第五話 前夜
夜は、狼たちが最も活発に動き回る時間だ。
森林の西側には皓々と月光が降り注ぎ、狼たちの野性を刺激して、その内に眠る狩猟の本能を激しく揺さぶる。
しかし、昼間に行われた20号への苛烈な審問により、老いた狼王の肉体はすでに限界を超えていた。
それゆえに今夜は、狼群の指揮権を一時的に7号へと委ね、夜の狩りに関する一切の決断を一任することにしたのだ。
群れの狼たちへ向けて、7号はどこまでも気品溢れる和らかな眼差しを向け、丁寧な口調で語りかけた。
「皆さん、今宵は狼王様に代わりまして、力不足ながらこの私が指揮を務めさせていただきます。まずは各自、ご自由にお過ごしくださいませ。核心を担う数頭の仲間たちとご相談を重ねました後、改めて今夜の任務を皆さんに分担いたします」
「フン、核心を担うというのなら、この俺を差し置いて他に誰がいるというのだ!」
しかし、実際のところ彼は核心の仲間でもなければ、群れの重要人物でもなんでもない。
なぜかすべてを察したかのような偉そうな顔をして 7号のすぐ後ろを当然のように付いて回る 14号に対し、7号はふと足を止め、振り返るとおっとりとした仕草で小さく首を傾げた。
そして、どこまでも丁寧な口調で問いかける。
「おや、14号。どうかいたしましたか?」
「当然、貴様らと今夜の任務について協議するためだ。あそこにいる雑魚どもは、この俺の発令を今か今かと待ちわびているのだからな!」
そう威風堂々と宣う14号に対し、7号はどこか困ったような、ひどく哀れみ深い眼差しを向けた。
しかし、その丁寧な口調は崩さぬまま、放たれる気配だけが一瞬にして一切の妥協を許さない冷徹なものへと切り替わる。
「いえ、それは困ります。14号は狼群の核心ではございません。我々の協議に参加する権限は、あなたにはないのです」
「何だと? 貴様、俺を舐めるな!」
なおも執拗に食い下がろうとする14号の動きを、7号の鋭い眼光が完全に縫い留めた。
彼が口を開いた瞬間、その場の温度が凍りついたかのように錯覚するほどの冷徹な言葉が放たれる。
「下がれ。……二度と同じことを言わせないで」
「……うっ」
7号の冷徹な眼光を前に、14号の身体は本能的な恐怖で硬直した。
彼はそれ以上の抗弁を諦め、耳を低く伏せると、悄然とその場から立ち去っていった。
離れて歩いていた途中、大きな木陰に身を潜める小柄な狼の姿が目に留まった。何かを盗み見しているようだ。
18号の姿を認めた瞬間、先ほどまでの沈んだ気分は一気に晴れ渡り、堂々とした足取りでその傍らへと歩み寄った。
そして、彼女の視線の先を追うと、そこでは20号と11号が静かに言葉を交わしていた。
「おい、コソコソと何をしている? 他人の詮索など、褒められたことではないぞ」
「14号! しーっ、静かに!」
18号は声のトーンを極限まで落とし、顎を少し動かして「こっちに来い」と合図を送った。
14号もわけがわからぬまま、彼女の隣で覗き見を始めるのだった。
「なっ……!? 貴様、この俺を巻き込んで不届きな真似をしようとは……いや、そうじゃない! それよりも今の軽い口調は一体何だ!? 『キャラ設定』が完全に崩壊してんだろ!!」
「いいから黙れ、このドあほう!」
*
「クンクン……」
ふいに空中の匂いを嗅ぎ、鼻先をぴくつかせた20号は、訝しげに小さく声を漏らした。
「この匂い、14号と18号じゃないか? 彼らは、何をしているんだろう」
20号の独り言に対して11号は何も答えず、ただひどく落ち込んだ様子で地面を見つめていた。
「まあ、どうせ俺たちには理解できないコミュニケーションでも取っているんだろうね」
20号はそう言うと、視線を11号と同じ地面へと落とした。
「……あのね、11号」
20号は申し訳なさそうに表情を曇らせた。
その声は、11号に対する激しい罪悪感と謝罪の念で、今にも震え出しそうなほどだった。
「今日の昼間、俺とヒルネを庇ってくれて、本当にありがとう。だが、一つだけどうしても解らないことがあるんだ。あの日、確かお前は言っていたはず。もし狼王に問い詰められたら、ヒルネが妊娠しているという事実はすべて明かす、と。……それなのに、なぜまた俺たちを庇う道を選んだんだ?」
11号は20号を鋭く睨みつけるように、ガバッと顔を上げた。
次の瞬間、これまで心の奥底に力ずくで押さえつけていた激情が、言葉となって一気に爆発した。
「ああ、言ってた! 確かに俺はそう言ってた! ……だが、言えないんだ、言えなかったんだよ! 馬鹿野郎っ!!」
狼王によるあの凄まじい高圧的な審問の下で、11号がどれほどの重圧を背負い、耐え忍んでいたのか──20号はその絶望的な恐怖を、今、身に沁みて理解した。
あの恐怖の前では、誰であろうと耐えられるはずがないのだ。
「すまない、全部俺のせいだ……」
20号はそれ以上、11号の顔を真っ直ぐ見ることができず、ただ無言のまま、激しい後悔の念に身を焦がすことしかできなかった。
だが、あの時なぜ真実を伏せる決断を下したのか、他ならぬ11号自身が誰よりも理解していた。
首領たる狼王に反旗を翻す野心などない。ただ、狼王の圧倒的な威圧感を前にしたあの瞬間、魂が「これは間違っている」と狂おしいほどに警告を発していたのだ。
仲間を売るという裏切り。その重圧に耐えられるほど、心は冷酷になりきれなかった。ヒルネの妊娠を告げることそのものが、明確な「悪」であるかのように思えてしまい、どうあっても言葉を紡ぐことができなかったのだ。
*
20号が11号に背を向け、遠くで待つヒルネの元へと歩み去っていく姿を、18号は暗闇から静かに見つめていた。
そして、その背中を追うように動き出すと、隣にいる14号へ目くばせをし、低く鋭い声で促した。
「ほら、付いてきな!」
だが、18号の合図に対して、14号は完全に生気の消えた冷ややかな眼差しを向けていた。
どういうわけか、気づけば当事者ではなく単なる「野次馬」に成り下がってしまった己の境遇に、ただただ呆れ果てた様子で、無言で彼女の後を付いていくしかなかった。
*
「ヒルネ、待たせた」
「11号の様子は……いかがでしたか?」
ヒルネが心配そうに問いかけると、20号は視線を地面へと落とした。
その瞳の奥には、友を過酷な運命に巻き込んでしまったことへの、痛々しいほどの翳り(カゲリ)が色濃く落とされていた。
「……しばらくは、そっとしておいてやろう」
「それじゃ、私たちの、これからについては……」
ヒルネは言いかけて、言葉を濁した。20号のこれからの行く末を知りたいと思いながらも、それが彼の肩にさらなる重圧を乗せてしまうのではないかと、胸を痛めていたのだ。
「俺たちの秘密は……恐らく狼王には、とっくにすべて感づかれている」
「そしたら、いっそ群れから離れましょう!」
「だめだ。もうすぐ冬が来る。将来、子供が生まれた後……俺一人の力では、ヒルネの授乳に必要なだけの肉を、十分に狩り続ける自信がない……」
「そう……なのですか……」
ヒルネの瞳から、すっと光が消え失せた。それが自分と我が子の命を想っての、現実を見据えたが故の判断だと分かってはいても。
どうしてか、20号に対して言葉にできない失望の念が、彼女の胸の内に静かに広がっていくのだった。
「心配しないで。明日、俺が狼王のところへ行って、すべてにケリをつけてくるよ。最悪の結末を迎えたとしても……せいぜい群れから追放されるだけさ」
20号は彼女を少しでも安心させようと、必死にその言葉を絞り出した。
「……うん」
しかし、ヒルネから返ってきたのは生気の薄い生返事だけで、彼女はただ、小さく頷くことしかできなかった。
*
二頭の話をすべて聞き終えた18号は、20号の出した甘い算段にこれ以上耐えかねたように、暗闇の奥でポツリと冷たく呟いた。
「バカみたい」
「同感だ。愚かな奴め。そのまま群れを離れればいいものを」
14号がいつもの高慢な口調で言葉を重ねると、18号はパッと目を輝かせた。
彼への淡い恋心と憧れが、また一段と胸の内で大きく膨らんでいくのを、彼女は静かに感じていた。
「14号!」
「アオーン————」
その時、夜空を切り裂くようにして一際高い遠吠えが響き渡った。「集合」の合図だ。
7号たち核心による協議の結果、今宵はただ、領地の見回りのみが命じられた。
二頭一組となってそれぞれの担当区域を巡回し、出くわした獲物を狩る。
こうして、狼たちの群れの静かな巡回とともに、夜は穏やかに更けていくのだった。




