第六話 両者破防
晩秋の明け方。
立ち込める霧の中、冷たい風が枯れ葉を散らし、首領の足元へと集めていった。
落葉──それが、この狼王の名だ。
幼き日の彼は、木々から枯れ葉がひらひらと舞い踊る様子を、じっと眺めるのが好きだった。だからこそ両親は、溢れるほどの愛を込めて、その名を彼に贈ったのだ。
しかし、あまりにも静謐なその空間を、20号の低い声が切り裂いた。
「……狼王様」
その呼びかけにも、狼王は振り返らない。
首領としての冷徹な口調で、地を這うような声を返した。
「お前……本当にいい度胸だな。俺が直々に足を運んでやるまでもなく、自ら首を差し出しに来るとは」
20号は何も語らなかった。
ただ静かに歩み寄ると、狼王の傍らへと至り、その場に深く身を伏せる。
階級社会である狼の世界において、この「姿勢を低くする」行為は、絶対的な「順従」と降伏の証明。
だが、首領たる狼王にはとっくに分かっていた。
その真意は、己のプライドをすべて捨て去った上での「懇願」なのだと。
「……なんだ?」
20号はありったけの力を振り絞り、そう告げた。
「不肖ながら、私は身分の低い雌狼と絆を結びました。そして今、彼女の身には新しき命が授かっております……」
狼王はそこでようやく振り返り、平伏する20号を正面から見下ろしながら、冷たく問い詰めた。
「ほほう。ならば、わざわざ罪を請いに来たというわけか?」
「いえ、滅相もございません。ただ狼王様、どうか私と最下位の雌狼が冬を越すまでの間、群れに留まることをお許しいただけないでしょうか。春が訪れれば、必ずや自らこの地を去ります」
「ふざけるなッ!!」
あまりにも荒唐無稽なその懇願に、狼王はとうとう堪えきれず、激しい怒声を爆発させた。
大きな樹陰で目を閉じていた大黒狼へと、鋭い視線を送る。
「ゼロ、頼む。皆を集めてくれ」
だが、20号はなおも声を張り上げ、必死に懇願した。
「どうか……どうか狼王様、お慈悲を……っ!」
狼王は苛立たしげにその場を往復する。
値踏みするような眼差しで20号をじっと見つめ、思案にふけった。――やがて、静かな低音を漏らした。
「そうか。言葉にせねば、分からぬのだな?」
「……え? 」
狼王はぽつりと独り言を呟き、20号のすぐ傍らへと歩み寄る。
そして、肩を並べるようにして腰を下ろした。
「顔を上げろ」
狼王は首領としての威厳を一度脇に置き、偽りのない『己』そのもので20号と向き合おうとしていた。
「お前、何を考えている?」
「え……」
「俺の群れの中で、雌狼の腹を膨らませておきながら、そいつを連れて出ていこうともしない。お前は、何を企んでいる?」
「私はただ……群れの庇護を借りて、ヒルネに無事、冬を越してほしいだけです……」
20号の、偽りのない本音だった。
「そうか? そんな理由のために、お前の愛する狼をどれほど危険な境遇へと追い込むことになるか、わかっているか?」
狼王は重苦しい表情を浮かべ、20号を見つめながら、さらに問いを重ねる。
「そして……大自然の試練に立ち向かう勇気も覚悟もなく、群れに留まる『臆病者』のお前を――彼女は、一体どんな思いで見つめていると思う?」
その魂を揺さぶるような糾問を前にして、彼の脳裏に、昨夜ヒルネが自分に向けた失望の眼差しが瞬時に蘇った。
と同時に、激しく動揺した20号は、弾かれたように地面から跳ね起きた。
「違う、そんなんじゃない! 俺はただ……っ!」
大自然の試練を恐れているなど、断じて違う。
そんなことは、自分が一番よく分かっていた。
熟考を重ねた末に導き出した、ヒルネにとっての最善。最も安全な算段なのだ。
そしてその時、ゼロの招集に応じた他の狼たちも、暗闇から続々と姿を現した。
「ただ、何だ? お前はただ、あの雌狼と共にこの群れへ居座る寄生虫になりたいだけではないのか?」
「違う……違うんだ! 俺は、群れの寄生虫になろうなんて、そんなこと……一度も考えたこともない……っ!」
しかし、言葉を重ねれば重ねるほど、自分がこれまで下してきた全ての選択が、まるで狼王の言う通りの代物であったかのように思えてならなかった。
「だったら、教えてみろ。狩りもできぬ身重の雌狼を群れに留めて足を引っ張らせ、食糧分配の不均等から群れを瓦解の危機に瀕させる、その理由を。俺は一体何のために、この群れを破滅へと導かねばならんのだ?」
「俺は……その……」
20号は二の句が継げなかった。
正義の天秤が、音を立てて傾き始める。
狼王から突きつけられた、圧倒的な「正論」を前に、彼は理解せざるを得なかった。
ヒルネを護るための行動は群れへの危害であり、この群れを護る正義は、狼王の方なのだと。
「あ、そうだ。ゼロがそう言っていたな。お前は立派な狼だと。確かに立派な狼だとも。泥を使って、その最下位の雌狼が放つ妊娠の匂いを隠すとはな」
狼王は深く息を吸い込み、怒りを極限まで押し殺した。
「俺が……何も知らないとでも、本気で思っていたのか?」
辺りはしんと静まり返った。
今の20号にできるのは、ただ地面を見つめることだけ。
「さて、20号。お前にはまだ、何か弁明の余地が残されているか?」
「……言葉も、ございません」
20号は完全に気力を失い、その瞳から光を消し去ったまま、ただ言葉を絞り出した。
「……どうか狼王様、私とヒルネを、この群れから追放処分にしていただけないでしょうか」
「残念。お前はもう死刑だ」
狼王は20号へ冷酷な処罰を宣告すると、間髪入れずに群れの側近たちへと鋭い視線を送り、命じた。
「7号、8号、限って15号。そいつを包囲しろ」
ほぼ同時に、20号が真っ先に取った行動は、己の身の安危を案じることではなく、背後のヒルネへと振り返ることだった。
ヒルネはただ無力な眼差しを返し、その場に立ち尽くすしかなかった。
狼王の導き出す死罪が、自分一頭だけで終わるはずがない──それを、痛いほどに察知した。
再び狼王へと向き直った時、その顔は牙を剥き出し、猛々しい狂相へと変わっていた。
「なんでだよ……っ!?」
「なんで、だと? 普通ならただの『追放』で済むところだ。だがお前は違う。群れに居座る寄生虫になろうなどと企んだ以上、いずれその雌狼を養うために、俺たちから食糧を奪わぬという保証はどこにもない。……ましてや、冬はもうすぐそこまで来ているのだからな」
狼王はそこまで言うと、言葉を止めた。
「お前ら……やっ──」
「狼王様、私は妊娠しました!」
狼王がその言葉を口にし終えるより早く、18号が突如として張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「あっ?」
突発的な事態に、さしもの狼王も一瞬で硬直した。
状況を把握した次の瞬間、その瞳孔は驚愕に大きく見開かれた。
「はぁ?」
狼王は18号に向かって歩み寄ると、鋭く問い詰めた。
「どういうことだ……っ!?」
狼王の凄まじい威圧感を前に、18号は怯えながらも言葉を絞り出した。
「わ、私は……外の狼と……」
しかし、狼王はただ18号の周囲をぐるりと巡っただけで、すべてを見抜いた。
「お前は……何故そんな嘘をついた? ──いや、違うな。お前は何故、そいつらのために嘘をつく必要があった?」
狼王は18号をじっと見据え、容赦なく問い詰めた。
しかし、18号はただ俯いたまま、固く口を閉ざしていた。
「……」
「言え!」
狼王が怒号で迫ると、恐怖に震え上がった18号は、縋るように14号へと視線を向けた。
「ん?」
14号は向けられた18号の無力な眼差しから、そっぽを向くこともなく、言い放った。
「これは貴様が自分で選んだことだ。何か言いたいことがあるなら、堂々と胸を張ってちゃんと言え!」
その言葉が18号に、狼王を真っ向から見据える勇気を与えた。
「私は……そいつらのためじゃない。私、狼王様が嫌いだ。狼王様が率いるこの群れが……大嫌いだ……っ!」
なおも冷徹で容赦のない口調を崩さぬまま、狼王は吐き捨てた。
「よく言えたな。──お前の躾は、後回しだ」
狼王が翻ったその瞬間、18号は再び声を張り上げた。
「待て、待てだよ! まだ話が終わってない……っ!」
「くっ……お前、いい加減にしろ!」
狼王は苛立ちを隠さずに振り返った。
しかしその刹那、彼は18号の体内から放たれる、狂おしいほどの「悲哀」の匂いを、その鋭い嗅覚で捉えていた。
「以前、私は……狼王様の群れの中で……ほぼ毎日、いじめられていました。……ただ、私の体型が他の皆より小さくて、痩せ細っている、それだけで。……狼王様だって、そんなこと本当はよく分かっていたはずなのに。……なのに……一度だって……ただの一度だって、私を護ってくれようとはしなかった……っ!」
18号は激しい悲哀に声を震わせ、言葉を詰まらせながらも、語り続けた。
「だから……昨日、20号が言っていたのを聞いて。……差別もいじめもない群れを、自分たちの手で起こしたいって言っているのを聞いて。……私、我慢できなかった。……あんなのただの綺麗事だって、鼻で笑わずにはいられなかったの……っ。ごめんなさい……20号……っ、本当にごめんなさい……っ!」
「……18号」
20号が、ぽつりとその名を呟いた。
「だから……狼王様、お願いだから……死刑にだけはしないで……っ。私、20号の起こす群れに、加わりたいから……っ! あの差別もいじめもない群れに……加わりたいんだ……っ!」
狼に涙など流せはしない。
しかし、森の西側に響き渡る18号の血を吐くような泣き声は、他の狼たちの心を引き裂き、狼王の頑なな仮面をも確かに穿ち抜いていた。
「俺が何か間違ったか? この群れは俺の統率のもとで、生き延びてきたのだ。ここにいる誰一人として、俺は裏切った覚えなどない! 俺とゼロが、お前たち一人一人をどれほど大切に想ってきたか……お前らには分かりもすまい!」
「……大切、だって?」
18号は悲哀を喉の奥へと押し込み、その声から震えは完全に消え去っていた。
「だったら、教えてみろよ。……外から加わった狼たちには皆、立派な名前があるっていうのに、なんで私たちは互いを番号で呼び合うことしかできないんだ!? 私たちは、狼王様の統治を揺るぎないものにするために、都合よく顎で使われる『道具』に過ぎないんじゃないのか!」
「……違う、そうじゃない。お前たちを『道具』などと思わない! ただの一度も思わない! 俺はただ……」
狼王はそこで、激しく言葉を詰まらせた。
狩猟の際、数字の割り振りがもたらす『絶対の効率』。
それを口にしようとすればするほど、その説明自体が、18号の告発を裏付ける証明として、己の喉を締め上げていくようだった。
「狼王様は、ただの狼王様じゃない。……私たちの、お父さんなんだ……っ!」
18号が放った「お父さん」というその一言が、その場を凍り付かせた。
狼王は立ち尽くし、その脳裏では混迷を極めた思考が、嵐のように荒れ狂っていた。
「くっそ……」
それだけ吐き捨てると、狼王はそれ以上の指示を何一つ下すことなく、そのまま背を向けて立ち去った。
20号を包囲していた狼たちは、一瞬の戸惑いの後、7号の目配せを合図に、静かに狼王の後に続いた。
後に残された18号は、未だ狼王と真っ向から対峙した激しい興奮のなかにいた。
荒れ狂う無数の思考が、その脳裏を絶え間なく駆け巡る。
やがて、嗅ぎ慣れた匂いとともに、見慣れた影が目の前へと歩み寄ってきた。
「貴様、よくやった」




