↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/15

籠鳥檻猿

籠鳥檻猿

 015


 ことり、と缶が置く音がした。


 薫さんはベッドを背凭れにして、俺の隣に座っていた。髪にも彼女が着るぶかぶかのTシャツにも、煙い線香花火の匂いがまだ残っていた。


 頬は夜風に当たっていたころより赤く、目元だけが普段より少し緩んでいた。


 彼女のスマートフォンはまだ、伏せられたままだった。何度光っても、それでも彼女は手を伸ばさなかった。


「今日は、随分ペースが早いですね」


「お前が買ってきてくれたんだろ」


「それはそうですけど。明日、頭痛くなっても知りませんよ」


「うるさいな」


 薫さんがこちらに凭れ掛かる。肩に額が当たり、そのまま髪が頬を擦った。アルコールと花火と、薄く汗のにおいがした。


「酔ってます?」


「酔ってない」


「素直に認めたらどうですか」


「黙れ」


 身体を預けたまま、薫さんが俺の腕を引いた。どういう姿勢になりたかったのか分からなかったけれど、それでも彼女の背中に腕を回すと、そこで動きが止まる。


「そういうことですか」


「そういうことだよ」


「薫さんが大人しいと、なんだか調子が狂いますね」


「殴ってやろうか」


 薫さんは俺の脇腹を小突いた。それ以上の追撃はなくて、代わりに腕の中で小さく息を吐く。空調の音だけが、部屋の隅で低く唸っていた。


「そろそろ、風呂沸いたか」


「多分。そろそろですね」


「そうか」


「先、入っていいですよ」


 薫さんが顔を上げる。近すぎて、何を考えているのか分からない目だった。


「お前は?」


「後で入りますよ」


「どうして」


「どうしてって、うちの風呂は一人用でしょう」


「知ってる」


「だったら」


「お前も来いよ」


 引かれていた腕に、少しだけ力が加わる。


「一緒に、ですか」


「他にどう聞こえた」


「いや、意外だったので」


「嫌ならいい」


 薫さんは俺から離れて立ち上がった。Tシャツの裾を掴んで、そのまま頭から脱いでその一枚を落とす。床に乱れた布の隣に、細い脚が二本並んだ。


「そういう気分なんだよ」


 こちらを振り返る。


「ちょっと付き合え」


 断れるような誘い方ではなかった。


「分かりましたよ」


 立ち上がると、薫さんは満足そうに浴室へ向かった。足取りは真っすぐだったけれど、脱衣所の敷居につま先を引っかけたり。今日はよっぽどだった。


「危ないですから、ちゃんと歩いて」


「だったら、このまま腕を貸せ」


「わかりましたって」


 片手を取られたまま、狭い脱衣所で我ながら器用に衣類を投げ捨てる。薫さんは俺の手を引いて、湯気の中に入った。


 身体を流して、薫さんを小さな椅子へ座らせる。濡れた髪を掬って泡立てると、彼女は目を閉じたまま首の力を抜いた。


「随分、大人しいですね」


「眠い」


「ここで寝ないでくださいよ」


「寝たら起こして」


「洗いにくいんで、もう少し顔を上げてください」


「しょうがないな」


 文句を言いながら、言われた通りに彼女は顎を上げる。指先で頭皮を擦るたびに、薫さんは気持ちがよさそうに息を吐いた。


 泡を流すと、濡れた髪は普段より黒く、細い背中に張り付いた。肩へ落ちた一筋を不備で払う。


「はい、終わりましたよ」


「変わってやる」


「眠いでしょ、無理しなくていいですよ」


「いいから、座れ」


 入れ替わって椅子へ腰を下ろす。薫さんの指が、泡を乗せた髪へ入った。最初のうちは、随分丁寧だった。


 それも、途中で止まる。


「薫さん?」


 返事の代わりに、背中に柔らかさを感じた。首元に腕が回り、濡れた頬が肩へ押し付けられる。


「手、止まってますよ」


「知ってる」


「もう、疲れましたね」


「ん。あとは自分でやれ」


 そう言いながら彼女は離れなかった。仕方なくその腕に捕らわれたまま、自分で頭を洗う。


「目、瞑っといてくださいね」


「うん」


 その声は耳元に残った。


 泡を流して、二人で浴槽に入った。


 旅館の露天風呂と比べてしまえば、元々一人で入るための狭い湯舟はやはり窮屈だった。俺が寝そべるように深く入って、彼女が浅く身体を重ねる。そうやってすっぽり収まった背中が、俺の胸元にぴたりと重なった。


「一緒に入ったら、こんなに狭いんだな」


「分かってたことでしょう」


「そうだな」


「そうですよ」


「このくらいが、身の丈に合ってるんだろうな」


 薫さんは息を深く吐く。頭を俺の肩に預けて、何もない天井を見上げた。


 窮屈なはずなのに、彼女は出ようとしなかった。俺も、少し広くなってほしいとは思わなかった。身体を少し揺らすたびに、湯が縁から少しずつ溢れていく。


 暫く、どちらも何も言わなかった。


「誠」


「はい」


「お前はさ」


 薫さんの指が、湯の中で俺の膝をなぞった。


「実際、どうなんだよ」


「何がですか」


「今の待遇」


 言葉の選びが少し雑だった。


「不満なんて、幾らでもあるんじゃないか」


 大した問いではなかったのだと思う。薫さんはただ、俺が困っていないか確かめたかっただけなのかもしれない。


「ありませんよ」


 答えは、すぐに出た。


「薫さんと一緒にいたい。俺はそれだけですから」


「そうか」


「それ以上なんて、期待しません」


 薫さんの指が止まった。


 そこまで聞かれてないことは、きっとわかっていた。それでも一度口にし始めてしまうと、止められなかった。それは焦りにも似ていた。


「二番目でもいいんです。都合よく使ってくれたって構いません。幸助のことを忘れたい時でも、旦那さんがいない寂しさを埋めたい時でも。現実逃避の相手でも」


「誠」


「薫さんがここに来てくれるなら、それで十分です。俺たちが何なのか、名前なんていりません」


「そこまでは、聞いてない」


 少し、困った声だった。


「物分かりの良さは、私のせいなんだろうな」


「半分は、俺のせいです」


「……そうか」


 薫さんの身体から少しだけ力が抜けた。


「お前がそう言うなら、そういうことにしておいてやる」


 ただ胸元へ預けられる重さが増えた。それだけで、言ってよかったのだと思えた。


「でも」


 薫さんが、身体の位置を僅かに直す。


 狭い湯舟の中で、柔らかい感触が腹の辺りへ押し付けられた。


「一緒に居たいだけにしては、随分身体が正直だ」


「何がですか」


「心臓も」


 彼女はわざと押し付けるように腰を動かす。波が立って、また溢れる。


「ほら、早くなってる」


「そんなことされたら、じっとしてられませんよ」


「猿が」


「誰のせいですか」


 仕返し、湯の中で彼女を捕まえる。薫さんの肩が小さく跳ねた。


「触っていいなんて、言ってないぞ」


「嫌なら、退いてください」


「ここは狭いんだよ」


「そうでしたね」


 逃げる場所がないことにして、指先で柔らかな輪郭を確かめる。振り返って、俺の頬に触れて、濡れた顎をなぞる。そのまま顔を引き寄せて口づけを交わす。


「今日はもう、しただろ」


 掠れた声に、もう一度唇を付けた。


「もう一回」


「猿」


「薫さんは鳥ですね」


 彼女の喘ぎが小さく漏れる。


「私はそんなに煩くない」


「どうでしょう」


 続きが唇で塞がれる。狭い湯舟の中で体の向きを変える。湯が大きく揺れて、縁から溢れ続ける。薫さんの腕が首へ回り、俺の指は濡れた背中を辿る。


 言葉で確かめなかったところを、触れて確かめる。


 俺に触れて、俺の手を拒まなかった。


 好きに飛んできて、偶に鳴いてくれればそれでいい。


 それだけでいい。


 そう言い聞かせるには、あまりにも彼女は柔らかかった。




了



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。