第十一話 誤射
夜。
森の西側で、新たな首領となったキリが群れを召集した。自身の番を、仲間たちへ紹介するためだ。
「ヤッホー! キリの番のトリでーす! 趣味は空を飛んでる小鳥を見つめて、後ろから追いかけること! そのまま一緒に楽しい一日を過ごすの、超大好きなんだよねー! みんな、まじでよろしくっしょ! イェ――イ!」
月明かりを浴びながら、ひときわ高い岩の頂へと飛び乗ったトリは、興奮気味に眼下の群れへそう自己紹介をした。
見上げるほどの高所から響くその底抜けに明るい声に、下で車座になっていた仲間たちは一瞬呆然とする。そんな中、ムシは隣の仲間にだけ聞こえるような小声で、ボソリとツッコミを入れた。
「いやいや、楽しくなるわけないだろ。あの小鳥、マジで死ぬほど怯えてるはずだし。狼に追いかけ回されてんだからさ……」
「あ――さすが私の愛する狼です。なんと素晴らしい自己紹介でした。私と彼女は、ある肌寒い午後に出会いました。彼女はまるで私の太陽のようで、その眩い光が私を照らしてくれたのです。あのとき、私は確信しました。これぞ――愛――なのだ!」
「いやだも――超ウケる!」
「なんだそりゃ? 俺たちを集めた目的は、そんなバカげたイチャイチャを見せつけるためかよ……」
ムシが独り言のようなツッコミを続けていたその瞬間、隣に身を寄せていたキバが、低く唸るような声で叱責した。
「おい、さっきからぐちゃぐちゃと……うるさいぞ」
「だって、いくら何でも早すぎるだろ! 首領になってまだ数日しか経ってないのに、もう『番』を作りやがって」
キバはそんなムシの愚痴などどこ吹く風で、鼻で笑いながら揶揄するように言った。
「フン、ちょうどいいじゃんか。あの偽善者野郎には、軽薄女がお似合いよ」
「チッ……」
それと同時に、キバは隣にいる白狼もまた、新たな狼王に対して不快感を露わにしていることに気づいた。
もともと、この群れには厳格な秩序があった。オチバが統治していた頃は、下の者たちから不満の声が上がっていたものの、確かな規律が存在していたのだ。しかし、キリが首領になってからの数日は、見るに耐えない放縦な空気が群れを包んでいた。
「ほう、なんか面白そう」
白狼の秘めたる不満と嫌悪を敏感に察知したキバは、不敵に牙を剥き出し、面白がるようにそう呟いた。
そして、この状況はオチバの目にも、呆れ果てるものだった。近くに佇む彼は、キリの素のままの振る舞いを見つめながら、思わず感嘆混じりにボソリと呟いた。
「なんか俺は……とんだ変な子どもたちばかり育てちまったな」
その言葉を聞いた巨狼ゼロは、かつてないほど真剣な眼差しをオチバへと向け、静かに言葉を紡いだ。
「汝の役目は、あの子を支え、彼らの後代を育てることだ」
ゼロの揺るぎなき誓いを聞き、オチバはふっと目を細めて息を吐き出した。
「ああ、そういうのは分かっているんだ……ただ、ちょっと」
「ちょっと……?」
ゼロが怪訝そうに問いかける。
「何でもない……それより、少し付き合ってくれないか。麓まで、散歩に行きたくてな」
オチバとゼロは、人間の気配が最も強く漂う場所へと足を進めた。ここはかつて、オチバの領地だった場所だ。
しかし、あの惨烈な反乱の後、命を落とした最愛の番をこの地に安らかに眠らせ、領地を麓から山腹へと移したのだった。
オチバは今でも、あの日、最愛の番を護りきれなかった我が身の無力さを、激しい悔恨とともに胸に抱き続けていた。
「汝は、まだ未練があるのか?」
静寂を破るように問いかけたゼロの声に、オチバはかつての我が家だった雪原を見つめながら、力なくフッと鼻から息を漏らした。
「ああ、ちょっと……」
その時、オチバの耳が慌ただしい足音を捉えた。ハッと警戒し、反射的に口を開く。
「ゼロ、何かが近づく」
その言葉が響き渡ると同時に、二頭の目の前を、血まみれになった一頭のヒグマが狂ったように駆け抜けていった。
『逃げるな!』
状況を未だ把握しきれぬ間に、人間の緊迫した叫び声が響き渡る。
オチバが視線の端で捉えたのは、猟銃を構え、ゼロの胴体へと銃口を真っ直ぐに向ける人間の姿だった。
「危ない――ッ!」
オチバは考えるより先に、ただ反射的にゼロの身体を突き飛ばした。直後、轟音とともに銃声が夜の静寂を切り裂く。
激しい衝撃とともに、弾丸は真っ直ぐオチバへと命中した。
目の前で身を挺した仲間の姿に、ゼロはすぐさま地面から起き上がると、人間たちに向けて鋭い牙を剥き出しにした。
『今度こそ仕留めてやる……!』
山田という猟師が再びゼロへ銃口を向け、引き金に指をかけたその瞬間、隣にいた相模が血相を変えてそれを制止した。
『待て! あれは熊じゃない、狼だ!』
雪原に倒れ伏したオチバは、ゼロが向かっていく姿を見るや否や、声を大にして叫んだ。
「逃げろ!」
「しかし――」
「人間の狙いは狼じゃない、あの熊だ。頼む、逃げろ……!」
残された最後の力を振り絞り、ゼロへ逃げるよう促した。
巨大な黒狼は一瞬の躊躇を見せたものの、やがて反転すると、雪原の闇へと疾風のごとく走り去っていった。
『行ったか……』
相模は、去り行く巨狼の背中を、ただ静かに見送った。
そして、銃撃された狼の元へと駆け寄り、その場にしゃがみ込んで容体を確認した。
厚い冬毛をかき分け、傷口を素早く手探りする。
幸いにも、弾丸は肩口をかすめ飛んだだけであり、決して致命傷には至っていない。
『どうした? 大丈夫か? 』
その時、激しい銃声を嗅ぎつけた他の猟師たちも、次々と現場へと駆けつけてくるのだった。
その陰で山田は、積雪が鮮血で赤く染まっていくのを見つめ、この狼を苦しみから解放してやろうと再び銃を構えた。
『悪いな、狼さん。すぐに楽にしてやる』
『撃つな、まだ助かる! お前たち、車から担架と黒布を持ってこい!』
相模が容赦のない口調で命じた。
しかし、後から遅れて駆けつけてきた別の猟師たちが、不満げに口を尖らせて愚痴をこぼす。
『えーー、なんでそんなことを……』
『馬鹿野郎!!』
相模は怒髪天を突く勢いで怒鳴り散らし、猟師たちを真っ向から睨みつけた。
『こいつはエゾオオカミだぞ!! 死んだら誰が責任を取るんだ!!』
絶滅の危機に瀕するその名を鋭く突きつけることで、この狼が絶対に失ってはならない貴重な存在であることを分からせたのだった。
相模の命令に従い、猟師たちは総出で負傷した狼を車へと運び込んでいく。
『くっそ……』
相模は焦燥に駆られながらスマートフォンを引っ掴み、画面を素早く操作した。液晶には「野生動物リハビリテーター」の文字が浮かび上がっている。
【プルルル、プルルル……】
『あ、もしもし……!』
電話が繋がった瞬間、スピーカーの向こうからクリアな電子音声が響いた。
【はい、もしもし、佐藤です】




