第十話 ヒグマの視点+泥棒のイースター・エッグ
陽光が眩いほどに降り注ぐ、知床に朝が訪れた。大地は一面、純白の雪に覆われている。
針葉樹林の奥で、一頭の巨大なヒグマが獲物を引き裂いていた。その強靭な顎で獲物の首肉を貪り食うと、骨ごと噛み砕く鈍い音が響き、鮮血が白雪を赤く染めていく。
饗宴の最中、新たな首領となったキリが二頭の狼を率いて現れ、雪煙を上げて熊の目の前で動きを止めた。
彼は足元の雪を優雅に踏み締め、フッとその血塗れの巨獣へ不敵に口元を歪めた。
「おや、ちゃんと食べてますね」
ゆっくりと歩みを進めるキリに呼応し、他の狼たちもわざと足音を響かせながら包囲網を狭めていった。
元16号の虫は、ヒグマの背後を一瞥し、どこか諦めたようにため息混じりで呟いた。
「え……本当にそうするの?」
「もちろん。さあ、吠えろ」
キリの軽快ながらも不遜な促しに、ムシは腹の底から声を絞り出した。
「グルゥゥゥオオオウウ――ッ!」
突如として響いた咆哮に苛立ったヒグマは、騒音源であるムシへと狙いを定め、猛然と突進を仕掛ける。しかし、その進路を遮るようにキリが瞬時に滑り込み、ムシへの攻勢を力ずくで阻止した。
「おっと、そっちじゃないですよ」
標的を切り替えたヒグマが、激昂のまま巨大な熊掌を振り下ろす。だが、圧倒的な機動力を誇るキリはその一撃を紙一重でかわし、彼の背後に隠れていたムシもまた、疾うにその場から離脱していた。
「ウォォォォォンッ!」
すかさず、今度は元23号の白狼が咆哮を引き継ぎ、さらなる怒号で巨獣の注意を釘付けにする。
だが、ヒグマはハクロウへと突進しなかった。ここでこれ以上の深追いをすれば、先ほどの不毛な無限ループを繰り返すだけだと、歴戦の野生が瞬時に見抜いたのだ。
「狼王様、もういいでしょう?」
苛立った白狼が、ぶっきらぼうに言い放つ。
キリはヒグマの怒りを煽りながらも、決して間合いを詰めさせず、常に絶妙な距離を保ち続ける。
「まだですよ。もう少し、熊さんと遊んであげましょう」
「……」
「あーあ、15号がいれば楽だったのに」
ムシが、肩で息をしながらため息を漏らす。雪原をただ駆け回るだけでも、彼の体力はすでに限界に達しつつあった。
「牙? あいつは無理ですよ。この作戦は熊さんと組み合うわけではありません。……獲物を盗む作戦です」
「ガルゥゥゥォォォーーー――!」
執拗な挑発に、ついに理性を焼き切られたヒグマが、地鳴りのような咆哮を上げた。
「よし、みんな聞け。一人ずつ順番に撤退しろ、私が殿を務める」
目の前の狼たちが次々と撤退していくのを見届け、ヒグマは再び獲物を貪ろうと振り返った。だが、足元に視線を落とした瞬間、愕然とする。――そこにあるはずの「獲物」は、無惨に転がる頭部だけを残し、胴体が綺麗さっぱり消え失せていた。
理性を失ったヒグマは、最後に撤退したキリを仕留めんと猛然と襲いかかる。
「来た、来た!」
背後から迫る巨獣の殺気を察知しながらも、キリは巧みにヒグマを山の麓にある電撃柵の前へと誘い込んでいく。それは知床国立公園の針葉樹林に、人間たちが設置した巨大な建造物だった。
キリが電撃柵の直前で滑り込むように足を止め、優雅に身を翻した。追ってきた巨獣も、その異常なまでの余裕に本能的な危うさを察し、猛然と雪を蹴立てて急ブレーキをかける。
ヒグマは目の前の狼を睨みつけた。側面に回り込もうとするが、立ちはだかる電撃柵がその巨躯を阻む。狼の圧倒的な機動力を前に、これ以上の深追いは泥沼を意味していた。
「どうですか? 熊さん、かかってきてくださいよ」
キリの挑発に、ヒグマは苛立たしげに鼻からフンと荒い息を吹き出した。この森の頂点に君臨する者としてのプライドを辛うじて残し、そのまま背を向けて元いた場所へと引き返していく。
そこに戻ったヒグマは、雪の上に残された鹿の頭部と、獲物を引きずった跡をじっと見つめた。地面に鼻を押し当て、失われた「獲物」の匂いを辿り始める。
ヒグマは荒い鼻息を鳴らしながら、林を抜け、岩場を潜り、匂いを追った。
進むにつれ、獲物の匂いは色濃くなっていく。しかし、川べりにたどり着いた時、そこに残されていたのは一本の脚肉だけだった。これこそが、元8号である雄狼、小雨の傑作だった。
氷のように冷たい川の流れを前に、ヒグマは忌々しげに唸る。狼たちが「水路」を選んだ以上、追跡の術は途絶えた。ヒグマは酷く不機嫌そうに、残されたそれを、貪るように喰らうしかなかった。
*
昼。
結局、獲物を奪われ激しい飢えに駆られたヒグマは、森を彷徨い歩いていた。
偶然にも、冷たい大気を震わせて、一頭の狼が放つ異様なほどに強烈な匂いが漂ってくる。
ヒグマはその香りに引かれるように歩みを進め、やがて一つの岩穴の前にたどり着く。そこで目にしたのは、妊娠した一頭の雌狼の姿だった。
歴戦のヒグマは、それが最も脆弱な状態であることを本能で知っていた。それこそが、冬眠を迎える肉体に必要な、格好の糧なのだと。
ヒグマは身を隠すことすらせず、凶牙を剥き出しにしながら、堂々と岩穴へと足を踏み入れる。
しかし、ヒグマが巨躯を起こして立ち上がり、豪腕を振り下ろそうとした刹那。暗がりに潜んでいた雄狼が、不意に巨獣へと飛びかかった。
巨躯を起こしたが故に重心を崩した巨獣は、そのまま横倒しに雪原へともつれ込む。首筋に牙が深く突き刺さる痛みに、ヒグマはたまらず激しく身悶えした。その隙に雄狼は素早く巨体から離れ、間合いを取る。
「大丈夫なのか? ヒルネ」
「はい」
地面からのっそりと起き上がったヒグマは、改めて戦況を見定める。銀毛の雄狼が一頭、そして妊娠した雌狼。この程度なら、まだ力でねじ伏せられる。だがその刹那、背後から突き刺さるような別の殺気が走った。ヒグマが後方を睨み据えた先、第三の雄狼が姿を現した。
「11号、気をつけて」
「ああ、わかってる」
ヒグマを挟み込むように、前後に陣取った二頭の雄狼は、全身の毛を逆立てた。
頂点捕食者は妥協など求めない。しかし、雄狼二頭による命懸けの警告に、この狩りは割に合わないと判断した巨熊は、すぐさま反転して雪原の奥へと走り出した。
ヒグマの退路を塞いでいた11号は、即座に脇へと身をかわし、去り行くヒグマの背中を鋭い眼差しで見送る。
脅威が去ると、銀狼は11号のそばへと歩み寄った。
「ありがとうな、11号」
「それが私の務めです、狼王様」
11号のどこか他人行儀な態度に、銀狼はあからさまに嫌そうな顔をした。
「やめてくれよ、そんな呼び方は」
「いや、お前は長だろ?」
「そうだな。ならば、前にいた群れから続くように、今のお前の立ち位置はあのゼロと同じだ。……どう思う?」
「ゼロ……? この俺が、か?」
11号は驚愕に目を見開いた。かつての群れにおいて、「ゼロ」という名は、絶対的な狼王と唯一対等に並び立つことを許された、あの巨大な黒狼だけのものだったからだ。
自身もまた狼王の一角たるヒルネは、その光景を微笑ましく見守り、二頭の新たな絆を歓迎した。
「ふふ、良かったですね、11号さん」
*
昼下がり。
飢えに喘ぐヒグマは川沿いを下っていった。
道中、数匹のネズミやアメマスを捕らえて喰らったものの、そんなものでは到底足りるはずもない。
「お……」
ふと、目の前に広がる電撃柵の存在に気づく。それは朝、狼を追っていた時に到達した場所だった。熊は前へと歩み寄り、念入りにその匂いを嗅ぐと、慎重に肩の肉瘤を突き出し、試すように電線へと触れさせた。
(痛くない……)
それが、ヒグマの出した結論だった。
電撃柵をじっと見つめ、周囲を品定めするように徘徊する。
そして次の瞬間、現地の「人間」たちを絶望のどん底へと突き落とす、ある決断を下した。
*
イースター・エッグ。
針葉樹林の奥で、一頭の巨大なヒグマが獲物を引き裂いていた。その強靭な顎で獲物の首肉を貪り食うと、骨ごと噛み砕く鈍い音が木霊し、鮮血が白雪を赤く染めていく。
饗宴の最中、新たな首領となったキリが二頭の狼を率いて現れ、雪煙を上げて熊の目の前で動きを止めた。
「おや、ちゃんと食べてますね」
ゆっくりと歩みを進めるキリに呼応し、他の狼たちもわざと足音を響かせながら包囲網を狭めていった。
その隙を突いて、コサメは、仲間の足音に自身の足音を完璧に同調させ、気配を殺しながらヒグマの背後から一歩、また一歩と間合いを詰めていく。
ヒグマとの距離は、もう目と鼻の先。コサメはわずかな目配せで、前方の仲間に合図を送った。
その視線を受け止めたムシは、どこか諦めたようにため息混じりで呟いた。
「え……本当にそうするの?」
「もちろん。さあ、吠えろ」
「グルゥゥゥオオオウウ――ッ!」
仲間の放った大音響の掩護に紛れ、コサメは素早く雪原の深層へと牙爪を穿ち、底の見えないほどの縦穴を一瞬にして作り出した。
「おっと、そっちじゃないですよ」
目の前のヒグマは、騒音を撒き散らす仲間たちへの攻撃に完全に血が上り、すでに自らの獲物から大きく離れている。
「ウォォォォォンッ!」
コサメは一切の労を費やすことなく、無防備に放置された獲物の元へと滑り込んだ。そして、それを掘った雪穴の口へと引きずり戻す。
ヒグマが噛み砕いた裂傷へ正確に牙を突き立て、抉るようにして頭部を引きちぎる。
その後、コサメは剥ぎ取った胴体を雪穴へと蹴り込み、跡形もないよう完全に雪を被せた。
切り離したシカの頭部だけをぽつんと雪地に残すと、気配を殺したまま静かに物陰へと身を潜めた。
コサメの姿が完全に死角へと消えたのを見届け、苛立ちを募らせた白狼がぶっきらぼうに言い放つ。
「狼王様、もういいでしょう?」
「まだですよ。もう少し、熊さんと遊んであげましょう」
遠くに身を潜めたコサメは、すぐさま雪の上で転がり、獲物に関する匂いを消し去った。それから、ヒグマと仲間たちの動向を見守っていた。
「ガルゥゥゥォォォーーー――!!」
ヒグマの怒りの咆哮とともに、キリもすぐさま命令を下した。
「よし、みんな聞け。一人ずつ順番に撤退しろ、私が殿を務める」
目の前の狼たちが次々と撤退していくのを見届け、ヒグマは獲物を貪ろうと振り返った。だが、そこに残されていたのは鹿の頭部だけであり、胴体は綺麗さっぱり消え失せていた。
もしこのヒグマがもう少し慎重であれば、積雪の下にある「仕掛け」に気づくのも難しくはなかっただろう。
残念なことに、あの巨獣は己の「視覚」を過信した。雪原に残された鹿の頭部から漂う、まだ消えぬ残り香こそが、獲物のすべてだと信じ込んだのだ。
埋めた場所へと戻ったコサメは、すぐさま雪穴から獲物を掘り起こすと、それを力任せに雪原の上へと引っ張り出し、ずるずると運び始めた。
まもなくして、コサメは獲物を川辺まで引きずり寄せると、それを真横に横たえ、その下の雪を掘り始めた。
そうしてできた窪みに潜り込み、背中全体で肉塊を担ぎ上げようと試みる。
しかし、どうやってもバランスが取れず、水平に保つことができなかった。
「お待たせ」
ちょうどその時、ムシと白狼の二頭が川辺へと滑り込み、コサメとの合流を果たした 。
「君たち、手伝ってくれる」
しかし、三頭で挑むものの、片脚のせいでどうしても重心が偏ってしまい、何度やってもコサメのお尻から滑り落ちてしまう。
ムシと白狼の二頭が左右から口で咥えて支えてみても、結局は同じだった。
この状況に、ムシは困惑した表情で言った。
「どうしよう」
すると、白狼がぽつりと提案した。
「この脚、噛み千切るか? どうだ?」
コサメはハッとしたように目を丸くして、生真面目に応じた。
「それはとてもいい考えだよね。そうしよう」
そう言うと、コサメは驚異的な噛む力で獲物の片脚を豪快に引きちぎり、それをあえて引きずり痕の線上へと残した。
やむを得ない状況から生じた不本意な結果ではあったが、これによって、その片脚に「役割」を与えることに成功したのだ。
引きずり痕を辿ってきたヒグマをそのまま川辺へと誘導し、自分たちが「水路」を使って逃げたのだと思い込ませるための、見事な罠となった。
三頭の狼は、極めて反生物学的な執念により、引きずるのではなく「搬送」という担ぎ上げる方式で、残された獲物を領地へと運び去った。
これならば、雪の上に獲物の匂いや痕跡を一切残さずに済むのだった。




