第一話 疑惑
豊かな森林に覆われた、知床の山。
ここには、滅びの淵に立たされた、わずか数えるほどしか残されていない狼の群れが生息していた。
生き残った彼らは、限られた獲物を分かち合うため、互いの領地を厳格に守り、張り詰めた緊張感の中で暮らしている。
この日もいつも通り、西の森を狼の群れが獲物を追って駆け出した。
狼王の指揮の下、群れは一頭の鹿を追い詰める。
「よし。11号、7号、あいつを後方から包囲しろ」
二頭の配下に鋭く命令を下すと、狼王はその右側に控える、群れで最下位の雌狼へと冷徹な視線を向けた。
「お前は注意を引け」
狼王の狙い通り、鹿は身を低くかがめ、鋭い角を群れへと向けた。
「私がやります」
突如として、配下の一頭の雄狼がその前に名乗り出た。
最下位の雌狼を庇うように立ち塞がり、代わりに獲物の標的になろうとしたのだ。
「あ、いや、私は大丈夫ですから……」
最下位の狼は慌てて拒もうとしたが、その言葉は強引に遮られた。
「いいから下がってろ!」
雄狼の気迫に圧され、彼女は仕方なく脇へと退くしかなかった。
しかし、この勝手な行動は狼王の目には生意気に映った。
自分の命令が遮られた不快感を、狼王は一時的に押し殺す。
「チッ……いいだろう。やっちまえ」
狼王の一声で、雄狼が牙を剥いて攻撃を仕掛ける仕草を見せた。
すると鹿も予想通り、角を突き出して雄狼へと突進する。
衝突の寸前、雄狼が鋭く後ろへ飛び退くと、その機を狙っていた狼王が左側から一気に躍り出た。
狼王は獲物の喉元へ深く牙を突き立てる。同時に、背後を包囲していた二頭の狼も飛びかかり、見事な連携で息の根を止めた。
*
その後、いつものように狼王が最優先で獲物を口にしていた。
他の狼たちは、狼王が肉を貪り食う姿をただじっと見つめるしかない。
狼王が食事を終え、許しを出すまでは、誰一人として獲物に手を出すことは許されないのだ。
「ヒルネ、体調はどう?」
雄狼は心配そうな顔で最下位の雌狼を見つめ、声をかけた。
「20号さん……平気です。先ほどは守ってくださりありがとうございました。ですが、二度としないでください。困りますから」
ヒルネは困惑の入り混じった表情でそう返した。
「すまない、余計なことをした。だが、そうしないとヒルネのお腹の……」
20号の言葉が終わる前に、ヒルネが即座にそれを遮った。
「しっ、静かに! バレたら誰のためにもなりません!」
食事を終えた狼王は、血のついた毛を静かに舐めながら、冷ややかな視線で20号と最下位の狼を見ていた。
「妙だな……あの二人、いつからあんなに馴れ合っていたんだ? ――お前はどう思う、ゼロ」
狼王は遠くの二頭から視線を移し、隣で獲物を貪り食っている、群れで最も巨大な体躯を持つ黒狼へと問いかけた。
ゼロはただ顔を上げて一瞥しただけで、表情一つ変えなかった。
何も答えずに立ち上がると、そばの木の下へと歩いていき、体を横たえた。
「ハハッ、お前は相変わらずあまり喋りたくないんだね」
狼王はくすりと笑うと、今度は群れ全体に向かって威風堂々と吠えた。
「お前ら、もう食っていいぞ!」




