思いは貴方に、思い出は私に
思いは貴方に、思い出は私に
014
一週間。薫さんに連絡をしなかった。いつも通り講義へ行き、バイトをして、腹が減れば何かを食べた。それでも、講義の内容も、誰と話したのかも、何を食べたのかも、そのどれもがすぐにぼやけて、今は何も覚えていなかった。
薫さんは来なかった。
俺が呼ばなければ来ない。それなら、もう呼んではいけないのだと思った。
次の土曜日が来ても『来て』なんて送れるわけがなかった。
午後十一時。その日も、ベッドに寝そべりながら、ぼんやりと玄関だけを眺めていた。
「……会いたい」
一人だけの部屋でその言葉は重かった。もう薫さんの匂いがしなくなったベッドに沈んで、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。
そんな、惨めな土曜日だった。
突然、玄関の鍵が回った。
立ち上がるより先に、扉は開かれた。肩にはいつもの鞄が掛かっていて、右手には濃い藍色のキーケース。左手の薬指には、何もなかった。
薄く残った指輪の跡を隠さないで、薫さんがそこに立っていた。
「……薫さん」
合鍵を渡してから半年、一度だって使われたことはなかった。必ずベルを鳴らし、俺が迎えるまで外で待った。俺が呼び、彼女が来て、俺が扉を開ける。それが俺たちの中に残っていた、最後の手順だった。
それすら『今日はいい』なんだろうか。
「どうして」
「鍵を、返しに来た」
薫さんは俺を見ないままに答えた。
「……やっと使ってくれたんですね」
「これで最後だったからな」
その言葉は深く落ちた。何度か聞き間違いを疑っては、現実に戻る。
彼女はキーケースから、合鍵を外そうとする。指先が上手く金属を捉えられず、何度か滑っては眉を寄せる。
「貸してください」
「触るな」
伸ばした手を払われる。拒絶をする声色だった。それでも、もう一度金具へ掛けた指は震えていた。
「私が外す」
「今日は一段と頑固ですね」
暫くして、鍵が外れた。薫さんはそれを一度見つめてから、俺の掌に置く。初めて役目を果たした合鍵は夏の終わりの夜気を吸って冷たかった。
「今日は、話がある」
薫さんは、いつもの場所には座らなかった。
テーブルにも、ベッドにも近づかない。玄関から数歩入ったところに立ち、鞄も下さなかった。
「これで、終わりにする」
それが、聞きたかったはずの答えだった。
何度も想像して、それでも本人の口から聞くことを避けてきた。
実際に聞いてみれば、何かが壊れる音すらしなかった。ただ胸の中から、最初から殻だったと言いたげに重さが消えた。
「気づいていたんだろ」
「何のことですか」
「そういうところが、本当に嫌いだよ」
薫さんは笑った。嘲笑的に、そうありたいように。嫌われようとする人間の笑い方だった。
「お前と過ごす時間を、ひとつずつ減らしていっただろ」
「全部、終わらせるために?」
「あぁ」
「俺に飽きたんじゃないんですか」
薫さんの眉が僅かに動いた。
「……差はないだろ」
「全然違いますよ」
「同じだ、何も残らない」
薫さんの左手が、鞄の持ち手を強く握る。空いた薬指に、約束の跡だけが残った。
「少しずつ離れれば、そのうちどうでもよくなると思ったんだよ。飯も映画も、くだらない話も、失くしてしまえば、残るものなんて大したことはない。そう思っていた」
「それで、最後に俺だけが残った」
「あぁ」
「どうです。どうでもよくなりましたか」
薫さんは答えなかった。
「来週、旦那が日本に帰ってくる」
答えの代わりだった。
「休暇ですか」
「違う。海外勤務を終わらせた。日本で働けるように、会社とずっと話し合っていたらしい」
「そうですか」
「私のためだよ」
薫さんは、わざわざそう付け足した。
「離れて暮らすのも、もう限界だろうって。私がなにも言わないから、旦那が気づいて責任もあるのに全部片付けて、わたしと暮らすんだって」
会えないことと、愛されていないことは違う。以前薫さんから聞いた話を思い出す。何気なく欲しいと言った物を覚えている。短い帰国のたびに、離れていた時間を埋めるように大切にしてくれる。
今度はその離れている時間を終わらせるために。
旦那さんらしいと思った。
「学校も辞める」
それは、想像できなかった。
「どうしてですか」
「旦那の勤務先はこの街じゃない。もう家も決めてある。来週あの人が帰ってきたら、荷物を纏めて向こうへ行く」
「向こうって」
「呼ばれたって来てやれないくらい、遠いとこだ」
薫さんの答えは、それだけだった。どれくらい遠いのか。電車で何時間なのか。もう二度と会わないためには十分な距離なのか。
聞いたところで、何も変わらないのに。
「旦那さんと、二人で暮らすんですね」
「あぁ」
短い答えだった。
「今度は、ちゃんと」
「あぁ」
薫さんは二度、同じ言葉を俺に返した。
夫婦がようやく同じ屋根の下に収まる。当たり前で、それだけの話だった。
俺が入り込むよりずっと前に交わされた、俺が何度指から抜いたところでなくなることなんてなかった、そんな固い約束へ薫さんは戻っていく。
「だから、最近は」
「そうだよ」
「旦那が帰ってくるまでに、全部終わらせようとした。お前から離れようとした」
「俺に触れる時間だけを残して?」
「それだけなら、きっと迷惑にはならないと思った」
「身体だけだと割り切ってしまえば、期待されないと思ったんですか」
「お前だって言ってただろう。二番目でもいい、現実逃避の相手でも、身体だけでもいいって」
自分の言葉だった。一言も間違ってない形で返される。
「だから、望みどおりにしてやった」
「随分、親切なんですね」
「そうだろ」
薫さんは笑った。口元だけが、どうにかその形を保っていた。
「結局私は最初からお前を都合よく使ってただけなんだ。幸助のことを考えずに済んだ。旦那がいない部屋へ一人で帰らずに済んだ。若い男に求められて、まだ自分に価値があるような気にもなれた」
一つ口にするたび、鞄を握る指に力が増しているようだった。
「それまでだった」
「だったら、どうして鍵を使ったんですか」
「言っただろ、返すためだ」
「どうして、今日は指輪をしていないんですか」
空いた薬指を彼女は隠す。
「旦那さんのところへ戻る話をするためなら、今日はいつもより必要だったはずでしょう」
「うるさい」
「俺にまだ勘違いしてほしかった?」
「違う」
「最後まで期待させようとしたんですか」
「違うっ!」
初めて、薫さんの声が揺れた。俺を傷つけるために並べた言葉で、まるでその口から出るたびに薫さん自身を削っていたみたいに。
「今日くらいは」
そこで言葉が切れた。
薫さんは俯き、息を吸う。顔を上げた時には、また俺の嫌いになるべき大人へと戻っていた。
「最後くらいは、お前にいい思い出をくれてやろうと思った」
「いい思い出?」
「散々利用した。だから、それくらいの義理は返す。もっと嫌な言い方をしてほしいなら、口止め料を払ってやる」
肩に掛けていた鞄が床に落ちた。置いたというより、もう持っていられなくなったような落ち方だった。
「今日だけは、何だってしてやる」
薫さんは俺を見た。
目元は赤くなっていた。それでも、彼女はまだ堪えていた。
「お前の好きにしていい。今日だけは、私は何も拒まない」
ベッドは、すぐ後ろにあった。照明を消せば、それだけで始められる。いつもより明るい場所で見たいといっても、朝まで言っても、好きだと言えと頼んでも、きっと今日は拒まないのだろう。
どれも、今日が終われば嘘に出来る。
それがが彼女の今の精一杯だった。
「分かりました」
壁に掛けていた上着を取る。財布と原付の鍵をポケットに入れた。
「だったら、俺とデートしてください」
やっと、薫さんの顔から用意された表情が消えた。
「……は?」
「今から、星を見に行きましょう」
「話、聞いてたか」
「聞いてましたよ。今日だけは何だってしてくれるんでしょう」
「そういう意味で言ったんじゃない」
「ほら、口止め料ですよ。拒まないで」
彼女の言葉を返す。
「……お前なぁ」
「最後にいい思い出をくれるんでしょう。だったら俺は、薫さんと外に出たいです」
何度だって夢に見た。叶えられないと諦めた願いだった。
誰かに見られないよう場所を選び、遠くへ逃げた。俺の部屋と、車と、山の中の離れ。見つからない場所でしか二人になれなかった。
「今夜くらい、俺と一緒に外へ出てください」
薫さんは何も言わなかった。床へ落ちた鞄と、俺が握った原付の鍵を交互に見る。それから、空いた左手で顔を覆った。
「本当に、お前は」
指の隙間から、長い息が漏れた。
「最後まで、可愛くない奴だな」
「デート、してくれるんですか?」
「何も拒まないって言っちゃったからな」
薫さんは床から鞄を拾った。
「それ、置いていきますよ」
「どうして」
「デートには不要だからです」
「置いていったら、ここに戻ってくることになるだろ」
「それでいいでしょう」
鞄は結局壁際に置かれた。いつも彼女が置いていた定位置にすっぽりと収まったように見える。
部屋を出る。鍵をかけて振り返ると、薫さんは数歩離れたところで待っていた。並んで歩くには遠く、それでも他人のふりをすには近いそんな距離だった。
深夜の住宅街に人影はない。
幾つか残っていた窓の明かりも、俺たちが階段を降りる間に一つ消えた。空調の低いうなり声と、遠くを走る車の音だけが聞こえる。
アパートの脇に止めていた原付を引き出す。薫さんは白い車体と小さな座席を暫く見つめていた。
「これで行くのか」
「今はこれしかありませんから」
「二人乗りは違反だろ」
「知ってますよ」
「それに、座るとこがない」
「詰めればどうとでもなります」
「ないものは、詰めてもどうにもならないんだよ」
シート下からヘルメットを取り出して、彼女に渡す。勿論一つしか持っていなかった。
「どうぞ」
「運転する奴が被れ」
「拒まない約束でしょ。四の五の言わずに被ってください」
「都合よく使いやがって」
「誰に教わったと思ってるんですか」
薫さんが頑なに受け取らないから、仕方なく両手で広げそのまま彼女の頭へ被せる。逃げようとした顔を追いかけ、顎の下で留め具を噛み合わせた。
「苦しくないですね」
「外せ」
「嫌です」
先に跨り、エンジンをかける。静かだった住宅街に、頼りない排気音が響いた。
「早く乗ってください」
「こういうの初めてなんだよ、急かすな」
文句を言いながら、薫さんは狭い座席の後ろへ身体を押し込んだ。
背中に胸元が触れる。片足を置く場所すら足りなかったらしい。何度か位置を探して、最後には俺の体を両膝で挟むように収まった。
「もっとちゃんと掴まってください」
薫さんの両手が俺の裾を掴んだ。
「落ちますよ」
「調子に乗るな」
そう言いながら、それでも暫く迷った先で彼女の腕が腰に回った。背中へ薫さんの体重が重なった。何度も抱きしめた。何も纏わずに触れ合った。それでも、外でこうして抱きつかれたのは初めてだった。
「じゃぁ、行きますよ」
「事故るなよ」
「善処します。そろそろ免許取って半年ですしね」
「約束しろ」
「約束は嫌いでしょう?」
「今好きになった。だから、しろ」
「だったら、ちゃんと掴まっててください」
返事の代わりに、腰へ回された腕が強くなる。それを合図に、アクセルを捻って俺たちは寝静まった夜の中へ走り出した。
コンビニも、閉じた商店街も、最後の住宅も後ろへ流れた。十分も走らないうちに、道の両側は暗い田畑へ変わった。
もう、誰を気にする必要なんてなかった。
「薫さん」
「聞こえない」
「大きな声で喋って」
「お前がスピード落とせ」
「気分がいいので嫌です」
「事故るぞ、馬鹿!」
「今のははっきり聞こえました!」
腹へ回った腕が締まる。速度は大したことがない。それでもむき出しの頭に当たる風は強く、目の端から涙が滲んだ。寒さのせいにするには、まだ夜は温かった。
「正直、どんなこと言われると思ってたんですか」
大声で尋ねる。
「何が!」
「好きにしていいって言った時です!」
「知らん!」
「薫さんはそんな考えなしじゃない!」
暫く返事はなかった。
道のくぼみを踏み、車体が小さく跳ねる。薫さんの身体が背中に押し付けられて、腕にさらに力が掛かった。
「避妊なし、くらいは覚悟してた!」
風に負けない大声だった。思わず肩を震わせると、背中に一つ頭突きを食らう。きっとヘルメットの堅さを知らない、そんな加減だった。
「薫さんは俺よりスケベなんですよ!」
「年頃の男は、大体そんなものだろう!」
「薫さんは、俺のこと何にもわかってませね!」
「分かってるつもりだったんだよ!」
「俺もです!」
声を張り上げる。
「俺も、薫さんのこと分かってるつもりでした!」
薫さんの手が腰から離れかけて、慌てて左腕で彼女を支える。
「危ないですよ!」
「誰のせいだ!」
「だから、最後にもう少しだけ分かりたかったんです!」
それきり、彼女は何も言わなくなった。ただ、もう一度俺を抱いた腕がいつの間にか胸元へ上がってきていた。
田畑の間を抜けて、緩い坂道へ入る。街の明かりはもう背後に小さく、頭上には隠れていた星が少しずつ増えていた。
「薫さん!」
「今度はなんだ!」
「俺に会いたかったですか!」
薫さんの身体が強張った。答えを待つ。風とエンジンが、沈黙を幾らでも誤魔化してくれた。それでも、もう勝手に答えは作らなかった。
「薫さん!」
「あぁ!」
ヘルメットごしでも聞こえるほど大きな声で。
「会いたかった!」
視界が滲んだ。風のせいにはもうできなかった。
「俺と一緒にいて、楽しかったですか!」
「あぁ! 楽しかったよ!」
堅いヘルメットが背中へ押し付けられる。
「俺もです!」
夜道に向かって、誰に届いてももう構わなかった。
「きっと! ずっと忘れることなんてできないくらい! 楽しかったです!」
「前見ろ馬鹿!」
「見てますよ!」
「だったら泣くな!」
「薫さんもでしょ!」
「私は泣いてない!」
きっと、そういうことにしておけばよかった。
誰もいない田舎道だった。
大声で笑っても、泣いても、俺たちを咎める人間なんていない。その全部をエンジン音と風で遠くへ流してしまった。終わることを知って、初めて俺たちは何も隠さずに外で騒いでいた。
*
原付を止めた頃には、もう何時なのか分からなくなっていた。
舗装された道から少し外れた、使われているのかもわからない空き地だった。背の低い草が一面を覆って、その向こうには山の輪郭だけが漆黒に佇んでいた。
持っていたビニールシートを広げる。端が風に捲れ、薫さんが靴の先で押さえていた。
「随分用意がいいんだな」
「今更ですか」
「そうだな、お前はそういう奴だった」
二人でシートへ寝転ぶ。薄い一枚を隔てた地面は固く、背中の形に合わせてくれるような親切さもなかった。草の匂いがまだ温度の残った土の匂いに包まれる。
見上げれば、星があった。
旅館の露天風呂から見た夜空より、ずっと大きかった。木々に囲われることも、屋根に切り取られることもない。端を探そうとしても見つからない程、人間の視野全てを埋めることが出来る星空。
「凄いですね」
「星を見に来たんだろ、知らなかったのか」
「薫さんと見たくて、大事に取っておいたんですよ」
「だったら、叶ったな」
「えぇ、叶いました」
肩が互いに触れていた。少し退けば離れられる程度の距離だった。それでも、どちらも動かなかった。
「俺たち、恋人みたいなことしてますね」
「そうだな」
あまりに素直に返されて、星から目を離す。
「もう悪態を着かないんですか」
「そんな気分じゃなくなった」
「明日は大雨ですね」
「きっとそうだよ」
薫さんは、こちらを見なかった。
俺も、もう何も見なかった。
虫の声が途切れずに続いていた。遠くを一台だけ車が走り、その音もすぐに分からなくなった。残ったのは風に揺れる草の音と、隣にいる人の呼吸だけだった。
こんなふうに黙っていられた時間が、これまでにどれくらいあっただろうか。
食事をして、珈琲を飲み、映画を見た。何も話さず同じ画面を眺めた。ベッドの中で、薫さんが俺の心臓を聞いていた。
どれも、もう二度と戻らない。
それでも今だけは、失くしたものを数える必要がなかった。
隣に薫さんがいる。
それだけで、十分に楽しかった。
十分すぎるほど、幸せだった。
だから、終わらせなければならなかった。
体を起こす。
「どうした」
「薫さんも、起きてください」
「嫌だ。今丁度背中に地面が馴染んできてたんだ」
「そんなところに馴染まないでくださいよ」
差し出した手を、薫さんは暫く眺めた。
「ほら」
「今日は随分扱いが雑だ」
「俺が背伸びしなかったら、こんなもんです。諦めてください」
「これだからガキは」
「えぇ。俺はまだ、ガキですよ」
薫さんは俺の手を取った。そのまま引き起こす。勢いがつきすぎた身体が胸元にぶつかって、すぐに離れた。
「じっとしててください」
「今度はなんだ」
足元へ手を伸ばす。草の間に、黄色い花が一輪だけ咲いていた。名前も知らない、小さな花だった。細い茎を傷つけないように摘み、葉を落とす。
薫さんの左手を取った。
薬指には、薄い跡だけが残っている。
「誠」
「じっとしててくださいって言ったでしょう」
「何をしてる」
「今、考えてます」
「考えてから始めろ」
細い茎を薬指へ巻く。
一周では余り、二周すれば足りなかった。切れないように指先で押さえながら、どうにか端を潜らせる。手早く済ませたつもりだったのに、思ったより時間が掛かった。
「不器用」
「わかってますよ」
「花が可哀想だ」
「もう少しだけ我慢してください」
薫さんは動かなかった。やがて、黄色い花が薬指の上に収まった。
金属に比べると、より頼りなく少し指を曲げてしまえば解けてしまいそうだった。朝になればきっと萎れる。ここを離れるまで持つかもわからない。
それでも今は、そこにあった。
薫さんの左手を、両手で包む。
もう理由は作らなかった。
元生徒だからでも、幸助のためでもない。先生を救いたいからでも、旦那が傍にいないからでもなかった。
俺がそうしたかった。
これが、俺の精一杯だった。
「薫さん」
彼女が顔を上げる。逃げずに、その目を見る。
「俺と結婚してください」
薫さんの唇が僅かに開いた。何か言おうとして、閉じる。
薬指に結ばれた花を、右手でそっと包んだ。壊さないように、守る手つきだった。
その顔が、ゆっくりと歪んだ。
「ごめんなさい」
答えは、短かった。
分かっていた。最初から、返事が変わる余地なんてなかった。
それでも胸の中に、綺麗な穴が開いた。涙が頬を落ちた。拭えば、その瞬間を見逃してしまいそうで、だから歯を食いしばって笑った。
「ありがとうございます」
声は、少し震えた。
「ちゃんと、傷つけました」
薫さんは泣いていた。
これまで何度も見なかったことにした涙を、今はもう逸らさずに見つめた。
「あぁ、もう」
花を包んだまま、薫さんが笑う。
ほんとに下手な、笑顔だった。
「最悪だったよ」
涙に溺れた目が、俺だけを見つめる。
「私も、お前に恋してた」
欲しかった言葉だった。
その言葉さえあれば何かを変えられると、ずっと思っていた。
それでも、何も変わらなかった。
薫さんは旦那さんのもとへ戻る。学校を辞め、遠い町で二人で暮らす。俺の合鍵は返されて、もうベルがなることもない。
それでも、もう答えの代わりを探す必要はなくなった。
来てくれたからでも、触れてくれたからでも、名前を呼んでくれたからでもない。
薫さんが、自分の口で答えてくれた。
俺も自分の名前で、それを引き受ける。
「大好きですよ、薫さん」
あと一秒だけ。
この人の目に、俺以外の何も映らなければいいと思った。
あと一秒だけ長く。その顔を覚えていたかった。
涙で濡れた顔で、薫さんはただ俺だけを見ていた。




