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聞かなかったこと

聞かなかったこと

 012


「聞かせてよ。八坂が私を頼るほど、何に困ったのか」


 綾原は珈琲の入ったマグカップを両手で包み、楽しそうに聞く。その不謹慎さに悪態を返す余裕さえ、今はなかった。


 深夜二時。こんな時間に連絡を寄越した男の部屋へ、綾原は本当にやって来た。


 向かいのアパートから道路を一本渡っただけ、たまたま起きてただけ、それでもきっとまともな判断ではない。それを異常だと咎められるほど、今の俺はまともな場所に立っていなかった。


「最近、薫さんの様子がおかしい」


「そう」


「驚かないんだな」


「八坂がこの時間に私を呼んで、先生以外の話を始めたら、きっと驚いたよ」


 違いなかった。


「少しずつ、何もしなくなった」


「何もしないって?」


「最初は珈琲を残した。苗に新しい葉が出ても見なかった。映画も途中で止めて、その次は、食事を済ませてから来た。珈琲も映画もいらないって言って、朝には帰った」


「それから?」


「来る時間が遅くなった。泊まらなくなった。今日は、二時間もいなかった」


 口に出すたび、なくなったものが増えていく。


 食事。珈琲。映画。朝。そして下らないことを話す時間。身体から遠いものから、一つずつなくなっていった。


 どれも、それ自体は薫さんと俺を繋ぐものではなかった。食事をしなくても、珈琲を飲まなくても、映画を見なくても、薫さんは来た。


「それでも、来てるんでしょ。何をしに?」


 答えるまでに少し時間がかかった。


「俺に触れるために」


 たぶん、それだけのために。


綾原は茶化さなかった。


「前より強く求められる。何度も名前を呼ぶし、終わってからも暫く離れようとしない。ちゃんと動いてることを確かめるみたいに、俺の心臓の音を聞くんだ。そうやって。落ち着いたら」


「すぐ帰る?」


「あぁ」


「食事も映画もなくなって、身体が残ってるんだ」


「そういう言い方は、するな」


「違うの?」


「違う」


「何が?」


 直ぐには答えられなかった。


 薫さんは俺を求めている。名前を呼んで、頬を撫でて、最後には必ず俺の胸へ額を預ける。それが、俺を要らなくなった人間の触れ方だとは思えなかった。名前も、指先も、胸に残った重さも。俺はその一つ一つを拾って、まだ捨てられていない証拠にした。


「終わらせたいなら、来なければいい。別に毎週約束をしてるわけじゃないんだよ。薫さんは、嫌なら嫌だと言える人だから。それでも来て、俺に触れる。だから、まだ俺を必要としてる」


「それで?」


「何だよ」


「本人には聞いたの?」


「……聞いてない」


「どうして?」


「俺に彼女は話さなかった。それは、話したくないってことだろ。無理に聞いたら、困らせるかもしれない。そんなことは、したくない」


「本人がそう言ったの?」


「言わなくたって分かる」


「何で?」


「薫さんのことは、俺が分かってる」


 綾原は暫く黙っていた。


 小馬鹿にされると思った。鼻で笑われると思った。けれど、綾原の顔からは、さっきまで残っていた薄い笑みすら消えていた。


「じゃあ、なんで先生はそんなことになってるの?」


「それは」


「八坂は分かってるんでしょ? 先生のこと」


 答えられなかった。


どこで式を間違えたのかさえ、分からなかった。


「分かってるなら、こんな時間に私を呼ぶ必要なかったんじゃない?」


「俺はただ、客観的に見たらどうなのか、女性から見れば何か分かるんじゃないかと思って」


「先生が何を考えてるのか、そんなの私に分かるわけないでしょ。少なくとも、今の二人のことは何も知らないんだから」


 正しい言葉だった。


 薫さんの触れ方を見たのは俺だけだった。呼ばれた名前を聞いたのも、胸へ預けられた重さを知っているのも俺だけだった。


 だから俺が一番よく分かっている。


 そう思っていた。


いつの間にか、綾原の珈琲からは湯気が消えていた。彼女は一口も飲んでいなかった。


「八坂は、たぶん何も分かってないよ」


「そんなこと」


「分かったふりをして誤魔化してるだけ」


 綾原は、俺から目を逸らさなかった。


「それはきっと、自分が傷つきたくないだけ」


「……もう十分傷ついてるだろ。来る時間が遅くなるたびに、帰る時間が早くなるたびに。これ以上何を聞けって言うんだよ」


「だったら、聞けばいいじゃん」


「だから、薫さんは話したくないんだよ」


「また勝手に決めるんだ」


「何が言いたい」


「八坂、さっき言ったよね。先生は嫌なら嫌だって言える人だって」


「あぁ」


「だから先生が嫌だと言わない限り、八坂はこの関係を続けられる。そういうことでしょ?」


「それは薫さんが、此処に来てくれるから」


「ここに来たら、八坂を選んだことになるの?」


「少なくとも、俺に会いたくないわけじゃないはずだろ」


「じゃあ、どうして直接聞かないの」


「何度同じことを言わせるんだよ。困らせたくないからだ」


「違うよ」


 その否定は、少しだけ力が入っていた。


「それは違う。困らせたくないからじゃない。八坂は先生に、何も言わせたくないんだよ」


「そんなわけない」


「好きだって言われたことあった?」


 答えられなかった。


「会いたいって言われたことは?」


「言葉だけが、全部じゃない」


「次も来るって、約束してくれた?」


「薫さんは、約束が嫌いなんだよ」


「付き合ってほしいって、ちゃんと言った?」


「それは」


「先生に聞いたこと、何か一つでもあった?」


 探した。


 俺の名前を呼んでほしい。映画を一緒に見てほしい。食事をしてほしい。部屋へ来てほしい。頼んだことなら幾らでもあった。


 けれどそのどれも、薫さんが俺をどう思っているのかを尋ねる言葉ではなかった。俺は答えを求めているつもりで、彼女が答えなくていい頼み事ばかり差し出していた。


「先生が答えなくていいようにしてるのは、八坂じゃん」


「薫さんは、そういう関係を望んでた。だってそうだろ、しがらみだって彼女にはある」


「それは、先生が言った?」


 また、同じ問いだった。


「……違う」


「じゃあ、それも八坂が作った答えだよ」


 何も返せなかった。


「約束をしないのも、付き合ってるって言わないのも、先生のためだと思ってた?」


「そうだよ」


「本当に?」


「薫さんが、それを嫌がるから」


「そうやって先生のことを分かったふりしてれば、聞かなくて済んできた。そうでしょ?」


 綾原の声は責めるような調子ではなかった。


 ただ、一つずつ確かめていく。


 俺が見ないようにしていたものを、代わりに数えているようだった。


「先生が黙ってる間は、八坂は好きな答えを選べる。来てくれたから必要とされてる。触れてくれたから愛されてる。帰っても、また来るから大丈夫だと思える」


「やめろ……」


声だけが先に大きくなった。それでも綾原は少しも怯まなかった。


「でも、先生に聞いてしまったら、もう八坂が好きな答えを選べなくなる」


「やめろって言ってるだろ!」


「先生を困らせたくないんじゃない」


 綾原は、最後まで目を逸らさなかった。


「八坂は先生の口から、自分は選ばれないって聞くのが怖いだけだよ」

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