第十三話 どうしてもしなければならない
山の麓にひっそりと佇むその建物は、政府の委託を受けて運営されている「野生動物保護センター」だった。
名目的には人間による事故などで傷ついた野生生物を広く救護する機関とされているが、実態は違った。限られた資源や人員の中で、彼らが注力するのは何よりも、絶滅の危機に瀕している「絶滅危惧種」に他ならなかった
今、その白い手術室の中で、獣医師の佐藤は銃傷を負った一頭のエゾオオカミの命を救うべく、無影灯の下でメスを握っていた。
レントゲン検査や麻酔の投与、傷口の洗浄から縫合、包帯による処置に至るまで。佐藤にとっては、弾丸が体内に残ってさえいなければ、どれも非常に手慣れた作業の連続に過ぎなかった。さっきまでアケコンを叩いていた指先は、今や迷いなく、電光石火の速さで手術を終わらせていく。
一方、傍らに控える使役犬のトーマスは、手術台の上で麻酔に眠るエゾオオカミを鋭い視線で見つめ、いつでも低く唸り声を上げられるよう身構えていた。これは、万が一にも麻酔の効きが弱まり、野生の巨獣が突然暴走して佐藤に襲いかかるのを防ぐための、プロの仕事犬としての本能的な警戒だった。
だが、その眠れる老狼の姿に、トーマスはどこか言いようのない「哀愁と、歳月の重み」を感じ取っていた。
思わず首をかしげ、心の中で静かにつぶやいた。
(その顔、一体どんな生涯を歩んできたんだ)
「手術終了、23時46分」
手術室の時計を見上げ、佐藤はそう告げた。ホッと安堵のため息を漏らしながら、執刀用手袋を外す。
無影灯の白い光に照らされたエゾオオカミの傷口は、まるで神業のような手際できれいに処置され、すでに包帯が巻かれていた。
傍らに控える使役犬の頭を優しく撫で、静かに声をかける。
「お疲れ様」
そして、手術室の外に向かって声を張り上げた。
「相模さん、ちょっと手伝ってくれ」
二人は力を合わせ、台の上のエゾオオカミを油圧サスペンション付きの大型ケージへと移した。ICUへと押し進めていく道すがら、相模が心配そうに尋ねた。
「このエゾオオカミ、大丈夫ですか?」
「心配いらない、オペは完璧だ……それにしても、こいつもずいぶん年寄りでしょう? そのまま撃ってやればよかったのに。まったく、相模さんは猟師じゃないか」
「そういうタイプの猟師じゃないんで。佐藤先生こそ、本当に獣医師ですか?」
ケージをICUに納め終えると、佐藤はサインが必要な書類を相模に差し出しながら言った。
「ここにサインを。怪我の回復が順調なら、また連絡する」
相模は呆れたようにため息をつきながら、佐藤からボールペンを受け取って書類にサインをし始めた。
「俺が拾ってきたペットみたいに言わないでくださいよ……それに、野生復帰は俺と先生だけの問題じゃありません。役場の職員を立ち会わせて、エビデンスとしての写真を撮影する必要がありますからね」
「そうだね。そりゃ一番面倒くさいな。まあ、とりあえず、その時は頼むよ」
いかにもお役所仕事が嫌いそうな口調で、佐藤は少し肩をすくめた。
相模は苦笑いしながら書類の最後の欄に自分の名前を書き終え、ボールペンを佐藤に返した。
「じゃあ、俺はこれで失礼します。あの狼のこと、よろしくお願いしますね」
「ああ、お疲れさん。気をつけて帰れよ」
相模が施設の自動ドアから出ていくと、深夜の冷たい夜風が一瞬だけロビーに入り込み、そして静かに閉まった。建物内は再び、あの静寂へと包まれていく。
その後、佐藤はエゾオオカミの様子を確認するため、「野生動物のICU」にあたる室内隔離ケージのモニター室へと向かった。
デスクの前に腰を下ろして手慣れた手つきでカメラをグッとズームさせると、隣にいたトーマスも突然二本足で立ち上がり、前足を天板について一緒に画面を覗き込んできた。
「どうした? あんたも気になるのか?」
佐藤はそう言うと、トーマスをそのまま自分の腕の中へと抱き寄せた。なかなかの巨体ではあるが、彼にとって、この毛むくじゃらの大きな塊をぎゅっと抱きしめることこそが、何よりも至福のひとときだった。
画面が映し出す映像の中では、エゾオオカミが舌をだらりと外に覗かせ、完全に意識を失った状態で横たわっていた。その痛々しい姿を見たトーマスは、たまらず切なげに「クゥーン……」と声を漏らし、自分の主人を不安そうに見上げた。
愛犬の反応を見た佐藤は、ゆっくりと腰を上げた。そして、その大きな体を優しく叩きながら、こう言った。
「まあ、今日はとりあえずここまでだな。トーマス、寝るぞ」
*
すべてが白く、境界さえも曖昧な朧げな空間。
そこに、全身の毛並みが純白に輝く、一頭の美しい雌狼が佇んでいた。彼女はその優しい瞳で、じっとこちらを見つめている。
「お前なのか……」
愛しい番の名をそっと呼ぶ。しかし、返ってくる言葉はなかった。
「そうか……俺も、そこまでか」
己の死を覚悟し、歩み寄ろうとしたその瞬間、彼女の姿は一縷の煙のように、儚く空気中へと消え去っていく。
「待て、待てよ! 俺を一人にしないでくれ――」
ハッと目を見開いた。
残像がまだ朦朧とした意識の底に澱んでいる中、オチバはゆっくりと現実へと引き戻されていく。
「夢……か」
オチバは周囲を見回した。そこは一面が鉄格子で、残りの三面をコンクリートの壁に囲まれた密閉空間だった。鉄格子の向こう側に広がる光景もまた、見たことのない場所だった。
「ここは……どこだ?」
鼻腔を満たす空気をそっと嗅いでみる。肌に触れる温度と湿度は、驚くほど快適に管理されていた。
しかし、どれほど注意深く嗅ぎ分けても、そこには自分以外の「生きたもの」の気配が一切存在しなかった。
『パシャリ』
直後、鉄格子の外にある、壁と一体化した防音扉が開いた。ツンとした不快な臭いを全身から漂わせ、不気味に分厚い、水色の防護服をまとった「生きた塊」がこちらへと歩み寄ってくる。
その水色の塊は、鉄格子の外で身をかがめると、手にした新鮮な肉の塊を回転式の給餌ボウルへと置いた。
『カチャリ』
不快な金属音とともに、給餌ボウルが反転してオチバの目の前に現れる。鋭敏な彼は即座に気づいた。あれはただの「生きた塊」などではない。――「人間」だ。
オチバは激しく毛を逆立て、喉の奥か「グルルル……」と低い唸り声を絞り出した。
しかし、その人間はオチバの剥き出しの敵意を一顧だにせず、ただ淡々と任務をこなすかのように、やるべきことを終えるとそのまま扉の向こうへと去っていった。
『パシャリ』
オチバは、そんな状況に訳も分からず、ただ閉ざされた扉を睨みつけることしかできなかった。
しばらくして、ようやく体の向きを変えると、回転式の給餌ボウルに載せられた肉の塊に目を向けた。彼はわずかに警戒を解き、鼻を近づけてその肉の匂いをそっと嗅いでみた。
「くそ……なんだ、これは」
オチバは軽く頭を振り、吐き捨てるように低く呟いた。
「誰がこんなもの、食うか」
『グゥゥ……』
しかし、彼の胃袋が告げる飢餓感は、その言葉通りにはいかなかった。
「うっ」
我慢するつもりなど毛頭なく、オチバは給餌ボウルへと歩み寄ると、大口を開けて肉をきれいに平らげた。ついでに水を数口すすると、そっけなく体毛を舐めて毛並みを整え始めた。
この薄暗く密閉された空間で、オチバは焦燥に駆られていった。檻の中を落ち着きなく往復し、やがて、遠吠えを上げ始める。
「アオォォォォォォーーーーンッ!!」
*
「嘘……」
一方、モニター室で観察していた佐藤は、ただ呆然と画面を見つめていた。慌てて音声をオンにし、状況を確認する。
『アオ、アオォォォォォォーーーーンッ!!』
食事の摂取状況、精神的な回復状態、そして自発呼吸が正常に行えているか。そのどれをとっても、たった一晩という時間の中で、すでに屋外ケージへ移動させる基準を満たしていた。
この状況で、佐藤に遺された選択肢は二つしかなかった。
一つは、食事か点滴を通じて鎮静剤や抗不安薬を投与すること。しかし、このエゾオオカミは抗生物質が混ざった肉の塊を平らげたばかりだ。警戒し焦燥しきっている今の彼が、再びエサを口にする可能性は極めて低い。かといって、点滴に切り替えて薬液が体内に浸透し、効果を発揮するのを待つのでは、あまりにも時間がかかりすぎる。
もう一つの選択肢は、このまま屋外ケージへと移動させること。だが、床一面に藁が敷き詰められたあの部屋では、傷口からの細菌感染を完全に防げる保証はどこにもなかった。
佐藤が二つのジレンマに直面し、激しい葛藤を抱いていたその時。傍らにいた使役犬のトーマスは、画面に映し出されたエゾオオカミのクローズアップから、その微表情やわずかな身振りを正確に読み取っていた。
(ゼロ……?)
だが、画面の「患者」よりも、トーマスが案じていたのは主人の状況だった。そっと手首に鼻先を擦り寄せる。その温もりある感触に、佐藤の意識が現実に引き戻された。
「トーマス……?」
愛犬の愛嬌のある姿を見つめながら、佐藤は深く息を吸い込み、一つの決断を下した。それは行政上の医療規定に違反するかもしれないが、どうしても試みなければならないことだった。
コンパニオンドッグを利用する。




