第十二話 佐藤先生
『オット・ファイターズ・危険な絆』
小さな部屋に清らかな電子音が響いた。それは佐藤がSteamで購入したゲームの起動音だった。普段、暇な時間があると、彼はいつもこうして時間を潰すのが好きだった。
ゲームのインターフェース画面に入ると、すぐに相手が見つかった。佐藤は興奮気味に、ポツリと呟いた。
「よし、勝負だ」
『プルルル、プルルル……』
あいにくこのタイミングで、部屋の固定電話が鳴り響いた。佐藤は受話器をひょいと肩と耳の間に挟み、そのまま電話に応対しながらゲームを続けた。
「はい、もしもし、佐藤です」
『佐藤先生、こっちは大変です。エゾオオカミは、エゾオオカミは……』
電話の向こうから慌てた声が聞こえてくる。佐藤はアケコンのレバーを弾きながら、受話器に向かって言った。
「落ち着け、ゆっくり話して」
『実はね、政府の委託を受けて人を襲ったヒグマを追跡していたんですが、その途中で誤ってエゾオオカミを撃ってしまったんです。今、そちらへ搬送しています』
『先烈拳』
ゲームの電子音が入り混じる中、佐藤は少し苛立った様子で言った。
「勘弁してよ、相模さん。また死にかけの動物を押し付ける気じゃないでしょうね? しかもエゾオオカミだって?」
佐藤の言葉には含みがあった。相模が誤殺の責任から逃れるために、ここで動物の死亡宣告をさせようとしているのではないか、と暗に疑っていたのだ。
『滅多なことを言わないでください。俺はこれまで、そんな理由で動物を死なせたことなんて一度もありませんよ』
電話の向こうで、相模は心外だとばかりに声を荒らげた。その間も、佐藤の画面上では激しい攻防が続いていた。
相手の容赦ないコンボをガードしつつ、レバーを素早く入力しながら、佐藤は鼻で笑って言い返した。
「私が腕のいい獣医だからこそ、あんたが死にかけにした動物を救ってこられたんでしょうが」
『冗談をやめてください。佐藤先生』
受話器を肩に挟んだまま、佐藤は神業のようなスピードでアケコンのボタンを叩く。画面内のキャラクターが鮮やかな反撃を決めるのと同時に、小さくため息を漏らした。
「それで、怪我は?」
佐藤が画面を見据えたまま、冷静なトーンで本題を切り出した。
その手元では、キャラクターが必殺技のコマンド入力に成功し、画面がド派手なエフェクトで染まっている。
「肩口を弾がかすめています」
「サイズは?」
「尾も含めた体長は、だいたい1.5メートルちょっとといったところです。普通の成体のオオカミですね」
「あとどれくらいで着く?」
ゲームの戦況はいよいよ最終局面に突入していた。相手の猛攻を紙一重でかわしながら、アケコンのレバーを激しく弾き、佐藤は短く問いかけた。
「20分ほどです」
「分かった。すぐ用意する」
一言そう告げると同時に、佐藤の指先が電光石火の速さでアケコンのボタンを叩き、最後のコンボを完成させた。
『貸してくれ、ハリー! オット・ファイター!!』
『K.O.』
画面に勝利の文字が鮮やかに浮かび上がると同時に、佐藤は受話器をフックに戻し、アケコンから手を離した。
「……20分か」
その時、使役犬であるハスキーが足元に駆け寄ってきて、甘えるように体を擦りつけてきた。佐藤は愛犬の頭を優しく撫でながら、一言こう告げた。
「仕事だ、トーマス」
*
静まり返った森の中、領地へと駆け戻ったゼロは、キリに状況を告げた。
「キリ、大変だ……」
「おや、どうかしましたか?」
トリと甘い二人きりの時間を過ごしていたキリは、息を切らしているゼロの姿を見て、歩み寄り声をかけた。
だが、ゼロの表情は、かつてないほど強張っていた。
その瞳には、焦燥と深い悲しみが入り混じっている。
「……オチバが、人間に撃たれた」
突如として突きつけられた凶報に、キリはどう言葉を返すべきか分からず、ゆっくりとトリの方を振り返った。
「ごめんね、ちょっと席を外します」
「いってらっしゃい」
他の狼の気配が完全に消えたあたりまで来ると、キリはそれまでの穏やかな表情を完全に消し去った。その表情は、底冷えするほどに厳しく、研ぎ澄まされている。
「どういうことですか? 詳しく話してください」
ゼロは誤魔化すことなく、すべてをありのままに語った。
「人間どもは、一頭の熊を追ってこの森に入ってきた。だがその最中、我を熊と見間違え、奇妙な筒を向けてきた。……それに気づいたオチバは、我を救うために身を挺して飛び込んできた。そのせいで、傷を負ったんだ」
ゼロは一度、悔しげに言葉を詰まらせる。しかし、すぐに重苦しく言葉を続けた。
「だが、人間たちは殺さなかった。鉄の獣に乗せ、どこかへ連れ去っていった」
ゼロの告白を最後まで静かに聞き終えたキリは、取り乱すことも、悲嘆に暮れることもなかった。
ただ、その瞳の奥に宿る新王の光をいっそう冷徹に研ぎ澄ませ、迷いのない口調で告げた。
「あの場所を案内してください」
現場に駆けつけると、キリは地面に鼻を近づけ、必死に空気中の臭いを嗅ぎ分けた。
無数に入り混じる人間や野生動物の臭いの中から、オチバを連れ去った「鉄の獣」の異質な臭いだけを完全にロックオンする。
そして二頭は、山の麓にある電撃柵の前で足を止めた。
キリは電撃柵の向こうに広がる、果てのない建造物の群れを見つめた。
あそこは「人間の領域」だ。王の座を継承してから、これが初めての、激しい無力感に襲われる瞬間だった。
「無理だ。相手が人間なら、私たちにはどうすることもできません……」
「汝は救わないのか」
キリは静かに目を閉じ、群れの生存を思考の天秤にかけた。
オチバを救い出すために領地を捨て、すべての狼を率いて人間の居所を襲撃する――その行く末を思考したとき、どう考えても行き着く先は、群れの破滅という名の道でしかなかった。
「ごめんね、ゼロ。救わないんじゃありません……救えないのですよ」
キリの苦渋に満ちた敬語を、ゼロは静かに受け止めた。
新王の覚悟を、そして群れを背負う理智を理解したからこそ、その瞳に宿る覚悟は、一点の曇りもなく冷徹に研ぎ澄まされる。
ゼロは電撃柵の向こう、人間の領域を見据えたまま、清らかで響き渡る声で告げた。
「そうか……ならば、オチバの役目、我がやる」
二頭は電撃柵の前に並び立ち、天を仰いで、夜空の彼方へと声を張り上げた。
「アオォォォォォォーーーーンッ!!」
それは言葉なき意志を伝えるための、しかし彼らにできる唯一の祈りだった。
しんしんと降り積もる初雪を震わせ、その響き渡る咆喚が、どこか遠くへ連れ去られたオチバの耳へと届くことを、二頭はただ一心に願っていた。




