第七話 無気配
そして、ほぼ一時間後――。
「いやーごめん、ごめん。お待たせしました」
7号は悠然と20号たちへ近づいた。
8号はそのすぐ後ろを静かに従っていた。
尊敬する7号を前に、20号も気を引き締めて挨拶した。
「7号兄さん、それに……8号?」
20号の表情には、明らかな困惑が混じっていた。
その野生の嗅覚が、目の前にいるはずの8号の匂いを、どうしても捉えきれずにいたからだ。
「あ、僕はいい。誰にも気づかれない方が気楽でいいし」
8号はただ、いつものように淡々と返した。
「おや、またそうやって謙遜なさる。8号の腕前は本物ですよ。あの時、熊の警戒を掻い潜り、獲物を丸ごと奪い去ったことすらあるのです。私たちは見事に仕留めてもらうため、必死になって熊の注意を引いていたというのにね」
「やめなよ。またそんなことを言って……別に大したことなかったのに」
8号は困惑したように小さくため息をつき、ただ視線を落とした。
「そ、そうか……」
20号は8号の体格を値踏みするように見つめた。
見るからに無害そうな顔つきをしており、並外れた巨躯というわけではないが、18号ほど痩せ細っているわけでもない。
しかし、嗅覚では捉えられず、7号と共に歩んできた際にも一切の足音を立てなかった。
ただ視覚のみでしか存在を証明できない、不気味な狼。
20号は、背筋が凍るような恐怖を覚えた。
もし先ほど、狼王が本当に「やっちまえ」と命じていたら。
自分は今頃、息の根を止められるその瞬間まで、音もなく噛み殺されていたに違いない。
「それより、狼王様はあなた方への処分の権限を私に一任してくださいました。おや、そこのあなたも、こちらへ来て処分内容を一緒に聞きなさい」
「はい」
7号の呼びかけに、ヒルネが慌てて駆け寄ってきた。
「……誠に遺憾ながら、あなた方はこの群れから追放処分となりました。立ち去った後は二度と、我々の領地に姿を現さないことです」
「承知しました」
二頭は声を揃えて、その処分を受け入れた。
「すまない、7号兄さん。迷惑をかけた。……それと、ありがとうよ」
20号は、真摯な面持ちで頭を下げた。
「おや、困りましたね。私はあなた方を群れから追い出す側の狼ですよ? お礼を言われる筋合いはありません。……それに、もうすぐ私のことを『7号兄さん』と呼ぶ必要もなくなりますよ」
7号の含みを持たせた暗示を耳にした瞬間、20号の瞳にパッと光が灯った。
「え? もしかして……」
「さぁー……どうかな、アッハハハハハハ」
7号は豪快に笑い声をあげながら、その瞳に隠しきれない喜びを滲ませた。
傍らにいた8号は、心底嫌そうに、まるで死んだ魚のような目で7号を見つめていた。
「……また」
20号は嬉しそうに祝辞を述べた。
「おめでとう、7号にぃ……いや、狼王様」
その口から飛び出した『狼王様』という響きに、事の状況を遅れて理解したヒルネも、慌てて便乘するように声を上げた。
「え? お、おめでとうございます、狼王様!」
「もう……まだ狼王様になると決まったわけでもありませんのに、そんな色好いお言葉、気が早すぎますよ。……まぁ、悪い気はしませんけれどね?」
7号がどれほど鼻高々にしていようとも、8号はそれを完全に無視し、平然と話題を切り替えた。
「ところで、18号はいま、どこにいたの?」
そう問われた20号は、後ろに広がる樹林へと視線を巡らせた。
「18号は、まだ気持ちの整理がついていないんだ」
その視界に、ヒルネの不安げな表情が飛び込んでくる。
20号はすかさず、口を開いた。
「ちなみに、18号はどんな処分になったんだ?」
「心配しなくても大丈夫だよ。彼女には何の処分もないから。ただ、ちょっと伝えておかなきゃいけないことがあるだけ」
「そうか……」
20号は短く返した。傍らのヒルネは、8号の返答に安堵の息を漏らしたものの、どこか上の空だった。その様子が、どうしても気になった。
「……ヒルネ」
8号が、7号の方を振り向いた。
「それじゃ7号……」
当の7号は、まだ見ぬ狼王の妄想に浸っている真っ最中だった。
その姿に、8号は死んだ魚のような目で、わざとボソリと呟いた。
「狼王様……」
「はい、何でしょうか?」
「18号のところに行って話を伝えてくるのを頼む。僕は20号と、まだ話があるから」
「おや。……そうか、そうか、8号は20号が我々から離れていくのが名残惜しくて、この機会に少しでも多く話をしておきたいのですね。その気持ちがわかります。それでは、二人で水入らずの時間を過ごしてください。すぐ戻りますね」
7号の勝手な解釈に、8号の目は完全に死んだ魚のそれへと戻っていた。
その背中が一同の前から去っていくのを見送りながら、8号はぽつりと呟いた。
「いずれ、あいつの喉笛を噛みちぎる……」
その後、8号は何事もなかったかのようにヒルネに声をかけた。
「ごめんね、ヒルネ。20号を少し借りるね」
「あ、はい」
「……行こうか」
「しょっ……」
そんな恐ろしい言葉を平然と吐き出すのを目にし、20号は言葉を失った。
恐怖に支配されながらも、ただ従うことしかできない。
「承知しました……」
*
そうして20号は8号の後ろを付いて歩きながら、わけのわからない不安な予感に、思考を完全に占拠されていた。
(なんだそれ? 殺されるのか? 俺は今から、誰もいない場所に連れて行かれて殺されるのか……?)
8号の軽やかな足取りから響く、ササッという足音に、20号は思わず言葉を漏らした。
「あれ? 聞こえる」
20号の呟きに、8号が振り返った。
「ん? どうしたの?」
「いや、さっき7号と俺のところに来た時、8号の足音が聞こえなかったんだ。でも、今ははっきりと聞こえるなと思って」
「あぁ、あれは7号の足取りに合わせて、彼の動きの中に自分の音を隠して歩いただけだよ。別に、大したことじゃないし」
8号の説明を聞き終えた20号は、心の中で叫ばずにはいられなかった。
(怖え……)
その後、8号は辺りを見回した。
「まあ、ここでいい」
その一言に、20号の全身の毛が逆立った。
「やる気か!?」
一方の8号は、きょとんとした様子で彼を見つめた。
「ん?」
「……え?」
*
「なんだ、そういうことだったんだ。別にそんなに怖くないのに」
気まずそうに地面へと視線を落とし、20号は言った。
「すまない、8号。勘違いしちゃった」
8号は可笑しそうに顔を綻ばせた。
「ハハハハ、別にいいよ、そんなの」
「だが、お前は言っただろ。いずれやつの喉……」
「あぁ、あれはただの口から出まかせだよ。本当に7号と本気でやり合ったら、僕が勝てるとは限らないし」
20号はあまりの呆気にとられ、思わず大声で叫んでいた。
「そんなこと、口から出まかせで言っていいわけねえだろ!」
そんな雑談を挟みつつも、8号はすっと真面目な顔に戻った。
「実はね、僕が伝えたかった話っていうのは。あの日、君とヒルネが11号に連れられて泥地へ向かった時、僕は君たちの後ろをつけていたんだ。もちろん、それは狼王様の命令だった。そのあと、11号が離れてからの会話も、僕は全部はっきりと聞いていたんだよ」
「…… そうなのか」
「僕は狼王様の肩を持つわけじゃないけど、でも……」
8号はしばらく黙り込んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。
「君の元々の名前は、あの日言っていた『コード』なんかじゃないと思うんだ。本当の名前は『銀狼』。狼王様が、自分で名前をちゃんと考えて、名付けてくれたんだよ」
「……ギンロウ」
狼王の話題が出たことで、20号の心は瞬時に重くなった。
「そうか。……俺にも名前が、あったのか」
8号はさらに言葉を続けた。
「それにね。君の命は、狼王様が命がけで守り抜いたものなんだよ。」
「……え?」
20号は震える瞳で、8号をじっと見つめた。
「その話は、どういう……」
「僕たちのこの群れでは、かつてクーデターが起きたんだ。その時、アラシは狼王の座を奪おうとして、実の母親を噛み殺したんだよ。彼は君を含めた新生児たちにも手をかけようとして、その時、狼王様はこれ以上の惨劇を防ぐために、必死にアラシと戦ったんだ。だけど、新生児たちの中で狼王様に護り抜かれたのは、君と23号だけだったんだ」
「……ありえない」
20号は激しく首を振った。
いつも狂暴で、部下に一切の情をかけないあの狼王と、幼子を護るために戦ったという8号の言葉。
その二つの姿を、どうしても重ね合わせることができなかったのだ。
「そんなこと、ありえないッ!」
「事実だよ。あの時、僕はもう成狼だったからね。すべてをこの目で見ていたんだ。あの時の狼王様はね、奥さんを亡くした悲痛の中にありながらも、その悲しみに耐えて、君と23号を自分の口で毛づくろいして、必死に育て上げたんだよ。それに、あの惨劇が二度と起きないようにするために、ゼロを群れに引き入れたのもあの時だったんだ」
「……」
突然突きつけられた真実の連続に、20号はただ立ち尽くした。
「銀狼。その名前は、毛色が生え変わり始めた頃に、狼王様が授けてくださった名前なんだ。君、本当に綺麗で立派な狼の毛になったね。名前を受け入れるかどうかは、自分で決めるんだよ」
話を終えると、8号はすぐに背を向けて歩き出した。
だが、再び20号の声が響いた。
「で……」
20号は8号の背中をまっすぐに見据え、言葉を放った。
「そのアラシという狼は、一体何者なんだ?」
8号は振り返り、少しの間沈黙してから、静かに言葉を紡いだ。
「狼王様の最初の息子。僕たちの今のナンバリング制度で名付けるなら、彼は『1号』だね。今は森林の東側で群れを築いているらしいよ。新しい群れを築きたいのなら、東側には行かないほうがいいと思うよ」




