返事はない
返事はない
013
「もう、一年だってよ」
返事はない。
墓前には、既にいくつもの花が手向けられていた。白と黄色の花弁はまだ瑞々しく、花立ての口を覆うように重なっていた。
持ってきた花を挿そうとして、やめた。空いている隙間に数本だけ揃える。残りは包装紙に戻した。
「お前、けっこう愛されてたんだな」
線香に火をつける。炎を扇いで消し、立ち上がった煙を眺めた。
幸助が死んで一年が経った。
久しぶりに会いに来たのだから、この一年にあったことくらい報告してやろうと思っていた。
「俺、県大に入ったよ」
お前は県大へ行って、俺は県外へ。一年前の今頃は、それぞれ違う場所で生きていくものだと思っていた。
「お前みたいに推薦は狙えなかったけど。一般で、どうにか首の皮一枚繋がって受かった」
あの日、正門の前で薫さんを待った。曲がったネクタイを直してもらい、二人で大学を歩いた。
「数学も、結構できるようになったんだぜ」
放課後になれば、薫さんのところへ毎日のように通った。二人で座って同じ時間を過ごした。
「先生がお前のために作った問題集も、最後までやったよ」
幸助が死んだ後に作られた、渡す相手のいない問題集だった。俺が解いて、薫さんが丸をつけた。
県大も、数学も、問題集も。一年を順番に辿っているはずなのに、どの道にも薫さんが立っていた。
「先生とは、卒業してからも会ってる」
墓石に刻まれた名前を見た。
「会ってるっていうか。まあ、いろいろあった」
黙っている相手に暈す意味なんてない。
「先生、結婚してるだろ」
線香の煙は真っ直ぐには上らなかった。
「全部知ってて、それでも俺は間違った」
俺の部屋へ来た。一緒に食事をして、映画を見て、同じベッドで眠った。左手の指輪がテーブルに置かれる音を、何度も聞いた。
「お前の通夜で、先生に恋をした」
口にすると、あの日と同じ形になった。
「最低だろ」
幸助は何も言わない。
「先生が一人でお前のことを抱えて、少しおかしくなってたんだ。誰かが必要で、旦那さんも、お前も居なかったから。だから、俺が傍にいた」
それだけなら、まだ聞こえはよかった。
「放っておけなかった。俺が問題集をやれば、先生は一人でお前に向き合わなくて済む。卒業した後も、大学生になった俺を見てもらえばいい」
嘘ではない。それでも、全部でもなかった。
「俺が、先生の傍に居たかった」
最初から、それだけだったのかもしれない。
「先生のためになったかは分からない。寧ろ、余計に間違えさせただけかもしれない」
それでも薫さんは来た。俺が「来て」と送れば、返事をしないまま部屋のベルを鳴らした。
食事をしなくなっても。映画を見なくなっても。泊まらなくなっても。会える時間が少しずつ削られても、まだ来てくれた。
「最近、先生が何を考えてるのか分からないんだ」
結局、何も聞かなかった。聞けばいいと綾原に言われても、聞けなかった。
「俺を好きかなんて、一度も聞いてない。次も来るかも、いつまで続けるかも。何も」
来たことを答えにした。触れられたことを答えにした。名前を呼ばれたことを、選ばれている証拠にした。
「でも、言葉が全部じゃないだろ」
幸助なら、そう言う気がした。相手が何をしたのかを見ろ。言わなかったことまで拾え。簡単な言葉にして終わらせるな。それは、俺が知っている幸助らしい答えだった。
「二番目でもいいんだ。現実逃避の相手でも、身体だけでも。薫さんが来てくれるなら、それでいい」
墓石に刻まれた名前は、俺の言葉を一つも否定しなかった。
「お前なら、分かってくれるだろ」
先生を一人にできなかったことも。そのうち、自分が離れられなくなったことも。終わらせるべきだと分かっていて、終わらせられないことも。
「俺が先生の傍に居ることくらい、許してくれるよな」
「幸助君を、そんなふうに使わないで」
不意をつかれて、振り返る。
腕には花を抱えて、少し離れた通路に草川が立っていた。
「……いつからだ」
「県大に入ったって話をしてた辺り」
「随分前だな、盗み聞きなんて趣味が悪い」
「声を掛けようと思った。でも、八坂君が話し続けるから、そっとしておいてあげた」
草川は俺の横を通り、墓前にしゃがんだ。
「そういう時って、誰だってあるから」
草川は花立てを見る。
「今日は多いね」
「命日だからな」
「うん。昨日は、まだ半分くらいだったのに」
包装を解き、持ってきた花から数本だけ選ぶ。茎の長さを揃えて、既にある花を傷めない隙間へ挿した。
「先生とのことは、今は聞かない」
「だったら」
「でも、幸助君をそんなふうに使わないで」
「使ってない」
「使ってるよ」
「俺は、あいつなら分かってくれると思っただけだ」
「どうして?」
「友達だったから。一番を自負できるくらい。お前よりずっと前から、俺は幸助を知ってる。何年も一緒にいたんだ」
「何年一緒にいたって、もう分からないよ」
「分かる。あいつなら、きっと俺を責めたりしない」
「それを幸助君に言わせてるのは、八坂君でしょ」
草川の手が、余った花を包装紙へ戻した。
「私だって、幸助君がいなくなってからずっと考えてた」
墓石を見たまま、茎を揃える。
「幸助君が自分で選んだことを、私まで正しかったことにしていいのか。あれでよかったのか。最後に一人で何を考えていたのか」
それは、俺の知らない問いだった。
「あいつなら、後悔してないって言うんじゃないか」
「言うかもしれない」
草川は否定しなかった。
「これでよかった。私が生きていてよかったって。そう思えば、少しは楽だった」
「だったら」
「でも、それは私が作った幸助君でしかない」
包装紙が小さく鳴った。
「死んだ人は、何でも許してくれるようになったんじゃない。ただ、何も言えなくなっただけ」
草川はようやく俺を見た。
「だから、言わせないの」
言い返す言葉を探して、やめた。
幸助なら。
幸助だったら。
俺の知っている幸助は。
答えない相手の口を借りて、欲しい言葉だけを選んでいた。
「先生を好きになったのは、八坂君でしょ」
「あぁ」
「先生の傍にいたかったのも、八坂君」
「……そうだ」
「だったら、幸助君に許してもらおうとしないで」
「俺は、先生を一人にできなかった」
「うん」
「あのままだったら、もっと酷くなってた。飯もろくに食べずに、仕事を詰め込み続けて。だから、俺がいなかったら、きっと薫さんは駄目だった」
「八坂君が助けになったのかもしれない」
否定されなかったせいで、その先が続かなかった。
「先生も、八坂君が居て救われていたのかもしれない。そこは私には分からない」
「だったら」
「ても、それはちゃんと先生に聞いて」
残った花を抱え、草川が立ち上がる。
「幸助君に答えを作らせるくらいなら、八坂君が先生に聞いて」
「簡単に言ってくれるなよ」
「簡単じゃなかったとしても」
抱え直された花が、乾いた音を立てた。
「嫌われても、怒られても、傷ついても、それでも先生は答えてくれるんでしょ」
草川は墓石へ目を戻した。
「私にはもう、それすらできない」
何も返せなかった。
草川は一度だけ墓前に手を合わせる。
「自分がしたかったことなら、それは自分の名前で引き受けて」
余った花を抱えたまま、俺の横を通り過ぎた。
「幸助君の名前を使わないで」
足音が遠ざかる。
墓前には、無理なく収まる数本だけが残った。
*
部屋へ戻った頃には、日が傾いていた。
今日は土曜日だった。
薫さんへ「来て」と送る日だった。メッセージの画面を開く。先週のやり取りは、俺が送った『来て』で終わっている。
薫さんから返事はなかった。それでも、その日の夜にはベルが鳴った。
今日も同じ一言を入力する。
『来て』
送信ボタンの上に、親指を置く。これを送れば、薫さんは来るかもしれない。
夕食も、珈琲も、映画もいらないと言って、指輪だけを外すのかもしれない。俺の名前を呼び、俺の胸へ耳を当てて、日付が変わる前に帰るのかもしれない。
それでも来てくれれば、まだ必要とされていると思える。来てくれたという事実を、また答えの代わりにできる。
親指は、送信ボタンに触れないまま離れた。入力欄から二文字を消し、空になった画面ごとテーブルへ伏せる。
薫さんは合鍵を持っている。それでも一度も、勝手に入ってきたことはなかった。必ずベルを鳴らし、俺が扉を開けるまで外で待った。
だから、廊下から足音が聞こえるたびに顔を上げた。
六時を過ぎた。冷蔵庫には、二本のビールが冷えている。
七時を過ぎた。食事は作らなかった。
八時を過ぎた。テーブルの珈琲の苗へ水をやった。新しい葉は、もう他の葉と見分けがつかないほど色を濃くしていた。
九時を過ぎても、ベルは鳴らなかった。
スマートフォンを開く。文字のない入力欄と、最後に送った『来て』を眺める。
もう一度打つことはできた。それでも、送らなかった。
来るかどうかを、薫さんに選ばせたかったわけではない。俺から理由を与えずに来てくれれば、それを答えにできると思っただけだった。
聞く代わりに、俺はまた黙った。
日付が変わる。
廊下を誰かが通り過ぎた。足音は扉の前で止まらず、遠ざかっていった。
薫さんは、来なかった。




