最悪なことに
最悪なことに
001
柔らかかった。起き抜けに目に入ったのは、担任教師の裸だった。
いや、もう担任じゃない。俺は高校を卒業して、晴れて大学生になった。だから、教師が生徒に手を出した、では正確じゃなかった。
既婚者の元担任を、悪い教え子が唆した。
赤ペンを入れたって、悪化するだけだった。
薫さんは小さなシングルベッドの半分を占領して、こちらに背を向けて寝息をたてていた。寝相は良いほうらしい。枕に半分埋まった横顔は、今まで見てきた彼女よりずっと無防備だった。毛布からはみ出した肩がやけに白い。普段饒舌に動く口は閉じていて、教師らしい不遜さも、昨夜の弱さも、もう何処にも見当たらない。
ただの、一人の女性だった。
先生と呼んでいたせいで、気づくのが遅れただけだった。
彼女を起こさないように、ベッドを出る。眠りが深いのか起きる素振りはなかった。頬を撫でたくなる。寝起きの彼女は何を言うだろうか。そんなことを考えているだけで、朝が過ぎていくのが惜しかった。
散らかしたままだった俺達の抜け殻と、昨晩薫さんが飲み残したビール、広げたおつまみを片付ける。テーブルには、昨日彼女が外した細い金属の輪が落ちていた。それは戻る場所の約束だった。
濃い藍色のキーケースは床に置き去りだった。お互いの顔も曖昧に溶けたあの暗闇で、テーブル揺らし落としたんだろう。抱き寄せた温度は確かで、だからきっと遊んで貰えた犬みたいにはしゃいでしまった。
ケースを開けて、空いている輪に一本だけ鍵を足す。年季の入った鍵の中で一本だけ真新しくて、やけに場違いだった。
返されるだろうか。それでも、捨てることはできない人だと思った。打算的な、間違った愛情表現なのかもしれない。それでも彼女に、ここへ戻る理由を残したかった。
随分と正しい道から逸れてしまったように思う。
それが分からない程、正しさと縁のない家で育った訳ではない。
人の道を外れるな。嘘をつくな。死者への敬意を欠くな、残された者には誠実であれ。与えた「誠」の名前に恥じないように生きろと、両親から幼い頃より何度も刷り込まれてきた。
だから、親友を亡くしたあの日。俺は正しく彼の死を悼んで、そして正しく彼に別れを告げるつもりだった。
でも、出来なかった。
最悪なことに。俺は親友の通夜で、先生に恋をした。
幸助が死んだ。もう、半年前になる。高三の秋だった。
通夜の間、読経は一度も途切れなかった。
節回しに淀みはなく、声は広い会場の隅までよく通っていた。焼香の手順にも滞りはなく、誰も私語をせずに、誰も笑わなかった。
何一つ間違っていない。正しい通夜だった。
だから、酷く居心地が悪かった。
きっと幸助はあんな長い経を黙って聞いてられない。正直になってしまったあいつは、坊主の声が低すぎるだとか、足が痺れただとか、どうせだったら草川が教えてくれた曲を流してくれだとか。きっと余計なことを耳打ちしてくる。
遺影の中でだけ、幸助は笑っていた。切り取られた写真だった。隣にだれがいたのかは考えるまでもなかった。
『もうちょっと面白く読めねぇのかよ』
そんな声が聞こえた気がした。勿論気のせいに違いなかった。
いつか俺が寺を継いだら、お前の葬式くらいは俺がやってやる。
以前、病室でそう軽口に約束をした。あの頃はお互い笑って、少なくとも俺は何十年も先のつもりだった。人は簡単には死なない、それを体現した幸運でいてしぶとい奴だと思っていた。
俺はまだ大学にすら入っていなかった。修行もしていない。親父の隣に立つ資格もなければ、親友の前で経を読む資格すら持ち合わせていなかった。
約束を破ったのはきっと幸助の方なんだろう。それなのに、突き放されたのは俺だった。
草川は前列に座っていた。背筋だけは真っ直ぐで、最初から最後まで一度も動かなかった。泣いているのかも分からなかった。俺が遺影の隣から切り取られた彼女に掛けてやれる言葉なんて何一つなくて、他人行儀の会釈を一つだけ渡した。
先生は焼香の列の一番後ろにいた。喪服を着て、いつもは好き勝手遊んでいる髪を後ろで一つに結んでいた。目元は赤く、頬は少し瘦せて、やつれて見えた。
そんな顔は、初めてだった。
普段の粗暴な言動が先生の蓑であることは知っていた。その蓑を被って、草川にしろ、幸助にしろ、何かと問題児に自分から手を焼きに行っている。
それでも、あの粗暴さまでが彼女なりの誠実な生徒への向き合い方だったと思う。でなければ生徒一人のために、きっとあんな顔はできない。
幸助に別れを告げるために集まった場所で、気づけば俺は何度も先生の姿を目で追ってしまっていた。思い返せば、もう何かを間違えていたのかもしれない。
通夜が終わっても、真っ直ぐ家へ帰る気にはなれなかった。
家には親父がいる。お袋もいる。帰ればきっと、死は誰にだって訪れるだとか、残された者が故人の分まで生きなければならないだとか、正しい言葉を貰えるんだろう。
きっと、どれも間違っていない。それでも今は、一つも聞きたくない。
アイツを偲ぶこの感情を、正しい言葉にして纏めたくはなかった。
きっと全部間違っている。今はそう思っていたかった。
ぼんやりと足をただ前に進めることだけが現実だった。もっと話しておけばよかった、もっと聞きたいことがあった。何度も纏まらずに押し寄せては引いて、その度にあいつが死んだことを何度も知った。
地面だけを見つめて行き着いた先は、来た覚えのない公園だった。遊具は暗闇の中に沈んでいて、誰も居ないはずの時間に、ベンチの辺りに、赤い火だけが浮かんでいた。
「先生」
呼びかれば、弱々しかった赤い火は呼吸するのをやめた。一歩、漂った白煙の中へ寄る。
「……八坂か」
「煙草、吸うんですね。ちょっと意外でした」
「みんなには内緒な」
隣に置かれた空き缶がほのかに香ばしい。
「生徒に口止めですか」
「もう勤務時間外だ」
灰が缶へ落とされる。また咥えて深く一息。教師の時間が終わっていても、彼女は俺の反対側へ吐いた。
「本当は、旦那と付き合う前に止めたんだ。珈琲と合わせたら口の中がドブになるだろ」
「今日は、やめたままにはできなかった、と」
「八坂も、随分察しが良かったんだな。そうだよ、ドブみてぇな気分だった。買ってた銘柄は無くなってるし、適当に見繕ってみたけど味も最悪だ」
普段に似て声は平坦だった。中身が減って潰れた箱が、それにどれだけの時間がかかったか教えてくれた。
「ほら、副流煙は毒だ。寄り道なんかしてないで、さっさと帰れ」
「そのくらいいいです」
「良くない、お前らを健康な状態で卒業させるのも教師としての仕事だ」
「でも先生は時間外でしょう」
きっといつもなら簡単に丸め込まれてしまうだろう。そんな話を幸助からよく聞いた。
「先生。隣座ってもいいですか」
「駄目だ」
また大きく、白い息を吐く。
「口止め料ですよ」
「……勝手にしろ」
先生は黒いだけの空を見上げていた。指に挟んだ煙草の灰は随分長くなって、それでも落とし忘れたままだった。
「あいつさ」
そう話し始める。
「もっと。ちゃんと見てやれたと思うんだよ」
「先生は見てましたよ」
「見てた気になってた。分かってやってるつもりだった。それでも斜め上に勝手に元気になるもんだから、それでいいと思ってた」
「……事故ですから。先生のせいじゃないでしょう」
「そうじゃない。もっとあいつを正しく導いてやれたんじゃないかって。やり残したことがあるんじゃないかって、そう思うんだよ」
解説をするように、いつもの声で先生は話す。ただ、頬を伝う一筋だけが月明かりに白く浮いていた。
俺だって、分かってやってるつもりだった。幸助が俺に投げる言葉には信頼があった。それでも、あいつが何かを話さずに隅に隠していたことくらい、気づいていた。
気づいていて、聞かなかった。きっと何か出来た。それを、俺たちは取りこぼした。
薄雲が暈した月が、また歪んだ。視界の端から溢れて、ようやくつられて泣いてしまったのだと自覚した。
膝の上で握りしめた拳、その上に何かが重なる。冷たくて、それが夜風にさらされた先生の手だと知った。こちらを見ないまま、一本一本確かめるように包み込んでいった。
先生は、何も言わなかった。俺も、何も聞かなかった。
柔らかかった。
熱を失った空気の中で、先生に包まれた手だけが、ゆっくりと温度を取り戻していった。
煙草の灰が重さに負けて地面に落ちた。
最悪な日だった。親友が死んだ事も、先生を忘れることができなくなったことも。
卵の殻が、手の中で小さく割れた。フライパンに目玉焼きを二つ並べる。トースターから甲高い合図が鳴って、香ばしさがゆっくりと広がっていく。
「……何時だ」
背後から、掠れた声がした。
「おはようございます、薫さん」
「何時だって聞いてる」
「九時前です」
「まじ?」
服より先に、先生はテーブルの指輪を拾った。左の薬指へ戻して、ようやく一つ息をつく。その優先順位は、崩れなかった。
「朝食、作りましたよ」
「いらない」
「目玉焼き二個もいらないんですけど」
「お前の成長期に寄付する」
「大学生はもうそんなに成長しませんって」
「知らん。今日は帰る」
「今日は、なんですね」
「揚げ足をとるな。言っとくけど、これっきりだからな」
服を拾って着ながら、手櫛を髪に入れて梳かしながら、洗面へ向かいながら。会話の間に彼女はいつもの役割へと戻っていった。
「これは、入学祝だから」
「だったら、豪華ですね。俺には勿体ないくらい」
「そうだろ。こんな美人を抱けたこと、一生誇りに思ってろ」
「自分で言うんですね」
「事実だからな」
ドタバタと目の前を行き来する姿が微笑ましかった。焼き立ての食パンを家を出る直前に渡す。気が利くと褒めてもらえた。
日曜日なのに、何か予定があったのかもしれない。でもきっと、昨夜自分が何をしたのかを考えないために、ここから逃げただけだった。
幸助を失ったことも、誰もいない部屋へ帰ることも、薫さんは仕事に溺れて暈してきた。
現実を見ずに済むのなら、その役目が仕事から俺に変わったって、何も問題はないはずだった。




