それだけでいい
それだけでいい
011
薫さんが珈琲を残した。
八月も第二週。夏バテ気味だったのか、それともただ腹にそのスペースが無かったのか。あるいは冷めて不味くなったからなのかもしれない。
それでも、薫さんが出された珈琲を半分以上残したのは初めてだった。
「不味かったですか」
ローテーブルに置かれたマグカップからは、もう湯気は立っていなかった。
「いつも通りだよ」
「だったら、今日はどうして」
「たまたま、そんな気分じゃなかった。それだけ」
薫さんはベッドを背凭れにして、手元の文庫本へ視線を落としていた。さっきから、一度も頁は捲られていない。余程、それは目が滑るらしい。
「そういえば、みてくださいよ」
テーブルの端に置いていた小さなグラスを薫さんの方へ寄せる。
「葉がまた一枚増えたんです」
「そうか」
「見てませんよね」
「元気な声が、よく聞こえてる」
「見てほしいんですけど」
「枯らしてないなら、それだけで上出来だ」
薫さんは顔を上げなかった。
珈琲の苗には、以前より少しだけ濃い緑が増えていた。新しく開いた葉はまだ小さく、他の葉と比べれば色も薄い。それでも、確かに育っている。
薫さんなら、水をやりすぎていないか、日の当て方は合っているのか、虫は来ていないか。そのくらい余計な確認をいつもの口の悪さと一緒にすると思っていた。
一瞥もせずに褒められても、あまり嬉しくはない。
「今日は、疲れてるみたいですね」
「もうすぐ、夏休みが開けるからな」
「それは、お疲れ様です」
「お前たちが休んでる間に、私達はお前たちが戻ってくる準備をしてるんだよ」
「俺はもう戻れませんよ」
「分かってる」
返事は少し遅かった。
薫さんはそこでようやく顔を上げた。俺ではなく、部屋の壁にかかった時計を見る。何時だったのか忘れていたような、そんな目だった。
「新学期始まったら、また忙しくなりますね」
「そうだな」
「今の受け持ちはどうです? 俺たちのころと比べて問題児はいませんか?」
「お前らみたいなのが毎年いたら教師なんてやってられん。今年の受け持ちはみんな、いい子だよ」
いつの間にか俺も問題児にカウントされているようだった。
そんな、いつもの彼女の悪態だった。
けれど、笑わなかった。
「何かありましたか」
頁の隅に置かれていた薫さんの親指が、僅かに動いた。
「何もない」
短い返事だった。
聞かれたくない時の声ではなかった。苛立ってる訳でもない。いつものように俺を丸め込もうとする調子でもない。
本当に、何もないような言い方だった。
だから、それ以上は踏み込まなかった。
「今日は映画見ましょうか。何がいいです?」
「何だっていいよ」
「一番困る答えですね」
「お前が見たいのでいい」
「薫さん、そう言って前に俺が選んだ時、最後まで演出の仕方について文句つけたでしょう」
「今日は言わない。ちゃんと我慢できる」
「それはそれで、具合が悪いんじゃないですか」
「私だって黙って映画を見るくらい出来る」
「全然、信用できませんけど」
薫さんは返さなかった。
適当に選んだ映画を再生して、部屋の照明を落とす。画面の光が、薫さんの横顔だけを淡く浮かび上がらせた。
映画が始まって十分が過ぎても、文庫本は薫さんの膝に置かれたままだった。閉じることも、栞を挟むこともなかった。
珈琲にも手は伸びなかった。
画面の中で誰かが笑った。少し遅れて、薫さんが息を吐く。笑ったようにも、ため息をついたようにも聞こえる。
「今の、面白かったですか」
「何が」
「映画です」
「あぁ」
集中できていないようだった。それでも、疲れているだけなら説明はつく。新学期の準備があって、休日にも仕事が頭から抜けきらない。そんなことは以前にだってあった。
それでも、考え着く理由が多いほど、どれも正解ではないような気がした。
「今日は、もう寝ますか」
薫さんは答えなかった。
代わりに膝の上の文庫本を閉じる。栞は挟まなかった。最初から一頁も進んでいないのだから、必要なかったのかもしれない。ノートパソコンに手を伸ばして、再生途中の画面を閉じた。
「映画は?」
「今日はもういい」
暗くなった画面に、並んで座る俺たちが映った。
「じゃぁ、珈琲だけでも飲み切ってくださいよ」
「冷めてる」
「温めなおしますよ」
「いい」
「何だったらいいんですか」
薫さんはようやく俺を見た。
何かを探すように顔を眺め、頬へ手を伸ばす。冷房にさらされた指先がひんやりと残る。親指が目元に触れて、そのまま輪郭を確かめるようにゆっくりと降りていく。
「薫さん?」
名前を呼ぶと、指先が止まった。
「何でもない」
そう言った人の手は、今度は俺の服を掴んだ。
距離を詰めたのは、薫さんだった。
珈琲を残した。苗の新しい葉も見なかった。映画も途中で終わらせた。それでも、俺に触れることだけは、今日はもういいと言わなかった。
それだけでよかった。
何かを隠していたとしても、薫さんは俺に触れた。名前を呼んで、俺を求めた。その事実だけ拾ってしまえば、まだ何も変わっていないことに出来た。
翌週。薫さんが来たのは二十一時を過ぎてからだった。
夕方に一度だけ送ったメッセージには既読すら着かなかった。それでも、来ないとは言われてない。約束はしていないのだから、遅刻と呼ぶのは違った。
だから、夕食は二人分作っていた。
二人分の米を炊いて、薫さんが苦手なトマトは避けて、先週テレビを見ながら何気なく食べたいと零していた生姜焼きを用意した。豚肉は夏バテにいいらしい。皿には盛らず、いつ来ても温められるようにフライパンへ残しておいた。
十九時を過ぎて、二十時を過ぎた。
何度か冷蔵庫へしまおうと思った。それでも、また律儀なチャイムを聞いてから火にかけた方がいいと、理由をつけてそのままにした。
二十一時十分。
ようやく、ベルが鳴った。
「おかえりなさい」
「言わねぇぞ」
「随分遅かったですね」
「待ってて欲しいなんて言った覚えはない」
薫さんは靴を脱ぎながら答えた。いつもなら俺の靴を端へ押しやって自分の場所を作るのに、今日は空いていた隙間へそのまま揃えた。
左手には指輪がある。
右手には何も持っていなかった。
「仕事ですか」
「少し、根詰めてて」
「連絡くらいしてくれてもよかったのに」
「そんな約束、してないだろ」
正しい答えだった。
土曜日に来るとも、夕食を一緒に食べるとも言っていない。俺が勝手に二人分を作り、勝手に待っていただけだった。
「そうでしたね」
それ以上を言えば、待っていたとこまで責める言葉になる気がした。
薫さんは部屋へ上がり、テーブルの横へ座った。いつもより少しだけ動作が遅い。肩から鞄を下ろすと、そのまま壁際に置いた。
「ご飯、直ぐ温めますよ」
「今日は、いらない」
フライパンへ伸ばしかけた手が止まった。
「食欲ないんですか」
「もう、済ませてきた」
強い言い方ではなかった。だからこそ、次の言葉を探せなかった。
薫さんには、薫さんの生活がある。夕食を誰と、どこで、何時に食べるか。それを俺に伝える義務なんてない。
それでも今までは、土曜日になるとお腹を空かせてここへ来た。
俺が何を作るか聞きもしないくせに、二人分あることだけは疑わなかった。味が濃いだとか、野菜が少ないだとか、好き勝手採点しながら結局は残さずに食べていた。
「先に言ってくれれば、一人分で済んだんですけどね」
「だから、待ってて欲しいなんて言ってない」
二度目は、少しだけ痛かった。
「冷蔵庫に入れておきます。明日食べればいいでしょう」
「明日は帰る」
「昼まではいるでしょう」
「朝には帰る」
薫さんは時計を見た。来たばかりなのに、帰る時間の確認だった。
「何か予定でも?」
「ある」
「仕事ですか」
「まぁ、大体そんなところ」
曖昧な返事だった。
これまでなら、その曖昧さの中へ何かを差し込めた。朝食だけでも。珈琲だけでも。電車が来るまでの間だけでも。薫さんが残っていい理由を幾つだって作れた。
けれど今日は、理由を足してはいけない気がした。
フライパンの中身を保存容器に移す。二人分の生姜焼きは、重ねると一人分と対して変わらない量に見えた。
「珈琲は?」
「いらない」
「映画は?」
「今日はいい」
先週と同じ言葉だった。今度は始める前から終わった。
「じゃぁ、何しに来たんですか」
失敗した。そう思ったって口に出してしまった言葉は戻ってこなかった。
何かを求めるような聞き方だった。来たことだけでは足りないと、そう自分から認めているような言葉だった。
薫さんは答えない。それでも、左の薬指に触れる。指輪を一度だけ回して、それから抜いた。テーブルへ置かれた金属が、小さな音を立てる。
「そういうことですか」
「いやなら、いい」
薫さんは指輪から手を離した。
拒めるように言ったくせに、俺を見ていなかった。本当に嫌なら、触れなければいい。食事も、珈琲も、映画もいらない。それでも、俺を求めてここへ来たのなら、それは喜ぶべきことなのかもしれない。
少なくとも、来なくなったわけではない。
「嫌なわけ、ないじゃないですか」
薫さんの隣に座る。
顔を覗き込もうとすると、先に肩へ額を押し付けられた。抱きつくというより、身体を支える場所を探したような預け方だった。
「疲れてるんですか」
「そういうことにしておけ」
腕を背中に回す。薫さんは俺を求めている。そのことだけは、まだ疑わずに済んだ。
触れれば、先週までと何も変わらないように思えた。名前を呼ぶ声も、背中へ回る腕も、離れないように掴む指も。どれも、俺の知ってる薫さんだった。
寧ろ、いつもより強かった。
何かを忘れようとするように。
何かを確かめようとするように。
俺の身体の中に答えでも探してるみたいに。
何も聞かなくったって、こうやって抱きしめることは出来た。聞いてしまえばこの腕の中から零れてしまいそうな気さえした。
冷蔵庫には、二人分の食事が残った。途中だった映画も、冷えた珈琲も、育っている苗も、薫さんは必要としなくなった。
それでも俺だけは選ばれた。そう考えればいいはずだった。それだけでいいと、思っていたはずだった。
次の土曜日は、夕食を作らなかった。
もう一度、待っていて欲しいと言った覚えはない、なんて言われたくなかった。
冷蔵庫にはビールが二本宛先を失って冷えたままになっている。
薫さんが来たのは、二十二時前だった。
「待ってたのか」
「待ってませんよ。どうせ暇だっただけです」
「そうか」
嘘はついていない。
暇だった。だから時計を見ていた。廊下で足音がするたびに耳を澄ませて、何度もスマートフォンを確認していただけだった。
「珈琲飲みますか」
「いらない」
「ビールは」
「今日はいい」
「薫さんが飲まないんだったら、俺が飲みますよ」
彼女は何かを口に出そうとして、噛み殺すように一度口を結んだ。
「私の見えないところで、やってくれ」
用意していたのものも、安い冗談も、一つずつ断られる。
それでも薫さんは部屋へ上がった。
何も飲まず、何も食べず、テーブルの前にも座らなかった。鞄を壁に置くこともせず、肩にかけたまま、俺の前に立った。
「疲れてるんですか」
「あぁ」
それ以上聞かなかった。
薫さんが指輪を外す。テーブルまでは遠かった。だから、彼女は俺の掌へ置いた。
冷たい金属の感触を握り込む。戻す場所があるものを預けられた。それだけで、まだ俺は必要とされてるような気がした。
その夜、薫さんは泊まらなかった。
どうして帰るのかとは聞かなかった。
服を直した薫さんは、洗面台へ向かわなかった。水を飲むことも、乱れた髪を直すこともせず、手櫛だけで簡単に整えた。
玄関で靴を整える彼女に、もう来ないのかとは、聞かなかった。
扉が閉まる。
洗面所には、薫さんのために用意した歯ブラシが残っていた。毛先まで乾いたままだった。薫さんが俺の部屋で触れるものは、少しずつ俺だけになっていた。
そのことを喜んでいいのか分からなかった。
食事をして、映画を見て、くだらない話をした。その先で、俺たちは間違えた。
それなのに今は、映画がなくなった。食事がなくなった。珈琲がなくなって、朝がなくなった。最後に残ったものだけを抱えて、始まる前へ戻ろうとしているように思えた。
それでも。そうだったとしても。身体だけの関係だと割り切るには、薫さんの触れ方はあまりにも強くて優しかった。
名前を呼ぶ、頬を撫でる、離れる直前には必ず、俺の胸へ額を預ける。それが終わらせたい人間の触れ方には、どうしたって見えなかった。
だから、何も聞けなかった。
さらに翌週。九月に入った。
薫さんが部屋に居た時間は、二時間にも満たなかった。日付が変わる少し前に来て、外された指輪を受けとり、照明を消した。何をすればいいのか、もう迷わなかった。
先週より短い時間の中で、薫さんは先週より強く俺を求めた。何度も名前を呼んだ。腕を離そうとしなかった。いつまでも口づけは止まなかった。終わった後もしばらく、俺の心臓へ耳を押し当てていた。まだ動いてることを確かめているようだった。
それでも、一時を回る前には身体を離した。
「もう、帰るんですね」
「あぁ」
「明日が早い?」
「そういうことにしておけ」
ベッドの脇には、薫さんの服と俺のTシャツが落ちていた。彼女の手が、一度だけあの時みたいにTシャツへ伸びる。そのまま当然のように頭から被るのだと思った。けれど、引き寄せて、そこで彼女は止まった。
暫く眺めて、それから自分の服を拾った。
「着ていけばいいのに」
「今日はいい」
同じ言葉だった。今回は俺の服の番だった。
薫さんは手早く身支度を整えた。指輪を戻し、鞄を肩へかける。忘れ物を確認するように部屋を見渡して、最後に俺を見た。
「誠」
「はい」
それだけだった。続きはなかった。
そうやって、扉は閉まった。
彼女のために揃えた物は、もう殆ど使われなくなっていた。それでも、捨てる気にはなれなかった。
『なにかありましたか』
そう打って、消した。
『来週は来ますか』
それも消した。
『もう、終わりにした方がいいですか』
最後まで打つことが出来なかった。
聞いてしまえば、答えが返ってくるのかもしれない。答えが返って来れば、今残ってるものさえ失ってしまうのかもしれない。
二番目でもいい。現実逃避の相手でいい。身体だけでも、薫さんが俺を求めているのなら、それだけでいい。そう言ったのは、俺だったじゃないか。
それでも、望んだとおりになっていくことが、こんなにも恐ろしかった。
薫さんとの画面を閉じる。代わりに、殆どやり取りのない名前を開いた。
『脅しの条件、まだ有効か』
返事は直ぐに来た。
『やっと困った?』




