籠鳥檻猿
籠鳥檻猿
015
ことり、と缶が置く音がした。
薫さんはベッドを背凭れにして、俺の隣に座っていた。髪にも彼女が着るぶかぶかのTシャツにも、煙い線香花火の匂いがまだ残っていた。
頬は夜風に当たっていたころより赤く、目元だけが普段より少し緩んでいた。
彼女のスマートフォンはまだ、伏せられたままだった。何度光っても、それでも彼女は手を伸ばさなかった。
「今日は、随分ペースが早いですね」
「お前が買ってきてくれたんだろ」
「それはそうですけど。明日、頭痛くなっても知りませんよ」
「うるさいな」
薫さんがこちらに凭れ掛かる。肩に額が当たり、そのまま髪が頬を擦った。アルコールと花火と、薄く汗のにおいがした。
「酔ってます?」
「酔ってない」
「素直に認めたらどうですか」
「黙れ」
身体を預けたまま、薫さんが俺の腕を引いた。どういう姿勢になりたかったのか分からなかったけれど、それでも彼女の背中に腕を回すと、そこで動きが止まる。
「そういうことですか」
「そういうことだよ」
「薫さんが大人しいと、なんだか調子が狂いますね」
「殴ってやろうか」
薫さんは俺の脇腹を小突いた。それ以上の追撃はなくて、代わりに腕の中で小さく息を吐く。空調の音だけが、部屋の隅で低く唸っていた。
「そろそろ、風呂沸いたか」
「多分。そろそろですね」
「そうか」
「先、入っていいですよ」
薫さんが顔を上げる。近すぎて、何を考えているのか分からない目だった。
「お前は?」
「後で入りますよ」
「どうして」
「どうしてって、うちの風呂は一人用でしょう」
「知ってる」
「だったら」
「お前も来いよ」
引かれていた腕に、少しだけ力が加わる。
「一緒に、ですか」
「他にどう聞こえた」
「いや、意外だったので」
「嫌ならいい」
薫さんは俺から離れて立ち上がった。Tシャツの裾を掴んで、そのまま頭から脱いでその一枚を落とす。床に乱れた布の隣に、細い脚が二本並んだ。
「そういう気分なんだよ」
こちらを振り返る。
「ちょっと付き合え」
断れるような誘い方ではなかった。
「分かりましたよ」
立ち上がると、薫さんは満足そうに浴室へ向かった。足取りは真っすぐだったけれど、脱衣所の敷居につま先を引っかけたり。今日はよっぽどだった。
「危ないですから、ちゃんと歩いて」
「だったら、このまま腕を貸せ」
「わかりましたって」
片手を取られたまま、狭い脱衣所で我ながら器用に衣類を投げ捨てる。薫さんは俺の手を引いて、湯気の中に入った。
身体を流して、薫さんを小さな椅子へ座らせる。濡れた髪を掬って泡立てると、彼女は目を閉じたまま首の力を抜いた。
「随分、大人しいですね」
「眠い」
「ここで寝ないでくださいよ」
「寝たら起こして」
「洗いにくいんで、もう少し顔を上げてください」
「しょうがないな」
文句を言いながら、言われた通りに彼女は顎を上げる。指先で頭皮を擦るたびに、薫さんは気持ちがよさそうに息を吐いた。
泡を流すと、濡れた髪は普段より黒く、細い背中に張り付いた。肩へ落ちた一筋を不備で払う。
「はい、終わりましたよ」
「変わってやる」
「眠いでしょ、無理しなくていいですよ」
「いいから、座れ」
入れ替わって椅子へ腰を下ろす。薫さんの指が、泡を乗せた髪へ入った。最初のうちは、随分丁寧だった。
それも、途中で止まる。
「薫さん?」
返事の代わりに、背中に柔らかさを感じた。首元に腕が回り、濡れた頬が肩へ押し付けられる。
「手、止まってますよ」
「知ってる」
「もう、疲れましたね」
「ん。あとは自分でやれ」
そう言いながら彼女は離れなかった。仕方なくその腕に捕らわれたまま、自分で頭を洗う。
「目、瞑っといてくださいね」
「うん」
その声は耳元に残った。
泡を流して、二人で浴槽に入った。
旅館の露天風呂と比べてしまえば、元々一人で入るための狭い湯舟はやはり窮屈だった。俺が寝そべるように深く入って、彼女が浅く身体を重ねる。そうやってすっぽり収まった背中が、俺の胸元にぴたりと重なった。
「一緒に入ったら、こんなに狭いんだな」
「分かってたことでしょう」
「そうだな」
「そうですよ」
「このくらいが、身の丈に合ってるんだろうな」
薫さんは息を深く吐く。頭を俺の肩に預けて、何もない天井を見上げた。
窮屈なはずなのに、彼女は出ようとしなかった。俺も、少し広くなってほしいとは思わなかった。身体を少し揺らすたびに、湯が縁から少しずつ溢れていく。
暫く、どちらも何も言わなかった。
「誠」
「はい」
「お前はさ」
薫さんの指が、湯の中で俺の膝をなぞった。
「実際、どうなんだよ」
「何がですか」
「今の待遇」
言葉の選びが少し雑だった。
「不満なんて、幾らでもあるんじゃないか」
大した問いではなかったのだと思う。薫さんはただ、俺が困っていないか確かめたかっただけなのかもしれない。
「ありませんよ」
答えは、すぐに出た。
「薫さんと一緒にいたい。俺はそれだけですから」
「そうか」
「それ以上なんて、期待しません」
薫さんの指が止まった。
そこまで聞かれてないことは、きっとわかっていた。それでも一度口にし始めてしまうと、止められなかった。それは焦りにも似ていた。
「二番目でもいいんです。都合よく使ってくれたって構いません。幸助のことを忘れたい時でも、旦那さんがいない寂しさを埋めたい時でも。現実逃避の相手でも」
「誠」
「薫さんがここに来てくれるなら、それで十分です。俺たちが何なのか、名前なんていりません」
「そこまでは、聞いてない」
少し、困った声だった。
「物分かりの良さは、私のせいなんだろうな」
「半分は、俺のせいです」
「……そうか」
薫さんの身体から少しだけ力が抜けた。
「お前がそう言うなら、そういうことにしておいてやる」
ただ胸元へ預けられる重さが増えた。それだけで、言ってよかったのだと思えた。
「でも」
薫さんが、身体の位置を僅かに直す。
狭い湯舟の中で、柔らかい感触が腹の辺りへ押し付けられた。
「一緒に居たいだけにしては、随分身体が正直だ」
「何がですか」
「心臓も」
彼女はわざと押し付けるように腰を動かす。波が立って、また溢れる。
「ほら、早くなってる」
「そんなことされたら、じっとしてられませんよ」
「猿が」
「誰のせいですか」
仕返し、湯の中で彼女を捕まえる。薫さんの肩が小さく跳ねた。
「触っていいなんて、言ってないぞ」
「嫌なら、退いてください」
「ここは狭いんだよ」
「そうでしたね」
逃げる場所がないことにして、指先で柔らかな輪郭を確かめる。振り返って、俺の頬に触れて、濡れた顎をなぞる。そのまま顔を引き寄せて口づけを交わす。
「今日はもう、しただろ」
掠れた声に、もう一度唇を付けた。
「もう一回」
「猿」
「薫さんは鳥ですね」
彼女の喘ぎが小さく漏れる。
「私はそんなに煩くない」
「どうでしょう」
続きが唇で塞がれる。狭い湯舟の中で体の向きを変える。湯が大きく揺れて、縁から溢れ続ける。薫さんの腕が首へ回り、俺の指は濡れた背中を辿る。
言葉で確かめなかったところを、触れて確かめる。
俺に触れて、俺の手を拒まなかった。
好きに飛んできて、偶に鳴いてくれればそれでいい。
それだけでいい。
そう言い聞かせるには、あまりにも彼女は柔らかかった。
了




