花火が落ちるまで
花火が落ちるまで
010
夏は、締め切ったカーテンの向こう側で騒いでいた。
窓の外から若い男の悲鳴が聞こえ、遅れて小さな破裂音とそれを上回る笑い声が弾けた。夜は余計なものまで運んできていた。
薫さんは俺の心臓を枕にしていた。
仰向けになった俺の上へ、うつ伏せのまま身体を預ける。左の耳が丁度鼓動があるあたりに押し当てられて、頭のてっぺんは俺の顎の下へ収まっていた。腕で包んでしまえば「ぐえー」なんて呻いて、小さな背中の大半がその中に収まった。俺たちの肌を隔てるものはもう一枚も残っていなかった。
薫さんは何も話さなかった。目を閉じて、ただそこから聞こえる音を数えているようだった。
「煩いでしょう」
「外と同じくらい」
「誰のせいでしょうね」
「ただの自業自得だろ」
外の声は止むことなく続く。
「今日は一層、陽気な奴らが多いな」
「大学生ですかね」
「声だけで分かるのか」
「なんとなく、ですよ。自由を持て余して、騒いでること自体に意味を持たせたいみたいな」
「お前だって、大学生だろ」
「今は、忘れてました」
もう一度、遠くで花火が弾けた。
薫さんの体重を胸に感じながら、テーブルへ視線を向ける。端には細長い透明な袋が置かれたままになっていた。
「そういえば、花火ありましたよね」
「あったな、そんなもの」
「薫さんが持ってきたんでしょう」
「持ってきたんじゃない、押し付けられたんだ」
ここに来る道中、商店街で夕飯の食材を買ってきてもらっていた。一定額を超えたからと福引券を渡され、折角だからと回したところ、殆ど末賞に近い色を引き、受け取ったのがその線香花火だった。らしい。
「まだ、ティッシュの方が役にたった」
「夏らしくていいじゃないですか」
「花火に季節を感じるほど、もう若くないんだよ」
「じゃぁ、俺の夏に付き合ってくださいよ」
「暑苦しい誘い方だ」
夜も更けている。それでも二人で外に出る選択肢はなかった。
「ベランダで、どうでしょう」
「通報されないか」
「バレなきゃ大丈夫ですよ」
薫さんが、俺の胸から僅かに顔を上げる。何か言いたげだった、それでも口にしたのはいつもの悪態だけだった。
「妙な説得力まで持つようになっちまったな」
「誉め言葉として受け取っておきますね」
「いや、反省しろ」
そう言って薫さんは俺の胸に両手を着いた。
柔らかな重みが少しずつ離れていく。最後に触れていた腹の辺りからも彼女の体温が消え、代わりに冷房の冷たさが入り込んだ。
薫さんは俺の身体から降りて、ベッド脇に落ちた衣類に目を向けた。自分の服は直ぐ足元にあるのに、それでも拾い上げたのは隣に落ちていた俺のTシャツだった。
「俺のですよ」
「見ればわかる」
一度広げて大きさを確かめる。初めからそのつもりだったみたいに、彼女は迷いなく頭を通した。
横幅は随分と余裕があった。袖は肘の近くまで落ちて、襟元は鎖骨を隠しきれなかった。それでも裾は太腿を半分以上露出させる。薫さんが引っ張っても、それ以上、誤魔化しは効かなかった。
「ま、これでいいだろ」
「よくありませんよ、ギリギリじゃないですか」
「バレなきゃ大丈夫、だろ。ベランダなんてこんなもんで十分。今、自分の服なんて来たら汗が移る」
「俺のだったらいいんですか」
「嫌だったらもっと嫌そうな顔するだろ」
俺の視線を確かめるように、その場で一度だけ身体の向きを変える。裾が危うく揺れて、反射的に目を逸らす。背後から、満足そうに鼻を鳴らす音が聞こえた。
とても大人げない悪戯だった。
俺も身体を起こして床に散らばった服を拾った。手早く別のシャツを持ってきて、ズボンに足を通す。薫さんは露骨に眉を寄せた。
「お前はズボン履くのかよ」
「そんな度胸はないです、隣人に見られたら明日からどんな顔して過ごせばいいか分かりませんし」
「私にはあるって言いたいのか」
「その格好で言われても説得力無いですよ」
「だったら返そうか?」
薫さんは裾を掴まみ、少しだけ持ち上がる。返す気がないことも、俺が返してほしくないことも、きっと最初から彼女は分かっていた。
「そのままで、お願いします」
「正直でよろしい」
薫さんはテーブルの線香花火を手に取る。透明な包装越しに中身を眺め、思っていたより少なかったのか、僅かに眉を上げた。
「一瞬で終わりそうだな」
「そのくらいで丁度いいんですよ」
「どう丁度いいんだよ」
「夜はまだ長いですから」
「懲りない奴だな」
「今日は薫さんに過失があります」
彼女は呆れた声を漏らす。それでもテーブルに花火を戻そうとはしなかった。台所へ向かい、洗面器に水を張る。棚からライターを取り出して、濡れてもいいようタオルを一つ。
「線香花火にしちゃ、随分な用意だな」
「こんな関係で、ボヤ騒ぎなんて起こせないでしょう?」
「そこまで分かってるなら、部屋で大人しくしとくべきじゃないか」
「今更ですよ」
「まぁ、それもそうか」
あっさりと同意される。
片手に洗面器、もう片方にライターを持って、ベランダに続くカーテンを開く。窓硝子には、薄暗い部屋と、俺の後ろに薫さんが映った。線香花火を片手に、Tシャツ一枚で、外に出すには惜しい光景だった。
「何止まってんだ」
「やっぱり、部屋で大人しくしてるのも悪くないかなと」
「猿は一人でそうしてろ」
薫さんが横から窓を開けて一歩ベランダへ踏み出す。生暖かい夜気が一気に入り込み、冷えた肌を撫でていく。火薬の焦げた匂いも、夏草の青臭さも、遠くの公園から届く笑い声も、閉じていた部屋の中へ雪崩れ込んできた。
洗面器を両から挟むように座ると、ベランダは少し狭かった。彼女がしゃがんでその裾にいちいち目を奪われる。綾原のこともあった、一度立ち上がって辺りを見回しても、カーテン越しのアパートの光が幾つかあるだけで、視線は無かった。
「何に遠慮してるんだ」
「しいて言えば、世間体ですかね」
「殊勝な心掛けだな。いつからそんなクソ真面目になった」
素足を投げ出すような幅はなく彼女は膝を抱えるように小さく収まる。
袋を開けると、中には線香花火が十本ほど入っていた。色の薄い紙縒りが束になっている。福引の末賞らしく、随分と頼りなかった。
「火、着けて」
「なんだかんだ楽しもうとしてますよね」
「私が持ってきたんだ、どう使おうが勝手だろ。あんまり生意気言うならお前の分はないぞ」
子供みたいな人だった。ライターを擦る。小さい青い火を先端に近づけて、紙がじわじわと黒に変わっていく。火薬まで届くには少し時間がかかった。
「へたくそ」
「気長に待ってください」
ようやく先端が明るく膨らんだ。
薫さんは火の玉を落とさないよう、慎重に花火を持ち上げる。小さな橙が静かに揺れて、遅れて細い火花を咲かせ始めた。
「夏を代表するみたいな顔をしてる癖に、地味なんだよな」
「線香花火ですから」
「向こうの馬鹿どもと比べると、随分大人しい」
「俺たちには丁度いいでしょう」
これしかない。誰かの目に留まるような大きな火は上げられない。音を立てることも、二人でいることを形に残すこともできない。それでも、丁度良かった。
黙っていれば、見つからない。
見つからなければ、暫く続けられる。
今はそれで良かった。
「蕾、牡丹、松葉、柳、散り菊。だったか」
「……それは?」
「線香花火の咲き方だよ、これはもう散り菊だな」
火の玉はより小さく、走る線は細くそれでいて穏やかだった。
淡い小さな光だった。目元も、鼻筋も、僅かに開いた唇も。昼間なら見慣れたはずのその顔が、明滅するたびに違う人に見える。
「花火を見ろ」
「見てますよ、綺麗です」
「私の顔は光ってない」
「目が離せないから、きっと似たようなものなんですよ」
彼女は「なんだそれは」と呆れて、肩の力を抜く。手元が揺れて、それは水の中に音を立てて沈んでいく。
「今のはお前のせいだろ」
「まだ何本だってあるんで、そんな目くじら立てないでください」
差し出した次の一本がひったくられる。そんな乱暴な素振りをしておいてまた「着けて」なんて差し出してくるのだから面白かった。
「次は落とさない」
「もう邪魔はしませんよ」
そう言って二人で息をひそめた。
遠くの公園では、また大きな声が上がった。姿は見なくても、きっと誰かが無茶をして、それを笑っている様子が思い浮かぶ。それは、大学生の夏だった。
あちら側になっていたのかもしれない。あの誘いに乗っていれば、あの飲み会に行っていれば、あのサークルに入っていれば、選択する機会なんてきっと幾らでもあった。
「本当はお前も、あっち側にいた方が幸せだったんじゃないのか」
花火から目を離さないまま、薫さんが言った。
「俺は、薫さんがいいです」
「そんなこと恥ずかしげもなく言うな」
「聞いたのは、薫さんでしょう」
「どうせ、他に誘ってくれる奴がいなかったとか、そんなとこだろ」
「いるにはいましたよ。何度か。それでも迷ったことはありませんけどね」
「へぇ」
短い返事だった。それでも、花火を持つ指がほんの少しだけこちらへ傾く。
「興味ありますか?」
「全く」
「女の子も居ましたよ」
「聞いてない」
「今少し気になったでしょう。手元が揺れてます」
「お前の足に落としてやろうか」
さっきまで俺の胸に押し当てられていた頬が、今は花火の熱を受けて淡く赤らんでいる。Tシャツの襟元から覗かせた首元には、ついさっき俺が残した薄い跡があった。
薫さんはそれを隠そうとはしなかった。
「お前は馬鹿者だな」
「知ってますよ、俺は大馬鹿者です」
「夏の使い方さえ、間違ってる」
「これ以上は、思いつきませんでしたよ」
「もっと、大学生は自由な生き物なのにな」
「所詮、人ですよ。大学生になっても、大人になっても」
「可愛くない返事だ」
そう言って彼女は微笑んだ。薫さんの線香花火は最後まで落ちなかった。火花を出し切った先端が黒く固まり、細い煙だけを残す。
「勝ちだな」
「俺はまだやってませんよ」
下らない張り合いで、それからの時間は一瞬だった。
「さっきの私の方が長く持っていた」だの「私の方が綺麗に咲いていた」だの、今日は呑み過ぎていたのもあったらしい、悪態と難癖をつけて小さなことで勝ち誇って。そんな花火みたいに移ろう彼女を俺は目に焼き付けた。
勝敗なんてどうだってよかった。
水の中に火が落ちる度に、燃え殻だけが増えていった。
最後の二本になった頃には、公園から届いていた喧騒はいつの間にか遠くなっていた。
「もう、終わりだな」
「一瞬でしたね」
「こんなもんだろ」
「買い足しに行かなくてもいいですか?」
「十分だよ」
一本を薫さんへ渡す。二本の先端を並べて、最後は同じ火を分けた。
殆ど同時に蕾が膨らんでいく。咲いたのは俺が先だった、それでも薫さんの花も追いつくように勢いよく開く。
指が触れない程度に近く、二つの花火だけが何度もその間を跨いだ。落とさないように意識するほど手元は揺れ、揺れるたびに火球は細い紙の先へ頼りなくぶら下がった。
それでも、どちらも落ちなかった。
部屋の中で、短く振動音がした。
薫さんの手が僅かに揺れる。
火球が大きく傾き、落ちかけたところで、それでも持ち直す。
もう一度、スマートフォンの震えが聞こえた。
ローテーブルの上の外した指輪の隣、伏せられた画面が白く光っている。誰から届いたものなのか、ここからでは何も分からなかった。
「見なくていいんですか」
「今は、いい」
薫さんは振り返らなかった。俺も、それ以上は何も言わなかった。
今はまだ、二つとも燃えている。
薫さんの小指が、俺の小指に触れた。
火を落とさないように、お互いの手を支えただけだったのかもしれない。狭いだけだったのかもしれない。それでも、理由は確かめずに、小指一本だけ絡めた。
先に勢いを失ったのは薫さんだった。橙色の玉が細い紙の先で大きく膨らむ。もう火花は殆ど出ていない。ただ熱だけを残して、重さに耐えていた。
部屋の中では、スマートフォンの画面がまだ光っている。
薫さんは最後まで、それを見なかった。
俺の隣で、最後の花火が落ちるまで。




