだ」
「どうしてですか。先生のお陰で立派な大学生になりましたよ。横に侍らせとくには、悪くないとも思いますけど」
「お前、わかって聞いてるだろ。気ぃ使って黙ってりゃ調子に乗りやがって。そんなに聞きたいのか?」
彼女は指輪を摩る。それがなにを意味するのか分からない程、俺は鈍感でもなかった。それ以上に、その話を一旦彼女が踏みとどまって返してくれたことが、可愛らしかった。
「なに笑ってんだよ」
「ふふっ。なんででしょうね。じゃぁ、この部屋で完結できるものだけで、教えてください」
薫さんはしばらく考えていた。断る理由を探しているのか、俺に渡してしまっても構わない自分を探しているのか。その区別はつかなかった。
「……映画、とかかな」
「好きなんですか」
「最近は忙しくて、映画館なんて行ってないけど。まぁ、人並みには好きだと思う」
「じゃぁ、今度一緒に」
「行かないからな」
差し出した冗談に直ぐ釘が刺さる。
「映画が好きな人って、何か心に残った一作みたいなのがあるんでしょう? 薫さんのそれを教えてくださいよ」
「みんながみんな、そういう評論家を気取りたい訳じゃないんだよ。比較できないような作品だって沢山あったし。そもそも私は映画館のあの独特の空気感を含めて好きだから」
「じゃぁ、今の俺と見れるもので、おすすめを一つ教えてください」
「ほんと、今日は注文が多いな」
「元教え子の成長に付き合ってやると思って」
「大学生はもう成長しないんじゃなかったのか」
言葉を出し終わって、薫さんは露骨に不味かった、なんて顔をする。あんなに慌ただしく家を出た前回の朝、それでも俺の言葉を憶えてしまっていた。隠されていたそれは、会話の拍子に簡単に捲れてしまった。
彼女の瞳は考えてる振りをして逸れ、また逃げていく。目で追うだけで、頬は緩んだ。
「マイク・ニコルズの『卒業』を初めて見たのが、それこそ今の八坂くらいの時期だった」
「元担任が元生徒に勧めるには、なかなか縁起のいいタイトルじゃないですか」
「これは、そんなめでたい映画じゃない」
「じゃぁ、どういう話なんですか?」
「若い男が、年上の既婚者と間違える話」
「……それは、なかなか良い趣味してますね」
「少しくらい、自覚は持てたか?」
「相変わらず、教育熱心ですね」
「これでも後悔してんだよ。間違ってきたことを何度だって思い出してる」
軽口のような声だった。でも、きっと半分は本気だった。
動画配信サービスを開いて、タイトルを検索する。薫さんだってまだ生まれる前の、随分と昔の作品だった。
「今からみるのか?」
「そのために教えてくれたんでしょう。付き合ってくださいよ」
「いつか、一人きりで見ろ」
「そんな先のことなんて、今は知りません」
言い返す言葉が見つからなかったらしい。口元まで運んでいたマグカップを、黙ってテーブルに戻した。
「なにしてる」
遮光のカーテンを閉める最中だった。
「これだったら、少しは映画館ぽくなるでしょう。ほら、外は駄目ですから」
彼女は黙る。あまり虐めてやるのも可哀想だった。照明を切って、カーテンの裾からはみ出た陽光が光って見えた。
「見終わったら、ちゃんと鍵を受け取れよ」
「考えときますよ」
「約束しろ」
「約束は嫌いなんでしょ? 薫さんが嫌がることを、俺は出来ませんよ」
貴方が好きだから、貴方の嫌うことは俺はしません。なんて、詭弁だった。
「お前のそういうところ、本当に嫌いだよ」
これくらい隠したって彼女は捲ってしまう。それでも言葉にさえしなければきっと許された。
「今度でいいんで、俺の好きなところも教えてくださいよ」
「ない」
「傷つくなぁ」
新居にはまだテレビはなくて、ノートパソコンをローテーブルに置いた。薫さんはベッドを一瞥だけして、そう迷うこともなく床へ座った。
「ベッドのほうが、楽ですよ。映画館の椅子っぽい沈みもありますし」
「床で十分」
「この前はあれだけ気に入ってくれたのに」
「今帰ってもいいんだぞ」
そんなことを言いながら、彼女は立ち上がらなかった。隣へ座る。肩が触れない程度のつもりだったけれど、薫さんは座りなおすようにズレて、人ひとり分隙間を開けた。
それでも、映画が半分を過ぎるころには、その隙間は埋まってしまった。どちらが詰めたのかなんて、考えるまでもなく俺だった。
それでも彼女は離れなかった。
画面の中、二人を乗せたバスが走っていく。最初は笑っていた。何もかもから逃げ切って解放されたみたいに。けれど、時間がたつにつれて二人の表情から笑みが消えていく。
望んだものを手に入れた顔にも、取り返しのつかないことをした顔にも見えた。
その答えが出る前に、映画は終わった。
「どうだった?」
エンドロールを眺めたまま。薫さんが聞いた。
「面白かったですよ」
「そういう、小学生じみた感想を求めたんじゃない」
「じゃあ、薫さんは何を俺に求めたんですか」
彼女はため息をつく。こういうやり取りが、俺は嫌いじゃなかった。
「あの二人は、ハッピーエンドを迎えたと思うか?」
画面では、出演者の名前が下から上へ流れている。答えを出すには、もう終わってしまっていた。
「どこで切るかにもよるでしょうね」
「映画はあそこで終わったぞ」
「映画は、ですよ」
薫さんはわずかに眉を寄せた。
「ハッピーエンドもバッドエンドも、切り方次第。二人が後悔したって、抱き合って笑ってたことが無くなったりはしないんですよ。人生だって死ぬまで地続きなんですから」
「へぇ。それで」
「だったら、今を不幸にしておくなんて怠慢ですよ」
薫さんは鼻を鳴らした。
「随分と、都合がいい考え方だな」
「薫さんは、そう思いますか」
「その理屈なら、今さえ良ければ何をしてもいいことになるじゃないのか?」
「別に、そこに正しさは勘定しませんよ」
「わかっててやる方が、タチが悪いだろ」
「それは、きっとお互い様なんでしょう」
映画と現実の境が溶けていく。それでも、少しはお眼鏡にかなったようで、どことなく彼女は満足そうだった。
「薫さんは、今幸せですか?」
「質問が宗教臭い」
「さっきの話の続きですよ、分かってるでしょう」
「私は、後悔してる」
「幸せか聞いたんですよ」
「両立するんだよ。大人は」
それは思っていたより、ずっと都合のいい答えだった。そして俺にとっても、これ以上ないくらいの答えだった。
「やっぱり後悔してるんですね」
「してるよ。この一週間ずっと、その事ばかり考えてる」
「……だったら、今日はもう帰りますか?」
薫さんは答えなかった。狡い質問だった。
「鍵は、返しますか?」
キーケースは、ローテーブルの端に置かれていた。彼女が返すために持ってきた合鍵は、もうその中に仕舞われてしまっている。勿論、直ぐに返すことだって、出来る。
「俺のこと、嫌いになりましたか?」
「随分、卑怯になったな」
「知ってますよ」
「知っててやるな」
「知ってるから、薫さんにだけにやるんです」
彼女の左手をとる。俺がそうすると最初から知っていたように、手は拒まなかった。薬指に触れる。金属だけが少し冷たかった。
「なにしてる」
「今晩、うちで食べてってください。二人分もう買ってあるんです」
「まだ、帰れる」
「……薫さんは、帰りたいですか?」
彼女は答えなかった。それは俺には十分すぎる答えだった。
細い指輪を抜き取って、ローテーブルに置く。キーケースの隣で、小さく硬い音が鳴った。帰るための指輪と、戻ってくるための合鍵。その二つの差異に気づかないふりをした。
「映画、終わりましたね」
「そうだな」
「でも、今日はまだ終わってません」
「……そう、だな」
「薫さん」
名前を呼べば、もう逃げなかった。
一度目は酒のせいにできた。親友を失った痛みのせいにも、教え子を失った後悔のせいにも出来た。
二度目は、もう何の言い訳も残っていなかった。
それでも。少し開いた唇だけが、何かを待っていた。
「誠」
その声で、俺を受け入れた。




