第三話 コミュニケーション
あの日から、20号とヒルネは毎朝、他のどの狼よりも早く起き、共にその泥地へと向かっては静かに時間を過ごしていた。
そんな日々を繰り返しながらも、二頭は日常の狩猟や領地巡回といった仕事を一切手を抜かずにこなしていた。
睡眠時間を削るような過酷な日々は、通常の野生の狼であればとうに体力の限界を迎えていただろう。
しかし、互いに寄り添う彼らの足取りは、驚くほど軽やかだった。
「ヒルネ、最後に毛繕いしたのは一体何日前だ? 全身泥まみれじゃないか」
「もう――20号こそ、全身から泥の臭いをプンプンさせて。隣を歩いているだけで、空気が汚染されていくのを感じるわ」
「ぷっ、あははははは!」
二頭は顔を見合わせ、同時に吹き出した。
何よりも、誰の目も気にせず、お互いの本心で寄り添い合えるこの僅かな二頭だけの時間を、彼らは何よりも愛おしく、大切に思っていたのだ。
*
群れの西側の領地。そこでは、狩りを終えたばかりの狼たちが、獲物の血の匂いに興奮を抑えきれずに騒ぎ立てていた。
「フン、見たか貴様ら! 俺の圧倒的な力、そして先ほどの完璧な一撃をな!」
その中でも、仕留めの最後の一撃を叩き込んだ14号は、いまだに先ほどの狩りの高揚感に酔いしれている。
「ちょっと大げさすぎるんじゃない? そんなの、誰だって経験あることだよ」
少し離れた場所で寝そべっていた16号が、小さくあくびをしながら口を挟んだ。
「ふん、愚かな奴め……! 俺の『会心の一撃』であのイノシシの首根っこをねじ伏せてやらなければ、最前線で『ヘイト』を稼いでいた囮の狼は、今頃串刺しにされて『異世界転生』しちまってたところだぞ! つまり! 今回のクエストの『MVP』は、完全にこの俺だ!」
「イセカイテンセイ……なんだそりゃ意味わからないんだけど」
14号の口から飛び出すわけのわからない言葉に、16号はピクリと片耳を動かしたものの、追及する気すら起きずに地面に伏せたまま生返事を返した。
今の彼の頭の中は、狼王の食事が終わった後、ようやくありつけるであろう美味そうなイノシシの肉のことでいっぱいだった。
「当然だ! 俺様の身体に流れるのは、高貴なる『戦闘民族の血』だからな! 貴様のような一般狼に理解できるわけがないのさ!」
「……」
14号の言葉に、16号は返す言葉も見つからず、ただ無言で目をそらした。
「なんだ、大したことないんだね」
――だが、14号がまだ自分を戦闘民族だと思い込んで酔いしれているその瞬間、彼らの騒ぎを冷ややかに切り裂くような高慢な声が、すぐ近くの木陰から響いた。
「ん?」
14号に向けられたその明確な嘲笑に対し、16号は特に感情を動かす様子もなく、ただ淡々と顔を上げた。
そして、木陰からゆっくりと姿を現した一頭の小柄な体躯を持つ雌狼を見つめた。
「なんだ、18号か……」
「何者だ……!?」
「え、え? どういうこと……!?」
14号の突拍子もない問いかけに、16号はわけがわからないと14号を見つめ、それから18号へと視線を移した。
この二頭は一体どんな「モード」に入っているのだろうか。
「あんた、よくそんなに偉そうな顔ができるね。ただ弱り切った獲物のトドメを刺しただけじゃないか」
「何だと!」
『Round 1 ―― Fight!』
現実には鳴るはずのない、二頭の脳内にのみ響くシステム音が轟いた瞬間、彼らは後方へ跳んだ。
目の前で一触即発の空気を醸し出す二頭を前に、16号の忍耐はついに限界を迎えた。
彼は頭を抱えんばかりに、呆れ果てた声を響かせる。
「なんなんだよ、これ……!? なんで急に対戦モードに切り替わってんだよ!? 戦闘開始のトリガーは何なんだよ!」
「……ふん、貴様の噂はかねがね聞いてるぞ。どこぞの狂った人間に捕らえられ、肉体強化の『改造手術』とやらを施されたそうだな? ……だが片腹痛いわ! そんな肉体、もうとっくに狼のそれじゃなくなってやがるはずだ……!」
14号はシリアスな表情を浮かべ、さもそれが世界の真実であるかのように、妄想全開の設定を大真面目に語りだした。
「ないよ。そんな設定はどこにもないよ」
「ほう……よく知っていたね」
だが、当の18号は否定するどころか、不敵で自信に満ちた笑みをその口元に浮かべてみせた。
「お前もかよ」
「だったら見せてあげようか、私の強さを。――はっ! ……あれ?」
一瞬、18号は激しく気合を入れ、全身から凄まじいオーラを爆発させる――かのように見えた……はずだった。
――だが、何も起きない。木々の隙間から木漏れ日がのどかに差し込む中、森のそよ風が静かに吹き抜けるだけで、そこにはただ、日差しを浴びてポカンと佇む小柄な雌狼がいるだけだった。
「あれ? おかしいな。さっきまでちゃんと光ってたのに……」
「ん……」
さっきまでの緊迫感はどこへやら、三頭の狼は一箇所に集まり、地面に置かれた正体不明の金属の塊――「ミニライト」を、不思議そうに頭を低くして見つめ始めた。
彼らは知っていた。この奇妙な物体が時折、目を眩ませるほどの強烈な白い光を放つことを。
器用な爪先でどこに触れればそれが発光するのかも理解していた。
だが、この人間の道具が『電力』という目に見えない力で動いており、それがすでに底を突いているという残酷な現実は、野生の彼らには知る由もないことだった。
「あの……ちょっと聞きたいんだけど。これ、一体どこで手に入れたんですか?」
完全に冷めきった泥沼のような沈黙の中、16号は虚無に満ちた目で二頭を見つめ、静かに、しかし核心を突く問いを投げかけた。
「もういい。続けろ、14号」
「お、おう……」
「また続けるのかよ!」
18号の言葉が落ちると同時に、三頭の狼は素早く先ほどのポジションへと戻った。
しかし、二頭の度を越した奇妙な咆哮のせいか、いつの間にか周囲には多くの狼たちが集まり、何事かと彼らを遠巻きに囲んでいた。
「だったら見せてあげよう。私の強さを。――はっ!」
一瞬、18号は再び激しく気合を入れ、体中から凄まじい白銀のオーラを爆発させる……つもりだった。
「えええええ……」
だが、集まった他の狼たちの目には、白いオーラなど一ミリも見えていなければ、18号が強くなったという覚醒も一切感じられなかった。
ただの小柄な雌狼が、衆人環視の中、大真面目な顔をして14号に向けて咆哮を上げているだけである。
そのあまりの光景に、周囲の狼たちは一斉に戸惑い、互いに顔を見合わせることしかできなかった。
「くっそ、なんてパワーだ……! だが、俺様は戦闘民族の末裔だぞ、負けるもんか! ――はっ!」
14号も負けじと18号の構えを真似て、自分も強烈なオーラを放っているかのように、大真面目な顔で激しく吠え立てた。
「ほーっ……」
しかし、当然ながら周囲を囲む狼たちの目には、14号の身体にも何の覚醒も起きてはいなかった。
ただ一頭の成年の雄狼が、真昼間の太陽の下で、大声を上げながらその不自然なポーズを維持しているだけである。
「ツッコミを入れる気すら失せたよ……」
本來ならこの場で彼らの暴走を止めるべきだった16号は、無言のまま、トボトボと野次馬の狼たちの群れの中へと歩き去っていった。
自分の本来の義務を完全に放棄したその背中は、この異常な空間から一刻も早く逃げ出したいという、哀愁に満ちあふれていた。
その時、領地の巡回を終えたばかりの20号とヒルネが、その場所に通りかかった。
――いや、領地の巡回というのは建前に過ぎず、本当のところは、二頭きりで静かに散歩を楽しんでいたのだった。
そんな二頭の目に飛び込んできたのは、大勢の狼たちが遠巻きに彼らを囲み、その中心で18号と14号が何やら騒ぎ立てている光景だった。
おそらく、あの極限まで己の世界に没頭した神聖なる空間において、14号と18号の脳内では、それぞれ自身の気迫を極限まで高めて咆哮を上げているのだろう。
しかし、そんな事情を一切知らないヒルネの目には、ただ二頭の狼が狂ったように牙を剥き出しにし、一触即発の状態で激しく対峙しているようにしか見えなかった。
「いけない……! 止めなきゃ!」
ヒルネはパッと耳を立て、緊迫した様子で駆け出そうとした。
本気で喧嘩が始まると思い込み、慌てて二頭の間に割って入ろうとしたのだ。
「いや、違う。行かなくていい」
しかし、駆け出そうとする彼女の前へそっと体を滑り込ませるようにして、20号はどこか呆れたような、それでいて優しい声でヒルネを呼び止めた。
「え……? なんで?」
ヒルネは不思議そうに足を止め、20号の方を振り返った。
「あれがあいつら独自のコミュニケーションなんだ。今ヒルネが割って入ったら、逆にどっちからも恨みを買うことになるぞ」
「あれが……コミュニケーション……ですか?」
ヒルネは終始、納得がいかない様子で、なおも遠くの二頭を見つめていた。
ヒルネは生き延びるためにあちこちの群れを転々としてきたが、あんな風に激しく牙を剥き出しにしてじゃれ合う狼など、これまでの過酷な流浪の旅では一度も見かけたことがなかったのだ。
「いや、コミュニケーションってのとは少し違うかもしれないがな。ただ、俺たちには理解できないやり方で、繋がっているだけさ」
20号の瞳にふっと深い感慨が浮かんだ。彼は遠くで虚空に向かってその奇妙な構えを続けている二頭を見つめながら、静かに言葉を紡いでいく。
「俺が生まれる前の話だけどな。18号は体格が小さかったせいで、同じ親から生まれた兄弟たちからもしょっちゅういじめられ、差別されていたんだ。……たとえ血が繋がっていようとな。だけど、14号だけは違った。あいつは性格が変だし、いつも自分のやり方で他の狼と関わっているけど、誰に対しても偏見を持たず、すべてを平等に見ていたのさ。だからこそ、18号に対しても本気で、心から向き合えたんだ。もしあいつがいなかったら、18号はとっくにこの群れを去っていたよ」
「そう、ですか……」
ヒルネは、小柄な18号が体格の立派な14号へと、じゃれ合いながら飛びかかる姿を、静かに見つめていた。
互いに牙を剥き出しにし、凶暴な面構えを作ってはいるが、その牙が相手の身体を傷つけることは決してなかった。
「ごめんなさい、20号。私、本当の事情も知らないのに……勝手な思い込みをしてしまいました」
ヒルネはシュンと耳を伏せ、申し訳なさそうに視線を落とした。
20号は周囲の目を刺激しないよう配慮しながらも、どこか包み込むような優しい声で、静かに言葉を続けた。
「いや、そんなに自分を責めることはないさ」
「はい、そこまで。――皆さん、狼王様の食事が終わりましたよ。あのイノシシの肉は、もういただいても構いません」
――突然、穏やかで心地よく、しかし凛とした気品に満ちた声が、14号と18号の不毛な睨み合いを優しく遮った。
狼たちの群れが自然と左右に割れる中、そこから姿を現したのは、群れの兄弟たちの中で最も深い尊敬を集める長兄――7号だった。
その立ち振る舞いは野生の狼とは思えないほど優雅で、まるで高い教養を持つ紳士のようだった。
「7号……!」
14号と18号は、ハッと我に返ったようにその奇妙なポーズを解き、静かに7号を見つめた。
「ふふ、また面白い遊びをしていたのですね。ですが、お腹が空いていては戦えませんよ? さあ、早く行きなさい」
7号は目を細めてその眼差しを和らげると、促すように小さく頭を動かした。その温かい気遣いに、周囲を囲んでいた狼たちからも、安堵と喜びが混じった小さなどよめきが沸き起こった。
「行こう、ヒルネ」
「はい」




