第二話 泥
雨はすっかり上がり、濡れた木の葉が朝日にきらめく早朝のことだった。
岩の狭間に冷たい秋風が流れ込み、残った雨粒がヒルネの毛を濡らす。
身を丸くして寒さに震えていたヒルネは、近づいてくる足音に気づき、警戒を露わにした瞳をゆっくりと持ち上げた。
「ヒルネ、おはよう」
「20号さん……」
そこに佇む20号の輪郭を捉えた瞬間、ヒルネの張り詰めていた神経は、まるで氷が溶けるように緩んでいった。
「……おはよう」
二頭は静かに見つめ合っていた。岩の隙間が、まるで二頭だけの特別な場所になったかのようだった。
しかし、その静寂は荒々しい足音によって無慈悲に引き裂かれた。
「おい、いつまで見つめ合ってんだよ!」
割って入ってきたのは11号だ。
気心の知れた20号の横腹に体を軽くぶつけ、二頭のそばに立つと、不躾に言い放った。
「さっさと行くぞ!」
「……え? 11号さん、いつからいたの……?」
驚くヒルネに、11号は少し呆れた顔を浮かべる。
「はいはい、どうせ俺の存在感なんて薄いんだろ。いいから早く行こうぜ」
その隣から、20号が11号のそばへと歩み寄った。
いくらヒルネのためとはいえ、自分の無理な頼みに付き合わせてしまっていることが、20号には申し訳なかった。
「すまない、11号。迷惑をかけた」
「なんだ、別に助けない理由もないし。だが先に言っておくが、もし狼王が俺を問い詰めたら、ヒルネが妊娠しているという事実は全て吐くぞ」
11号は自分が誰の味方でもないという立場を明確に示した。
それに対し、20号はただ短く答えたが、その心の中では静かに同意していた。
「……ああ。分かっている」
*
こうして11号の先導のもと、三頭は深い森を抜け、山の半分を越えていた。
終わりの見えない道のりに、20号がついに溜息をつきながらこぼした。
「……まだ着かないのか?」
「文句を言うな、もうすぐだ。少しは我慢しろ」
11号はそう言い、前を見据えたまま歩き続けた。
しかし、何かに気づいたように、ふと足を止めて振り返った。
「ああ、そうだ。一つだけ、はっきりさせておく。もしこの件が露見したら、俺は必ずヒルネが妊娠している事実を狼王に吐くからな」
「……いや、それさっきも聞いた気がするんだけど」
20号は気まずそうに、苦笑交じりに言葉を返した。
「ふふっ……」
二頭の後ろを歩いていたヒルネが、思わず小さくクスリと笑った。
*
「そこだ」
11号はぬかるみの先を見据え、顎でしゃくった。
「おい、正直に言え。お前、まさかわざと遠回りをしたのか?」
20号は険しい顔で11号を睨んだ。彼にとってこの程度の山道は何ら苦にならない。
それなのに、明らかに地理的な距離としては遠回りになっていた。
「まさか。俺はいつも、この道を通ってここに来ているんだ。どうした?」
11号は不思議そうに首を傾げた。普段通っている道に何の問題があるのか、まるで理解できない様子だった。
20号は一瞬の沈黙の後、気まずげに視線を逸らした。
「……いや、何でもない」
「まあ、とりあえずここの泥の匂いはかなり強いから、ヒルネの妊娠の匂いを隠すには十分だろう」
11号はふんと鼻を鳴らし、誇らしげに尾を高く掲げた。
「助かった、ありがたいよ。11号」
短く礼を告げると、ヒルネを促して泥地へと足を踏み入れた。
しかし、数歩も進まないうちに、背後から再び呼び止められた。
「あ、待って待って。その前に、お互いに無用な恨みを買わないためにも、これだけははっきりさせておきたい。もし狼王のところに戻って問い詰められたら、俺は間違いなく、ヒルネが妊娠していることを――」
「ストップ! そのセリフはもう3回目だ。用がないなら、さっさと帰れ!」
20号は理性を保ちながら言い放ち、ヒルネを連れて泥地へと歩き出した。
だが、すかさず11号に呼び止められる。
「あ、待って」
「なんだよ?」
20号は少し不機嫌そうに振り向いた。
11号は不器用ながらも、仲間として精一杯の言葉を紡いだ。
「……落ち着け。今度は本気だ。子供が生まれたら、お前は自分の群れを持つことになるんだろ? まだ先の話だが、とりあえず……おめでとう」
「ったく……お前の祝福なんて、ちっとも嬉しくないよ。でも、ありがとな」
20号はぶっきらぼうに言いながらも、本心では深く喜びを感じていた。
*
11号と別れた後、20号とヒルネは泥地で転げ回った。
泥にまみれ、美しい毛並みが汚れることに、ヒルネは多少の居心地の悪さを覚えていた。
だが、目の前で愛する雄狼が同じように泥まみれになり、少しも厭うことなく、全身を自分と同じ泥の色に染め上げている。
その姿を見て、ヒルネの心にじんわりと温かい慰めが広がっていった。
今のヒルネにとって、自分の毛並みが何に汚れようとも、もはやどうでもいいことだった。
ただ、目の前の雄狼と同じ姿で、共に生きられることが、何よりも愛おしかった。
「ねえ、なんでそこまでしてくださるのですか?」
ヒルネはふと視線を落とし、問いかけた。
「え? どういうこと?」
20号は驚いた様子で問い返す。
自分が何か間違ったことをしたのではないかと、急に不安がよぎった。
「……いつも、どんな時も。夜の見張り番の時だって、この前の鹿狩りの時だって。あなたは、いつも私にばかり優しくしてくださる」
ヒルネは小声でそう呟いた。
余所者の狼という劣等感のせいか、20号の献身的な支えに対し、申し訳なさと後ろめたさを感じていたのだ。
「なぜだろう……自分でもよくわからない」
20号はヒルネの傍らに寄り添い、静かに、しかし熱を帯びた声で低く喉を鳴らした。
「きっと、何か俺を突き動かすものがあって、ヒルネを護るように仕向けるんだろう。だけど俺は、それが一度だって間違っているとは思わない」
言葉を口にした直後、ふと冷静になった20号はハッと我に返って耳をぴくつかせた。少しの間を置いてから、おずおずと尋ねる。
「あ、ごめん。もしかして、また困らせるようなことを言っちゃったか?」
「……ううん、そんなことありません。逆に、嬉しいのですよ」
ヒルネは小さく首を横に振った。
ぺたんと伏せられた耳は少しだけ震えていたが、その視線は地面の落ち葉に向けられたまま動かない。
ただ、遠い記憶をなぞるように、ぽつり、ぽつりと静かに言葉を紡いでいく。
「私、まだ子供の頃に、両親を亡くしたんです。それから、生き延びるために……あちこちの群れを転々としてきました。でも、どこへ行っても冷たくあしらわれてばかりで。……あなたのいるこの群れに流れ着くまでは」
「ヒルネ……」
その時、ヒルネがゆっくりと視線を上げ、20号を真っ直ぐに見つめた。
見つめ合う二頭の間に、どこか深い情愛を孕んだ空気が流れる。
愛おしさが込み上げた20号は、思わず首を伸ばし、ヒルネの首元へ体を寄せようとした。
――だが、その行動に移るよりも早く、ヒルネが再び口を開く。
「20号さんに出会えて、本当に良かったです」
「あ、そ……そうなのか」
完全に勘違いしていたと気付き、急に猛烈な恥ずかしさが押し寄せた20号は、それをごまかすように慌ててぷいっと顔を背けた。
激しく高鳴る鼓動を隠すように、しっぽの先をパタパタと地面に打ち付けながら、急に自分の前足をせわしなく舐め始めている。
「ふふ、20号さんの照れてる姿もかわいいですね」
その様子がおかしかったのか、ヒルネは伏せていた耳をぴょこんと立たせ、喉を小さく鳴らして笑った。
20号は毛繕いをピタリと止め、背けた顔のまま、片方の耳だけを不器用につんとヒルネの方へ向けながら、少しぶっきらぼうにそう言った。
「やめてくれよ、そういうのは……。ところで、その『さん』は付けなくていい。ここは二人だけなんだから」
「20号……」
ヒルネは20号を見つめ、少し不思議そうに尋ねた。
「そういえば、ずっと気になっていたのだけど、なぜこの群れの狼たちは、みんな番号で呼び合うの? さっきの11号さんも、そう呼ばれていたけれど……」
「それは狼王が決めたことだ。俺たちを覚えやすくするため、あえて名前の代わりに番号を付けたのさ。……正直、そんなの好きじゃない」
20号はそう言うと、瞳から光が消え、視線を落とした。
耳を後ろに寝かせ、自嘲気味にふっと息を漏らす。
感情の揺らぎを表すように、地面に伏せられた彼の尾が、かすかに強張った。
「群れの外から流れてきた狼たちと触れ合って、初めて知ったんだ。彼らの名前には、すべて特別な意味が込められているってことを。この『20号』という呼び名は、ただ狼王の子としての序列を示しているだけで、その本質は、俺を『個』としてではなく、ただ使い捨ての道具として管理するための『コード』に過ぎないんだよ。だから俺はむしろ羨ましいんだ。ヒルネみたいに、自分だけの名前があるのが」
そして、20号は視線をヒルネに戻し、どこか独り言のように呟いた。
「でもなんだろう……ヒルネの名前は、他とは違うと感じるんだ。気のせいかな」
ヒルネは誇らしげに尻尾を振りながら応じた。
「鋭い野性ですね。私の名前は、人間からつけられたのですよ」
「え? 人間……!」
驚きのあまり、20号は目を見張った。
「そう、さっきも言ったでしょう。私はまだ子供の頃、両親を亡くしたんです。その翌日、優しい人間に見つけられて、彼の家に連れて行かれて面倒を見てもらいました。その間、人間は私に狩りの仕方を仕込んでくれて……それに、そこで飼われていた犬とも友達になりました。私が大人になってから、この森へ返してくれたのです」
ヒルネはふっと目を細め、懐かしそうに話を続けた。
「今でもたまに近くへ戻って、あの家から遠く離れた場所から、様子を見に行くことがあるんです。確か、あの一人の人間の名前は『サトウ』と呼びました」
「え? えぇ……!? えぇぇぇぇええっ!? ……おもしろそうっ!」
20号はあまりの衝撃に、しっぽを激しく左右に振り回しながら、腰を浮かせてヒルネの顔を覗き込んだ。
「ふふ、そんなに驚くことですか?」
ヒルネはクスクスと嬉しそうに喉を鳴らし、二頭の間には、この冷たい西の森にはおよそ似つかわしくない、温かく穏やかな時間が流れていた。
その時。
「アオォォーーーン……!」
突如として、深い森のあちこちから、地響きのような遠吠えが響き渡った。
いつものように、外来勢力に対して自分たちの領地の主権を誇示するための、群れの一斉遠吠えだ。
その遠吠えを耳にした瞬間、20号とヒルネはハッと互いに顔を見合わせた。
そして、お互いに何も言わず、泥にまみれた首を天へと高く掲げ、その遠吠えの合唱へと声を合わせ、力強く呼応した。
*
しかし、二頭は知る由もなかった。
この時、湿った冷たい風は、泥地から密林の奥へと向かって、緩やかに吹き抜けていた。
強烈な泥の臭気は風に流され、二頭の鼻を完全に狂わせていた。
そして同時に――それは、ある「存在」の気配を覆い隠す完璧な盾となっていた。
ぬかるみの先、鬱蒼と生い茂る木々の陰。風下に位置するその暗がりに、大きくも小さくもない、しかし不気味なその姿が、音もなく佇んでいた。




