第十四話 アクリル板の会話
朝の針葉樹林は、しんと静まり返っていた。空から細雪が舞い散る中、冷冽な空気にはヒグマの残した血生臭さが漂い、白銀の雪原の上に点々とその足跡を刻み込んでいる。
町役場農林水産課の鳥獣被害対策専門員である相模一夫は、再び猟友会のメンバーを率いて、追跡を再開していた。二頭の捜索犬の鋭い嗅覚によって、相模たちは瞬く間にヒグマの居場所を突き止め、包囲網を狭めていく。
あの「誤射」事件の再発を防ぐため、猟友会のメンバーも各自猟銃を携帯していたが、遠距離からの射撃は一切禁止されていた。
「──ガルゥゥゥォォォーーー――!!」
木々の死角に身を隠していたキリとコサメは、人間の包囲行動をじっと見つめていた。
『本当に、そうするって決めたの?』
コサメが、どこか無邪気な様子で問いかける。キリはしばらく沈黙したあと、静かに答えた。
『これは私が引き起こした事件です。せめて、私の爪でケリをつけなければなりません』
相模は「四つ足」で立ち塞がるヒグマに銃口を定めながらも、決して焦って引き金を引くことはしなかった。内臓の致命的な部位を撃ち抜かない限り、いかなる銃撃も無効であることを、彼は誰よりも熟知していたからだ。
他の猟友会のメンバーは、その場から動くことなく相模に呼応し、半円形の包囲陣形を維持していた。
しかし、経験豊富な彼らは痛感していた。「遠距離射撃禁止」のルールの下では、手元の猟銃など形骸化しているに等しいということを。
ヒグマを前に至近距離で発砲することは、決して最善の安全策ではないのだ。
彼らはむしろ、もう一つの装備である「熊よけスプレー」を使い、至近距離からヒグマの目や鼻、口を刺激して、この恐るべき巨獣の攻撃への意識を逸らす方を選んだ。そうして隙の生じたところを、猟銃で確実に急所へと精密射撃するのだ。
しかし、予想に反して、ヒグマは現場の人間には誰一人として襲いかかろうとはしなかった。それどころか、踵を返して右側へと逃走を図る。
だが、その巨躯が第一歩を踏み出すよりも早く、右側の木々の死角から、一頭のエゾオオカミが静かに姿を現した。鋭い牙を剥き出しにし、狂暴な巨獣を威嚇する。
「グルルル……」
「これは……エゾオオカミ、か?」
誰もが目の前の光景に事態を掴めずにいた、その瞬間。エゾオオカミが前方へと小さく跳び跳ね、巨獣へ襲いかかるかのようなフェイントを仕掛けた。不意を突かれ、驚愕したヒグマはたまらず「二足」で立ち上がる。
相模はその瞬間を完全に見切っていた。
『──ドンッ、ドンッ』
轟音とともに、引き金が引かれた。放たれた二発の銃弾は、ヒグマの心臓の部位へと寸分の狂いもなく正確に突き刺さった。
「やったぜ、相模隊長!」
ヒグマが地響きを立てて倒れ伏すと、メンバー全員から歓声が沸き起こった。
相模もようやく安堵のため息を漏らす。しかし、再びヒグマの右側へと視線を向けた時には、あのエゾオオカミはすでに跡形もなく姿を消していた。
十二時間にも及ぶ追捕行動の末、ようやく一件落着となったのだ。
今の相模の心は、一点の曇りもなく堂々としていた。これから直面するであろう法律問題も、すべて受け入れる覚悟だ。絶滅危惧種を誤射したのは自分ではないが、自身の指揮下で起きた以上、責任は免れない。
相模は心の中で、あの傷ついたエゾオオカミのために祈った。
(どうか、無事でいてくれ……)
「相模隊長。これ、どうします?」
「え……」
チームのメンバーが指さすヒグマの巨体を見つめ、相模は突如として現実を突きつけられた。
これから直面するであろう難題は、法律問題だけではない。この密集した木々の中から、どうやってこの破格の巨躯を運び出すかということだ。
だが、そんな問題も、ユンボを林内に手配してからは、あっさりと解決することとなった。
*
『──キュイィィィン、ダダダダッ』
壁に内蔵された「閘門」から刺すような高頻度の騒音が響き渡る中、焦燥を極めたオチバは、絶え間なく遠吠えを上げ続けた。
「ゼロ、今どこだ!? 聞こえたら吠えてくれ。アオォォォォォォーーーーンッ!」
やがて、閘門の騒音が止まった。
『──ゴゴゴッ、ガガガガッ』
重々しい金属音を立てながら、匣門が上方へと開いた。
しかし、オチバはあの犬小屋の出入り口のような枠を一瞥しただけで、ふいと不快そうに視線を外した。
オチバが再び喉を鳴らそうとしたまさにその時、背後から犬の鳴き声が響き渡った。
「ワォゥ!」
背後へと振り返ったオチバは、透明なアクリル板越しに、全身を黒い毛並みに包まれ、顔のまわりが白い大型犬の姿を目にした。その犬は、長い舌をだらりと覗かせながら息を弾ませている。
「ハ、ハ、ハッ」
「お前はだれだ?」
「俺はトーマス。我が主、サトウの使役犬だ」
オチバの瞳に、かすかな軽蔑の色が浮かぶ。そのまま言葉を続けた。
「そうか、家畜か……」
「え?」
再び前を向いたオチバは、まともに相手をするつもりなど毛頭なく、ただ冷酷な沈黙で背中を向けた。
「いや、そうだけど、そうではない。俺はただのペットじゃない」
「はあ? 何を寝言をしゃべるんだ?」
振り返らないオチバは、そのまま地を這うような低音で吐き捨てる。その冷徹な問いかけに、アクリル板の向こうのトーマスは、背後からでも伝わるように、まるで微笑むかのようにニッと白い牙を覗かせた。
「ほら、傷が残るでしょう。君のような動物を世話することが俺の役目だ」
「てめぇ!」
いら立ちを隠せないオチバは立ち上がり、アクリル板の前を落ち着きなく往復し始めた。
「そうなったのは誰のせいだと思ってんだ」
「それは……」
「お前の主のような人間だ。わかったら黙れ」
そう言い捨てるや否や、彼は再びトーマスに背を向け、また遠吠えを響かせた。
「ゼロ、お前はどこだ! 聞こえたら吠えてくれ! アオ、アオォォォォッ!」
その時、トーマスはガックリと頭を垂れ、ほんの少しだけ落ち込んでいた。これまでのキャリアにおいて、たとえ言葉がまったく通じない他種族相手であっても、大抵は自分の善意を汲み取ってくれたというのに。
彼は、主が先ほど電動ドライバーで固定したばかりのアクリル板を見つめ、そしてその向こう側にいるエゾオオカミへと視線を移した。
本来であれば、屋外の一般病棟へと相通じるこの「枠」に、遮蔽物など存在するはずがなかった。ここは傷ついた野生の命が、人間と一切接触することなく自主的に室外へ移動するために作られた、安全な通り道のはずだったのだ。
だが、このエゾオオカミの焦燥を鎮め、同時に傷口の感染を防ぐためだけに、主がどれほど無駄な突貫工事を強いられたかを、彼は誰よりも知っていた。
「ゼロ。その名を持つ動物が、君の仲間なのか?」
「違う、俺の兄弟だ。血の繋がりなどないが、あいつは俺の、何物にも代えがたい兄弟だ」
「そうか。俺はゼロじゃないから、君は話せないのか?」
「お前、いまのなんつった……?」
そう言い終えるや否や、嫌悪を露にした狼は激しく身を翻し、透明な板の前を落ち着きなく往復し始めた。
「いや、悪気があって言ったわけじゃない」
言葉を遮るように、オチバは体を支えるように前爪をアクリル板へと突いた。
「お前のような奴が、あいつと同列に語るな」
そのまま爪を滑り降りさせ、再び地面を捉えた。
「いや、そんなつもりじゃ……」
「ああ、ずっと考えていた。人間にしっぽを振るだけの家畜どもが、一体何の底力があって我らに向かって吠えられるんだよ」
オチバはその場に腰を下ろし、なおも容赦なく嘲る言葉を吐き捨て続けた。
「同じ『牙』を持つ者でありながら、誇りを泥に塗れさせ、寄生虫のように人間に媚びを売る。しかも、進んで人間に利用されるなんて……」
そう辛辣に言い放たれたトーマスは、静かに首を振って否定し、こう応じた。
「いや、そうじゃない。君の言うそれは、俺たちの方は共存って言うんだよ……」
「フン、家畜らしい考え方だな」
その薄弱な反論に対し、オチバはわざと左側の牙を覗かせて不敵に口元を歪め、言葉を重ねた。
「お前の言う『共存』なんて、人間が主導権を握る歪な関係でしかねぇ。もしも、あのサトウという人間が突然『共存』を拒み、お前を森へと見捨てたらどうする? ──その時になってもお前は、人間と獣が『共存』できるなんて寝言を、まだ信じていられるのか?」
「そんなの……そんなこと……!」
オチバの容赦ない言葉の弾丸を浴びせられたトーマスの脳裏に、サトウに見捨てられるという最悪の光景が瞬く間に押し寄せ、思わず激しい悲しみの底へと突き落とされた。
「クゥーーーン……クゥン……」
「なんだ? 泣いてんのか。くだらん」
トーマスから放たれる「悲哀」の匂いをその鼻腔で感じ取り、心満ち足りたオチバは、おもむろに部屋の隅へと歩み寄り、その体を丸めて眠りについた。
*
「なんでそうなったのか……?」
モニター室で監視を続けていた佐藤は、コンビニで買ったばかりのブラックコーヒーを片手に、画面に映し出された光景を見つめたまま唖然としていた。
エゾオオカミの焦燥は確かに収まり、檻の隅で体を丸めている。しかし、あろうことか、その代わりに自分の愛犬であるトーマスのほうが、不安しきった様子で「クゥーーーン、クゥン……」と悲痛な悲鳴を上げ始めていた。
佐藤はモニター室を後にすると、そのまま通路を進んで外へ出ると、野生動物専用の屋外リハビリケージへと向かった。
二重匣門の枠の前でガックリと項垂れるトーマスのもとへ歩み寄り、その白い顔のまわりを優しく撫でる。
「よしよし、もう大丈夫だ、よしよし……」
佐藤が何度も何度もそう語りかけながら、愛犬の体を包み込むように抱きしめる。主人の温もりと、いつもと変わらない慈愛に満ちた声に包まれ、トーマスは激しく波打っていた呼吸を徐々に整え、ようやく落ち着きを取り戻した。




