第九話 離れ
漆黒の岩洞の中。
浅い眠りから目を覚ました狼王オチバは、重い上体を起こすと、隣に佇む大黒狼ゼロの影を見つめた。
その瞳には、首領としての威厳の裏に隠された、深い迷いと疲弊が滲んでいる。
「ゼロ……俺は、間違えたのか?」
地を這うような掠れた声が、暗闇に虚しく響く。
しばらくの沈黙の後、ゼロの巨体が音もなく動き、王の傍らへと寄り添った。
透き通るような声が、静かに闇に染み渡る。
「汝は何も間違わない。ただ、あの子と同じで、一つのことに没頭するあまり、他のすべてを見落としていたのだ」
その言葉に、狼王は顔を歪めた。
「不愉快だな。お前の物言い、言っていないのと同じではないか」
「汝はこれからどうするつもりだ? 本当に首領の座を7号に譲るのか?」
その静かな問いかけに、狼王はふっと目を伏せた。
「ああ、元よりそのつもりだったが……少し時期が早まっただけだ」
オチバの双眸に、微かだが切ない感傷の影が過る。
「……だからこそ、俺は二度と、番を求めなかったのだからな」
「そうか……」
ゼロはそう呟くと、それ以上は何も語らず、じっと狼王の姿を見つめ続けた。
「うっ……おい、見るな。不愉快だ」
狼の世界において、相手に視線を浴びせ続けることは、敵意の証明に他ならない。
*
知床の冬夜は、息を呑むほどに美しく、しかし骨の髄まで凍てつくほどに冷酷だった。
冴え渡る月光が針葉樹林の幾重にも重なる枝葉を通り抜け、白銀の雪原に斑な影を落としている。
降り始めたばかりの雪が、狼たちの領地を少しずつ、確実に覆い隠していく。
森の西側、月光が照らし出す岩丘の上。
かつての首領オチバと、新たな群れの首領となった7号が並んで立ち、眼下の群れを見下ろしていた。
オチバは冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込み、眼下に集まる狼たちを見据えた。
大きく顎を上げ、夜空に向かって地鳴りのような遠吠えを響かせる。
その一撃で、狼たちのざわめきが一瞬で静まり返った。何十対もの鋭い瞳が、一斉に高処へと注がれる。
「群れの者たちよ、聞け」
オチバの声は、老いてなお荒野を震わせる覇気に満ちていた。
「この森の冬は容赦がない。牙を研ぎ、飢えに耐え、これまで俺たちは恐怖と掟によってこの過酷な寒さを生き抜いてきた。だが……時代は変わる。俺の体からは、かつての力が少しずつ零れ落ちている。この厳しい冬を前に、群れに必要なのは、老いた牙ではない」
狼たちは息を呑み、静まり返った。オチバは隣の7号を見つめ、その肩にそっと己の鼻先を寄せた。
「本日をもって、俺は首領を降りる。次の首領は――『霧』だ。奴の知恵と気品、すべてを包み込む優しさは、この群れを新たなる夜明けへと導くだろう。これからはキリの言葉を俺の言葉と見なし、その命に従え!」
狼王はそこで一度言葉を切り、眼下の群れを愛おしそうに見つめた。
「それから……お前たちの本当の名は、これから俺が一つずつ教えてやる」
宣言が終わると同時に、オチバは一歩後ろへと下がり、群れの未来をキリへと託した。
降り頻る雪の中、新しき首領キリは一歩前に出ると、眼下の狼たちへ向かって、確固たる威厳を込めた若き咆哮を轟かせた。
若き咆哮の余韻が静まり返ると、キリは静かに眼下の狼たちを見つめ、気品に満ちた声で語りかけた。
「皆さん。オチバ前首領からこの重責を引き継ぎ、皆を率いることとなりました。まずは……我々を縛る、番号という掟を廃止することにいたします」
キリが群れの新たな掟について語りかけている最中、眼下にいた18号はそっと背を向けた。
彼女は皆の視線から逃れるように、近くの岩の陰へと黙々と歩み寄り、腰を下ろして静かに身体を休めるのだった。
新たな首領の誕生に対しても、彼女には特別な感慨などなかった。
そして、20号がこの群れを去ることにすら、名残惜しさなどこれっぽっちも感じていない。
今朝、命がけで前首領オチバに盾突いたあの衝動の裏には、生まれ変わる群れで生き永らえたいという本心など、最初から存在していなかったのだ。
――そもそも、差別やいじめなどといった不当な扱いは、あのアラシという恐ろしい狼が群れを去って以降、ようやく薄れ始め、14号と関わるようになってからは、とっくになくなっていたというのに。
では、一体何のためだったのか。
それは彼女自身にすら、分からなかった。
「おい、お前。なんで20号と一緒に行かなかった?」
不意に、11号が18号の視界を遮るようにして、目の前にぽつんと現れた。
その言葉に、18号は嫌悪を剥き出しにして声を荒らげる。
「はあ!? なんで私が20号と行かなきゃいけないのよ!?」
11号は一瞬だけきょとんとしたように動きを止めた。
それから、すぐにばつが悪そうに両耳をぺたりと寝かせると、申し訳なさそうな声で呟いた。
「すまない。ちょっと言い方が悪かった。なぁ、少し話せないか?」
「消えろ! このドあほう。」
「……」
18号の容赦のない拒絶に、11号はがっくりと頭を垂れ、寂しげに背を向けた。
しかし、彼がその場を去ろうとしたその瞬間、後ろから18号の声が降ってきた。
「待って……何の用よ?」
11号はすぐに歩み寄ると、18号の隣に並んで腰を下ろした。
そして、積もった雪を見つめたまま、低く真面目な声で切り出した。
「20号についての話だ」
11号が言葉を紡ぎきる前に、18号がそれを冷たく遮った。
「20号のことなら、私に話すことなんて何もないわよ」
「だが、お前は言ったはずだ。20号の立ち上げる群れに加わりたいと。……なのに、なんで今更心変わりしてるんだ?」
「だったら、なによ!? 私がどう決めようと、あんたには関係ないじゃない!?」
18号の激しい剣幕に、11号は頭を低く垂れたまま、静かに沈黙へと落ちていった。
地表に積もる雪をただ見つめながら、11号は無力感に耳をぴくリと動かすことしかできない。
やがて、その張り詰めた沈黙を破るように、再び隣から18号の声が降ってきた。
「……ごめん。ちょっと、言い方がきつかった」
その謝罪に、11号はただ一瞬だけ視線を向け、素っ気なく言葉を返した。
「……いえ、別に」
しかし、18号はその微かな視線を見逃さず、すぐさま顔を覗き込ませた。
「ねえ、そんなに20号のことが気になるなら、あんたが群れに加わればいいじゃない」
「いや、それはいくら何でも唐突すぎるだろ」
視線から逃れるように、11号は煩わしげに顔を背けた。
「……唐突なんかじゃない。わかってるのよ、あんたと20号のこと」
18号は体勢を元に戻すと、そのまま話を続けた。
「あんたたち、お互い気が合うでしょ? あんなに仲良くしているところを、わざと隠そうとしちゃって……本当にバカみたい。ずっと陰から見てきたんだから、そのくらいわかっているのよ」
11号はそのストーカーの能力に圧倒され、真顔でぽつりと漏らした。
「こわ……」
「怖くないわよ!」
18号は間髪入れずに怒鳴りつけると、ふいにつんと視線を逸らし、再び声を潛めて語り始めた。
「昨日、木陰で狼王に問い詰められたとき、あんたは20号を庇う嘘を吐いた。正直、クソ下手。
……そして今朝、20号に死刑が宣告されたとき……あんたから溢れ出ていた恐怖の匂いを、私はずっと感じていたのよ。
本当はあの場から逃げ出したかったんでしょ? 20号が処刑されるところなんて、見たくなかったから。……違う?」
18号はすっと表情を沈め、底冷えするような陰鬱な声で続けた。
「あの匂いはね、本来なら包囲されている20号から漂うはずのものだったのよ。
なのに、その隣に立っているあんたから溢れ出ていた。……正直、最悪な記憶を呼び覚まされて、吐き気がしたわ。
狼王が20号を包囲させた残像……まるでアラシが群れの先頭に立ち、外から加わった狼たちを蹂躙していた、忌まわしい光景そのものだった」
18号は喉を詰まらせ、震える声で言葉を絞り出した。
「そして、私は……何も考えず、どこからそんな勇気が湧いてきたのかも分からずに、そのまま飛び出して、適当な嘘を吐いたの。……あの時は、本当に死ぬかと思ったわ」
11号は重苦しい表情をした。
「それじゃ……俺のせいなのか?」
「そうだよ。あんたのせいよ」
18号が間髪入れずに言葉を乗っけてくると、11号は呆れたように一瞬だけきょとんとした。
それが本気の非難ではなく、ただの言葉の綾で自分をからかっているだけだと分かっていたからだ。
「……最後に一つ聞きたいんだが。あの言葉は、嘘だったのか?」
「ううん、完全に嘘ってわけじゃない。20号がこれから始める群れに、ある程度の憧れを抱いていたのは本当よ。
……でも、ごめんね。最初から、私が入るつもりなんてなかったの」
「……そうか」
その声は驚くほど平坦で、しかし、決意を秘めた重みがあった。
「ワォォォォーーン――!」
刹那、静寂を切り裂くように、西の領地から地鳴りのような遠吠えが響き渡った。
新たなる首領となったキリの長く、そして深い演説がようやく終わりを迎えたのだ。
狼たちは表向きこそ、新王の就任を祝して咆哮を上げている。
だがその実、新王のあまりにも長ったらしく退屈な演説から、ようやく解放されたことを心の底から喜び合っているに過ぎなかった。
18号はゆっくりと立ち上がり、心地よさそうに体を伸ばした。
「やっと終わったわね。それじゃあ、11号——」
彼女が数歩歩き、怪訝そうに振り返ったとき。
初雪の降り積もる岩陰には、もう、誰の姿もなかった。
そこには、ただ点々と続く足跡だけだった。
その夜を境に、11号は二度と群れに姿を現さなかった。




