第十七話 緊急避難
佐藤の職場は、整頓された清潔なオフィスであり、その配置は一般的な行政機関と何ら変わりはなかった。唯一の玉に瑕は、デスクの上に環境省や町役場への申請書類がいつも山積みにされていることくらいだった。
「地獄だ」
相模と鈴木を追い出したばかりの佐藤は、すぐにパソコンの前で必死にキーボードを叩き、報告書を作成していた。環境省への事前連絡なしに、使役犬を「コンパニオンドッグ」として運用したため、公費を一時的に差し押さえられており、期限までに一万字以上の報告書を提出しなければならないからだ。
なのに、これは一見深刻な手落ちのようだが、実際のところ佐藤が違反したことはただ一つ、「上層部への事前申請」という手続きを怠ったという点だけだった。
ピンポーン、ピンポーン
突如として、監視専用のスマホから電子音が鳴り響いた。佐藤はスマホを手に取り、画面に映るポニーテールの女性を見つめて、思わずこう漏らした。
「こいつは、誰?」
*
ドアの外でインターホンを押した五十嵐は、スマホの地図を再び確認した。
「ここで間違いないよね」
『はい、野生動物救護センターの佐藤です』
スピーカーから低い声が聞こえるやいなや、五十嵐はすかさず応じた。
「あ、北海新聞の五十嵐です……」
『すみません、当施設では家庭用ペットの診察は受け付けておりません……ツーツーツー……』
「なっ……」
理由も分からず切られた五十嵐は、親指の爪を噛みながら、狂ったように何度もインターホンを押し続けた。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン
『いい加減にしろ。うちのインターホンをいじめるのはやめてくれないか?』
その冷淡な応対にシビれを切らした五十嵐は、切り札である「拡声器」を引っ張り出し、インターホンに向けて怒声の弾幕を浴びせた。
『──キィィィィィィ北海新聞の五十嵐です。──キィィィ貴施設を訪れましたのは─キィィ保護に関する知識について取材をさせていただきたく』
『うるさっ……』
ハウリングの轟音に圧倒されたのか、インターホンの向こう側はしばらく静まり返ったが、やがて呆れたような声が戻ってきた。
『五十嵐さんだよね。ここは一般公開していません。わかってる?』
「そのくらいわかってるのよ」
『あ、そう。ならば、入れ』
「え?そんな簡単に……?」
『ああ、こちらは事前に警告したからな。もし施設内でいかなる損害が出ても、あんたに賠償責任を負ってもらうぞ』
ガチャリ、と音を立てて施設の鉄扉が開く。五十嵐は狐につままれたような気分のまま、急いで中へと滑り込んだ。
「お邪魔します……」
玄関に入ると、目に飛び込んできたのは、きれいに整頓された室内の光景――だけではなかった。白いワイシャツにマスク姿の佐藤が、アルコールスプレーを手にこちらへ歩いてくる。
「ほら、手」
言われるがまま、五十嵐が反射的に両手を差し出すと、シュシュッとアルコールが吹き付けられた。
「あ、どうも……」
スプレーを引っ込めた佐藤は、五十嵐に背を向けながら言葉を続けた。
「ここは一応、病気の動物をケアする場所だから。個人の衛生面には気を配り、さっきみたいに指を噛むのはやめてほしい」
「はあ!?」
五十嵐は後ろで両手を組み、上体を少し前に傾けて、不満げに抗議した。
「失礼だな。こっちはちゃんと手洗いをしていますよ」
「こちらへどうぞ」
佐藤はぞんざいに手で合図をし、五十嵐を事務室の応接スペースへと案内した。三人掛けのソファとガラステーブルが、ぽつんと置かれているだけの空間だった。
「悪いな。当施設にはコーヒーメーカーも茶道具もない。ただの水を飲んでもらうしかない」
「そう、ですか……」
テーブルにカップ水とストローが置かれた。そのとき、五十嵐の視線が、少し離れた棚の上にある茶道具へと向いた。明らかに洗ったばかりで、まだ水滴が残っている。
「そうだよ。茶道具があったとしても、今の私はあんたのために茶を淹れる気がないんだから」
「ず、随分と正直なことですね」
五十嵐は営業スマイルを浮かべたが、頭上には怒りマークが浮かび上がっていた。
「ところで、何しに来たんだ?」
佐藤はマスクを少しだけ引き下げ、手にしたブラックコーヒーで喉を潤しながら問いかけた。
「うっ……」
五十嵐は佐藤の手にあるブラックコーヒーを見つめ、心の中で毒づいた。
(何なのよ、こいつ――)
「こちらに匿名のタレコミがありまして、貴施設が『絶滅危惧Ⅱ類』のエゾオオカミを不法に隠匿していると伺いました。そのため、本日は佐藤先生に事実関係を問い質しに参りました」
「なるほど。単刀直入だね」
「ええ……」
五十嵐はボイスレコーダーを取り出し、さらに言葉を続けた。
「さっきここに来る途中で、偶然にも農林水産課の相模専門員にお会いしましてね。彼からすでに全ての事情を聞かせていただきました。その内容のすべてがこのボイスレコーダーの中にあります。まさか、しらを切るつもりじゃありませんよね?」
「取材許可証は?」
「え?」
「環境省の許可がなければ、当施設はいかなる形式の取材も受け付けない」
五十嵐は苦渋の表情を浮かべたが、それでも話を続けることにした。
「申請はすでに出しています。ただ、まだ交付されていないだけです」
「嘘つけ。そんな許可証、最初から存在しない」
「……私をカマにかけたの!?」
五十嵐は少し興奮気味に言った。
「あんたも相模の話題を利用して、私をカマにかけようとしたんじゃないのか? 予想が正しければ、そのボイスレコーダー、最初から中身なんて何も入ってないでしょう」
窮地に立たされた五十嵐は、無意識のうちに親指の爪を噛み始めた。
「汚い」
「うるさいっ!」
五十嵐のうろたえる様子を見て、佐藤も何かを考え込むようにした後、口を開いた。
「付いてきなさい」
唐突な一言に、五十嵐は思わず眉をひそめて、こう返した。
「なによ?」
「あんたは見たいんでしょう? エゾオオカミを」
佐藤の後を追って執務デスクへと近づきながら、五十嵐は少し困惑して問いかけた。
「でも……私に確かめさせてくれないんじゃなかったの?」
「そんなこと言った覚えはないよ」
佐藤はマスクを外すと、屋外ケージの監視画面をそのままフルスクリーンに切り替えた。
「ほら、見ろ」
五十嵐が画面を見つめ、マウスに手を伸ばそうとしたその時。
「待て、手を出せ」
「え?」
すぐさま佐藤の声に注意を引かれ、右手のひらに一瞬にしてアルコールが吹き付けられた。
「……」
五十嵐は口には出さなかったものの、そのむくれた顔は「うざっ……」と雄弁に物語っていた。
その後、五十嵐は身を乗り出し、視線を監視画面へと戻した。雪が舞い散る画面の向こう、午後の陽光に照らされたケージの中では、エゾオオカミが丸くなって昼寝をする姿がはっきりと映し出されていた。
「悪いな。見せてあげられるのは監視画……」
佐藤が言いかけたその時、五十嵐のポニーテールから零れた右の後れ毛がはらりと落ちた。彼女がそれを何気なく耳の後ろへ掻き上げる――その無防備な色気に圧倒され、彼は一瞬、呆然と立ち尽くしてしまった。
言葉が突如途切れたことに気づき、五十嵐は上体を起こして問いかけた。
「ん? どうした?」
「いや、別に……」
異様を悟られまいと、わずかに顔を赤らめた佐藤は、すぐさま背を向けてデスクの方へと歩き出した。
「フン、これで言い逃れのできない証拠は揃ったわ! あなたも町役場も、猟友会の山田も、全員まとめて法の裁きを受けさせてあげるから!」
五十嵐は腕を組み、厳しく言い放った。
「どういうこと……」
「今更しらを切るつもり? 猟友会が絶滅危惧Ⅱ類を傷つけるのは、種の保存法第九条違反よ。そしてあなたは、町役場と結託してエゾオオカミを匿っている」
「なるほど……」
佐藤は深く息を吸い込むと、言葉を続けた。
「あんたは本気でそう思うのか?」
「そうだよ」
「ならば、すきにしろ」
「え? それだけ?」
あまりに手応えのない展開に、五十嵐は困惑の表情を浮かべた。
「ああ、それだけ。もう帰ってもいいんだよ」
「いや、こっちはあなたたちの犯罪事実をすべて白日の下に晒そうとしてるのよ! 少しは悪い人らしく屁理屈でも並べ立てるとか、それか私を監禁しようとするとか……」
「何の話?」
自分の失言に気づいた五十嵐は、あまりの気まずさに逆ギレして激しく地団駄を踏んだ。
「もうっ! なんなのよ、こいつ!」
それから、少し冷静さを取り戻すと、五十嵐のいつもの癖が出た。親指の爪を前歯で噛んだ瞬間、佐藤の鋭い視線が突き刺さる。
「チッ……」
「わかってるわよ! この潔癖怪人!」
その反応にすこぶる不機嫌になった五十嵐は、すぐさま机の上のアルコールをひったくり、手のひらへと狂ったように吹き付けた。
「悪いな、こちらには正論なんてない。ただ、わたしから見れば、五十嵐さんのほうがよっぽど悪い人に見えるがね」
「はあ? どういう意味よ?」
佐藤はデスクの縁に腰を掛け、視線を落としながら言葉を続けた。
「よく考えてみろ。北海道で熊害事件が起きるたびに、猟友会の人たちは真っ先に前線へと駆り出され、自らの命を懸けて住民の安全を守っている。それなのに、あんな人たちがどんな扱いを受けていると思う? 最初は砂川市の事件、さらには島牧村の出動手当カット問題、次から次へと……」
佐藤は画面の前へと歩み寄り、監視モニターのエゾオオカミを見つめた。
「もちろん、この件も同じだ。確かに五十嵐さんの言う通り、猟友会が熊害の駆除の過程で、図らずも法に触れてしまったのも事実だ。だが、誰もがこの騒動を血眼になって粗探しする一方で、そもそも最初の目的が何であったか、忘れてしまっているらしい。だからといって、彼らを有罪だと決めつけるというのなら、この私は、どうしても認められない」
なのに、これほど気迫に満ちた台詞であるにもかかわらず、五十嵐はそこに「反論」の意図を微塵も感じなかった。ただ、佐藤の言葉の端々から、染み渡るような共感が伝わってくるだけだった。
「その言葉、理解できないこともないわ。でも、仕方ないでしょう。どんな理由があろうと、違法は違法よ」
「……」
そうして佐藤が何も言わずに自分を見つめてくるのを見て、五十嵐はたまらず口を開いた。
「うっ、なによ?」
「あんたは本当になにも知らないのか? この件で違法性は問われないから」
五十嵐は信じられないといった表情を浮かべて、即座に言い返した。
「はあ? バカらしい、またお涙頂戴の同情論?」
議論するのも煩わしくなった佐藤は、いっそ自らの事務椅子に腰を下ろすと、突き放すように言い放った。
「もう少し勉強しろ。刑法第三十七条、緊急避難。それが、私と相模が最初から動いていた方向だ」
*
天都山の山頂から見下ろす網走の夜景は、大都市のそれとは趣が異なり、どこか静謐で研ぎ澄まされた冷たさを帯びていた。大通りの街灯や住宅から漏れる澄んだ灯火が、碁盤の目状の市街地を幾何学的に縁取っている。
網走市街へと戻った五十嵐は、車内で今回の「誤射」事件について頭の中を整理した。確かに佐藤の言う通り、あのエゾオオカミの傷さえ完治してしまえば、この件が刑事責任へと発展する可能性は皆無に等しい。そこまで思考が至った瞬間、これまでの自分の大騒ぎや、頭の中で繰り広げていた数々の妄想が急に恥ずかしくなり、彼女は言い知れぬ敗北感に包まれた。
すっかり意気消沈した彼女は、一軒のバーへと足を踏み入れ、カウンターのバーテンダーへ無造作に一杯の酒を注文した。運ばれてきたグラスを傾け、琥珀色の液体に浮かぶ氷を見つめながら、まるで独り言のようにつぶやいた。
「あなた、もしかして猟友会の山田ですか」
「え?」
その言葉が響いた瞬間、隣の席の男の肩が強張った。男は何も言わず、即座に席を立ってその場を立ち去ろうとする。
「あなたでしょう? あの匿名の告発者は」
五十嵐に正体を暴かれたことで、山田と呼ばれたその男は足を止め、低く濁った声で問いかけた。
「……なんで分かった?」
「最初は何も分かりませんでした。でも、今回の事件の全貌を整理していくうちに、少しずつ繋がったんです。あなたの目的は、不法行為を告発することなんかじゃない。町役場を丸ごと道連れにすることでしょう」
その言葉に、山田の瞳から涙が溢れ出し、彼は自ら五十嵐と同じ席に腰を下ろした。
「あの夜、帰路の途中でエゾオオカミを必死にセンターへと搬送している時、俺は何度も、何度も相模隊長に、この件は伏せてくれと懇願したんだ。だが相模隊長は首を縦に振らず、『この件は、俺たちが一緒に背負うんだ』と言い放った。あんなクソ言葉、俺には単なる身代わりの押し付けにしか聞こえなかった。それで、恐ろしい考えが芽生えてしまった……どうせ死ぬなら、みんな一緒に死ぬんだよ」
絶え間なく涙を流す山田の姿を見かねて、五十嵐は手元にあったティッシュを無造作に差し出した。おそらくは砂川市の事件の影響なのだろう。行政機関に対する猟友会の不信感が、これほどまでに根深いからこそ、山田にそんな思いを抱かせてしまったのだ。
「その気持ち、少しは理解できます。でも、違いますよ」
五十嵐はスマホを取り出し、ある動画の画面を山田に見せながら言葉を続けた。
「これは、あなたたちが必死で救い出したエゾオオカミですよ。山田さんが匿名の告発状を書いている裏で、農林水産課の相模専門員も、野生動物保護センターの佐藤先生も、この一件の違法性を阻却させるために必死に動いていたのですよ。刑法第三十七条、緊急避難、すでにその法律の条文を調べていたのでしょう?」
さらに五十嵐はボイスレコーダーを取り出すと、静かに言った。
「実は、さっきセンターを離れた直後、町役場へ赴いて相模さんに裏付けを取ったのです。彼は、こんな言葉を残していましたよ」
言い終えると同時に、五十嵐は手元のボイスレコーダーを再生した。
『あの……今から話すことは、どうか他言しないでください。もし、この件が本当にどうしようもない破滅的な事態に陥った時は、俺が山田と猟銃を交換して、すべてを一人で背負うつもりです』
「う、うわあああああん!」
その後、山田は声をあげて号泣した。その姿に感化されたのか、五十嵐もまた目元に浮かんだ涙を指先でそっと拭った。
「ここに来たのは、ただ告発を受けた一人の記者として、山田さんに直接伝えたかったからです。この件に関しては、わたしが記事にするべき『黒幕』なんて、どこにも存在しないのです。そして……」
五十嵐は手を伸ばし、テーブルの上に置かれた山田の手をそっと握りしめた。
「この事件に巻き込まれた人の中には、猟友会を悪く思っている人なんて、誰一人としていませんよ」
*
深夜。
野生動物保護センターの屋外ケージ。オチバは鉄格子の隙間から、静かに雪花が舞い落ちる光景を眺めていた。
天を仰ぎ、遠吠えを上げようとしたその時、突如一羽のシマフクロウが、猛烈な速度でケージの頂上を掠め飛び、近くの巨石へと舞い降りた。
「鳥……?」
オチバはその猛禽にじっと目を凝らした。
シマフクロウは黄金色の大きな瞳で、首を滑らかに九十度ほど傾げながら、まるで鉄籠の中の狼を見定めようとするかのようにじっと見つめ返した。
「ボッボー……」
突如、シマフクロウが双翼を大きく広げた。その驚異的な翼開長がもたらす圧倒的な威容に、オチバは身動きもできずに息を呑み、思わず言葉を漏らした。
「……空の神様」
お疲れ様でした




