第八話 ヒルネの悩み
一方――。
「ごめんね、ヒルネ。20号を少し借りるね」
「あ、はい」
8号に連れられて歩いていく20号の背中を見送りながら、ヒルネはその場にぽつんと佇んでいた。
どっと押し寄せてきた疲れに、近くの木陰へ横たわる。
両耳をぴくつかせ、警戒睡眠に入ろうとした。
だが、胸の内に渦巻く無数の心事が、どうしても彼女の眠りを妨げる。
横たわったまま、ヒルネは20号とこれまでに築いてきた感情の数々を静かに振り返っていた。
(私はいつも、20号の後ろを歩いていただけだった……)
サトウの話をしたときも、群れを離れようと提案したときもそうだ。
意見を口にすることはできても、二人の未来をその手で手繰り寄せる覚悟は、いつも20号に委ねてしまっていた。
その過保護な優しさに甘えながらも、どこかで息苦しさを感じていたのは事実だった。
ヒルネは、あたりをうろつき始めた。
その鼻の頭に、一片の雪がぴたりと落ちた。
「……雪?」
見上げた空から舞い降りてきたのは、静かな初雪だった。
彼女はブルブルと頭を振り、しばし沈思黙考した。
冬がすぐそこまで来ているからこそ、20号はあれほど常軌を逸した決断を下したのだ。
あてもなく歩き回っていたヒルネは、ふと窪地のほうに目を向けた。
7号と18号が、言葉を交わしている姿が目に飛び込んできたのだ。
「そういうわけで、あなたへの処分はなにも下しません。だから20号たちと一緒にここを去るか、あるいはこのまま群れに残るか、自由に選ぶといいですよ」
「うん、わかった」
「ところで、もう一つ美しい朗報があります。実はね、この私が、ついに次期首領の座へと君臨することになりましてね……」
18号は、完全に死んだ魚のような目を浮かべていた。
「……え?」
斜面の上から見下ろしていたヒルネは、思わず心の中で呟いた。
(よかったですね、18号さん)
胸をなでおろしたのも束の間、ハッと我に返ったヒルネは、慌てて両耳を伏せた。
「あ、いけない。私、どうして他人の話を盗み聞きなんてしているのかしら……」
盗み聞きへの後ろめたさから、ヒルネは慌ててその場を離れ、気まずさを誤魔化すように坂を駆け上がった。
しかし。
もしや18号が、自分と20号の築く新しい群れに加わってくれるかもしれない。
そう思うと、胸の内に楽しげな妄想がふつふつと込み上げて止まらなかった。
だがその途中、領地を巡回していた側近の15号と、随伴の16号の姿を、遠くの方に見かけた。
*
「ねぇ、16号。あたいさ、さっきからムシャクシャしてんだよね。7号の野郎のせいで邪魔が入ったけど、本当は20号の包囲網、あのまま続行して噛みちぎりたかったなぁ……」
雌狼の15号が、不満げにぼやいた。
「いや、そう言ってもさっきの場合はどうしても仕方ないだろ。狼王がすべての権限を7号兄さんに委ねちまったんだからさ」
隣を歩く16号が、宥めるようにそう応じた。
だが、その言葉を耳にした瞬間、15号はひどく不機嫌そうに鼻を鳴らし、7号への嫌悪から、その声を一段と低く沈ませた。
「『兄さん』だって? あんたもあいつをそんな風に呼ぶわけ? 気色が悪い。狼王様にちょっと気に入られたからって調子に乗りやがって、ほんっと気に食わない」
そう言って激しく吐き捨てると、15号は急にその狂暴な眼光を、隣を歩く16号の首元へと向けた。
「それよりさぁ、あたいの牙、さっきから飢えて疼いて仕方ないんだよね。あんたの喉笛も、今にも鮮血を噴き出したがってるように見えるしさ……。なぁ、ちょっとだけ噛みちぎって試させてよぉ」
15号の常軌を逸した『おねだり』に、16号は毛を逆立てて全力で飛び退き、絶叫した。
「なんでだよ! 一体どこをどう見て、俺の喉笛が血を噴き出したがってるなんて判断したんだよ!? っていうか、なんでお前に噛みちぎられなきゃいけないんだよ!? 一体どんな狂犬なのか!?」
その時、緊迫した二頭の間に、ヒルネが静かに姿を現した。
「こんにちは、15号さん、16号さん」
正面から歩いてきたヒルネが、二人に柔らかく声をかけた。
16号は一瞬でツッコミの形相を引っ込め、愛想笑いを浮かべた。
「あ、ヒルネ。こんにちは……。なんかいい気分だね。何かいいことでもあったのか?」
「ううん、別に。ただ普通のいいことですよ」
「普通?」
16号は首を傾げながら、すれ違って去っていくヒルネの背中を見送り、思わず言葉を漏らした。
「何それ?」
ハッとした16号は、慌てて遠ざかる背中に向かって声を張り上げた。
「あ、そこへ行くのはだめ……あーあ、もう遠くへ行っちゃった」
だがその時、隣にいた15号はとっくに涎をダラダラと垂らしていた。
「……あいつを噛みたい」
15号の言葉が終わるや否や、16号は「ツッコミモード」へと切り替えた。
「やめろ、そんな物騒な言葉を吐くのはやめろ! っていうか、お前一体どれほど何かを噛みたいんだよ! もう歯の生え変わりは終わっただろ!」
*
ヒルネはそのまま上り坂を歩み進めながら、18号が加わるかもしれないという先ほどの幻想から、その思考を再び20号の身へと引き戻していた。
20号への愛情は紛れもない本心だったし、その惜しみない慈しみに深く感謝もしていた。
しかし、彼の視線がいつも自分だけに注がれることを、彼女は望んでいなかったのだ。
その時、ヒルネは前方にうっすらと一頭の狼の影を捉えた。
その狼は大樹の前に佇み、静かに舞い落ちる落葉をじっと見つめている。
それが誰の影なのか確信が持てないまま、ヒルネはいつものように、その背中に礼儀正しく挨拶を投げかけて通り過ぎようとした。
「こんにちは」
「おい……」
未來のことで頭がいっぱいだったヒルネは、その呼びかけを耳に挟むこともなかった。
「おーい……!」
二度目の大きな声に、ようやく誰かが自分を呼んでいることに気がついた。
ハッと振り返ったヒルネは、その場に凝固した。
「ろ、ろろろ、狼王様……!? なんでここにいらっしゃるのですか……!?」
「はあ?」
「いやぁぁぁっ――!? た、大変申し訳ございません! すぐに、すぐに立ち去りますから!」
「立ち去る? どこへ?」
狼王は狼狽するヒルネをじっと見つめた。
その視線に、ヒルネは完全に言葉に詰まってしまう。
「いえ、私は……その……」
「もうよい、こっちに座れ」
「は、はい。え、ええ……?」
狼王は小さくため息をついた。
首領としての仮面を脱ぎ捨て、静かに言葉を重ねた。
「こっちに座れ、もう傷つけるつもりはないからな」
「はい、狼王様」
ヒルネが狼王と並んで腰を下ろすと、彼は淡々とした口調ながらも、なおも隠しきれない覇気を滲ませて問いかけた。
「お前、あいつといつからだ?」
「およそ一ヶ月前からです」
ヒルネは身を震わせ、蚊の鳴くような声で正直に白状した。
すると、狼王は目に見えるほどの怒りの炎を全身から噴き上がらせ、その鋭い眼光を再び彼女へと向けた。
「いい度胸だな。俺の群れで……」
「いやぁぁぁぁっ――!?」
ヒルネはあまりの恐怖に両耳を完全に伏せ、その場にうずくまった。
「それで、発情期のせいなのか?」
「違います! 本能のせいなんかじゃありません! 去年の時から、私はずっと20号のことが好きだったんです!」
「興味深いな……」
フェロモンに頼ることなく、二頭の狼がどうやって互いに惹かれ合ったのか、彼は知りたくて仕方がなかったのだ。
狼王は静かに腰を落ち着け、言葉を紡いだ。
「……詳しく聞かせてもらおう」
ヒルネは目を細め、静かに記憶の糸を解きほぐし始めた。
「去年のことです。ある狩猟で、一頭の鹿を仕留めた時のことでした。
その時、20号は肉を真っ先に私の前へと咥え持ってきて、『食え、俺は今腹が減ってない』と言った。だが、私はそれを受け取らなかった」
ヒルネは一度小さく息を整え、言葉を続けた。
「それからというもの、彼は私がそのままでは肉を受け取らないと察したのでしょうね。
その後の狩猟からは、私の前でわざわざ下手な芝居を打つようになったんです。
『なんだこの肉、まずい、まずすぎる!』って、大げさに文句を言いながら、私の目の前に肉を放り投げていくようになりました」
ヒルネの顔に、温かな幸福の光がふわりと浮かび上がる。
「……その時の彼の姿が、どうしてもおかしくて笑ってしまいました。でも、それと同時に愛おしくて。
私が少しずつ、20号の心の優しさに惹かれ、好きになっていったのは、まさにあの時からだったんです。
その想いが一ヶ月前まで続いて、ついに堪えきれなくなって……」
しかし、そんなヒルネの愛おしげな思い出話を聞き終えた狼王は、心底不快そうに鼻を鳴らした。
「チッ、あいつらしいな。いつまで経っても、変なやり方で余所者の狼の世話ばかり焼きおって」
狼王はそう吐き捨てるようにぼやいた。
だが、ふと遠い目を浮かべると、今度は自分から20号の幼き日の記憶を語り始めた。
「あの馬鹿な狼め。まだほんのちびの小狼だった頃の話だ。俺はあいつに狩りの稽古をさせるため、わざわざ生け捕りにした小さなイノシシを目の前に放り投げてやった。
造作もないことだと思っていたのだがな。……後になって様子を見に戻ってみれば、何をトチ狂ったか、そのイノシシと一緒に丸くなって寝ていやがった。
それどころか、あろうことか親友にまでなっていたのだからな……」
ヒルネはパッと目を輝かせた。
「えー、そうなのですか!?」
「ああ。結局、俺もその小さなイノシシを殺すに忍びなくなってな。
わざわざ母親の元へ送り届けてやったというのに、逆上されて危うく牙で刺し貫かれるところだったわ。
……あの一件を聞いた時、あの小僧、どういうわけか激しい悲哀の匂いを撒き散らしやがったのだからな」
「えー、そんなお話、私は一度も20号から聞いたことがありません」
ヒルネの顔に、ふわりと温かな笑みが広がった。
「ふん、あいつの仕出かした馬鹿な真似なんぞ、まだまだ山ほどある。語り尽くせぬくらいにな」
狼王はどこか懐かしそうにぼやいていたが、ふと振り返った。
「そうだな、20号」
「え?20号、いつから……」
本当に真後ろに立っていた。
ヒルネは嬉しそうにその傍らへと駆け寄った。
「すまない、ヒルネ。待たせた」
「ううん、そのおかげで、いいお話が聞けました」
くすくすと悪戯っぽく笑うヒルネを見て、20号は一瞬で血の気が引いた。
「え、そうなの……」
20号はバツが悪そうに視線を泳がせ、ただ呟いた。
しかし、20号はすぐに気を取り直した。
「さっき、18号のところへ行って詳しく話をしてきたんだ。俺たちの新しい群れに加わらないかと誘ってみたんだが……残念ながら、断られてしまった」
「そう、ですか……」
ヒルネの瞳に、うっすらと失望の色が浮かんだ。
それは昨夜、彼女の瞳を染めたものと、全く同じ眼差しだった。
その視線は、20号の心を容赦なく切り裂いた。
重苦しい静寂が満ちる中、それまで二人を静観していた狼王が、低く掠れた声を漏らした。
「あいつは……大丈夫なのか?」
20号はしばらく沈黙した。
それから、静かに言葉を紡ぎ出した。
「はい、狼王様。18号なら大丈夫です。ただ、やはり少し気落ちしているようで……」
「……そうか」
20号の簡潔な報告を耳にすると、狼王は静かに立ち上がり、重々しい足取りで歩き出した。
今朝がた18号から向けられたあの非難の言葉は、彼の心に深い挫折感を植え付けていた。
もはや自分は、群れの首領にはふさわしくない。
その自責の念こそが、7号へと座を譲る決断の理由だった。
「狼王様……」
去りゆく狼王の背中を見送りながら、20号は思った。
おそらく、これこそが彼にとって、最もふさわしい引き際なのだろう、と。
その後、20号は視線を移し、未だ瞳に失望の色を滲ませたヒルネを見つめた。
「ヒルネ、俺は間違えた。大間違いだった。」
20号は絞り出すように、言葉を重ねた。
「いつもひとりよがりで、それがお前のためになると、勝手に思い込んでいたんだ。……なのに俺は、結果的にヒルネを危険に晒し、その気持ちを置き去りにしてしまっていた」
「そんなことないです。20号はもう、責任を十分に果たしてくれました」
「いや、昨夜、『いっそ群れから離れましょう』と言ってくれたときもそうだ。
冬の厳しさに立ち向かうのが怖かったわけじゃない。だけど、俺の算段はまるで臆病者の言い訳だった。
そんな自分が、どうしても許せなかったんだ。……夫として、己の情けなさが恥ずかしくてたまらない」
「……20号」
ヒルネのみずみずしく澄んだ瞳を見つめ、20号は覚悟を宿した声を放った。
「だから、これからは俺がまた馬鹿な考えに囚われそうになったら、その時は容赦なく俺の目を覚まさせてくれ」
「ぜひ」
「うん」
20号とヒルネは、互いの首元を愛おしそうに深く擦り寄せ合った。
しんしんと降り積もる初雪は、二頭の泥を、そして過去のすべての未練を静かに覆い隠した。
それはまるで、新しい王と、その番が歩み出す未来を祝福しているかのようだった。




