第十八話 白黒ちゃん
十一月、ウトロは本格的な冬の入り口に立っていた。
まだ昼下がりの時間帯だというのに、傾いた太陽から差し込む光はどこか頼りなく、研ぎ澄まされた冷たさを帯びている。オホーツク海から吹き付ける白く凍てつく北風は、林道にうっすらと積もった初雪をときおりパラパラと舞い上がらせていた。
肌を刺すような寒気の中、野生動物救護センターの屋外ケージの周囲には、冬の訪れを告げる静けさだけが満ちていた。
「お前、いつもそうするのか?」
雪の上に仰向けになって体を激しく揺らすトーマスを見下ろしながら、オチバは鉄格子の向こうから呆れたように問いかけた。
「あれ?」
トーマスはコロンと寝返りを打って起き上がると、きょとんとした顔でオチバを見つめた。
「狼さんは、そうしないの?」
「たまに、だな。自分の気配を消すためのものだ。だが裏を返せば、頻繁にやればかえって雪の上に匂いを残すことになる……」
オチバの真面目な解説に合わせるように、トーマスも興味津々といった様子で聞き入っていた。
「ええーーっ!」
「つか、なんでガキへの教育みたいな雰囲気になるんだよ……」
オチバが突っ込みを入れたその時、建物の向こうから佐藤の声が響いた。
「トーマス、お留守番は頼んだぞ」
「主だ」
トーマスはすぐ立ち上がると、建物の向こうへ向かって「ワォゥ、ワォゥ」と二声、嬉しそうに吠え返した。
「ところで、人間の『声』が通じるのか?」
お互いに声で応じ合う一頭と一人の姿を見て、オチバは思わず問いかけた。
「もちろん」
トーマスはグッと顔を上げ、自信満々に言った。
「じゃあ、何の話だ?」
「トーマスは最近お利口さんだから、美味しいものをたくさん持って帰ってくるって。それから、いっぱい撫で撫でしてくれるんだよ!」
「絶対に違うだろ。その言葉は、どう聞いてもお前の望みだ!」
オチバがそう断言した瞬間、高所から、何かがしなやかに着地したような微かな音が響き、二頭の注意を引いた。
「なんだ?」
オチバが真っ先に声を上げ、音のした方へと視線を向ける。そこにいたのは、一匹の白黒のハチワレ猫だった。
「白黒ちゃんだ!」
見知った猫の姿に、トーマスは即座に尻尾を振り、テンション高くそちらへと歩み寄る。
「シャーッ!」
だが、白黒ちゃんは鋭く威嚇の声を上げると、目にも留まらぬ速さの猫パンチの連打をトーマスの鼻先に叩き込んだ。
「痛たたたたた!」
その奇妙な光景を見て、オチバは思わず口を開いた。
「お前、何をやっているんだ?」
「白黒ちゃんだよ。この辺の野良猫なんだ。たまに主のところへ肉をねだりに来る」
トーマスはシュンとした顔で白黒ちゃんを見つめながら言った。
「それなのに、何度も会ってるだろ? なんでいつも俺だけ当たりが強いんだよ……」
「いや、そうじゃない。お前はいい体格をしているのに、そんなちっぽけな奴にコケにされるとは……まさに、情けない限りだ」
言葉が終わるや否や、白黒ちゃんはすぐさまオチバへと視線を移し、じっと睨み据えた。
「なんだ? 俺を敵に回すつもりか?」
その不躾な凝視に対し、オチバはケージの中で身を低くかがめ、「グルルル……」と喉を鳴らして低く唸った。
「落ち着け、狼さん。白黒ちゃんは仲間だよ」
トーマスが親切心から宥めるように言ったが、オチバはそれを一蹴して言い放った。
「今更何を言っている? これは挑発だ、明らかに敵意だ」
突然、白黒ちゃんは塀へと跳び上がり、足場を次々と蹴ってさらに高くへと移動していく。最後は「カシャン」と軽い音を立てて、ケージの天面の上でピタリと足を止めた。
「あ、上に行っちゃった」
「おのれ……」
オチバは鉄格子の隙間から、真上にいる猫を見つめた。その匂い、そして隠そうともしない凝視が、この狼の逆鱗を逆撫でしているのは明白だった。
「おい、トーマス、あいつを追い落とせ」
その言葉に、トーマスは白黒ちゃんが飛び上がった塀を見上げ、それから言った。
「そう言われても、俺にはどうしようもないよ……」
「なんとかしろ」
トーマスは、ケージの中で苛立っているオチバを見つめ、それから白黒ちゃんへと視線を移した。どうにか場を収めようと、しっぽを低く振り、上目遣いで耳を寝かせるという、必死に犬科のやり方で語りかけた。
「ほら、白黒ちゃん、そこは危ないから、こっちにおいで」
しかし、しっぽを左右に激しく振り、両耳を後ろへぴったりと伏せるその仕草は――猫の世界においては、最大級の挑発でしかなかった。
(この犬、わしに喧嘩を売るつもり?)
白黒ちゃんがそう思った時、ケージのオチバが激しい勢いで鉄格子に体当たりを食らわせた。「ガシャァン!」と頑丈な格子が鈍い金属音を立てる。足元に響く微小な震動を察知した白黒ちゃんは、一瞬で傍の塀へと飛び移った。
「狼さん、やめてください! そんなことをしたら、また傷口が開いちゃうよ!」
「知るか! あんなちっぽけなクソ猫に舐められたら、我ら狼は、一生顔が立たんわ!」
オチバの険悪な表情が目に入るや否や、白黒ちゃんは不愉快そうに心の中で悪態をついた。
(なんだと?)
かつて、人間に飼われていた頃、家の中の序列はいつも犬よりも上だった。
飼い主に捨てられた今となっても、犬という生き物を見下している。
それなのに、この犬に似た狼に侮辱されたのだ。プライドの極めて高いハチワレ猫にとって、こればかりはどうしても腹の虫が収まらなかった。
「まあ、白黒ちゃんはもう上から離れたし。これで少しは落ち着いた……かな?」
「てめぇ、狼の血を引く犬のくせに、誇りってものがひとかけらもないのか!?」
その時、白黒ちゃんが塀から飛び降り、トーマスの脇へと滑り込んできた。ケージのオチバに向け、背中を弓なりに丸めて激しく威嚇する声を張り上げた。
「ナーーーーオ」
「くっ……貴様……!」
鋭い聴覚を刺激する不快な高周波に、オチバは歯を食いしばって頭痛に耐えていた。トーマスもまた、耳を劈く音に耐えかね、場を収めようと鼻先を近づける。
「白黒ちゃん……やめろよ……」
だが、宥めようとした瞬間、白黒ちゃんは容赦なく爪を振るい、ハスキー犬の顔面を引っ掻いた。
「いたっ……!」
激痛が走るが、トーマスは飛び退くことなくじっと耐えた。それでも猫同士の喧嘩を思わせる、白黒ちゃんの禍々(まがまが)しい絶叫は鳴り止まない。
「ウワァァァーーー!」
「トーマス……噛め、噛め!」
オチバが憎悪を込めて反撃を促すが、トーマスは微塵も動じない。ただ、吠え立てる白黒ちゃんの首の後ろをじっと見つめていた。
その瞬間、主がこの猫の手当てをしていた光景がフラッシュバックする。──確かに、こうしていたはずだ。
トーマスが静かに鼻先を近づけると、白黒ちゃんは再び爪を立てようと身を翻した。その意図を察したオチバが、すかさず鉄格子へと激しく体当たりを食らわせる。「ガシャァン!」と響いた衝撃音に白黒ちゃんが気を取られた刹那、生じた一瞬の隙を見逃さず、トーマスはその首の後ろを見事に銜え込んだ。
直後、白黒ちゃんのマッスルメモリーが呼び覚まされた。あれほど凶暴だった身体は自然と丸まり、尾はきゅっと両脚の間に巻き込まれる。小さな猫は一瞬で脱力し、まるで魔法にでもかかったかのようにトーマスの口にぶら下がった。
だが、そんな生ぬるい銜え方に、オチバは思わず悪態をついた。
「あますぎるだろ! しかも、そんな風に銜えたら、この後どうするんだよ!?」
しかし、トーマスはオチバを相手にすることなく、そのままケージに背を向けた。
「おい、無視するな!」
オチバの怒声をよそに、トーマスは白黒ちゃんをそっと地面に下ろすと、その顔を愛おしげに、優しく舐め始めた。
「もう大丈夫だ」
トーマスの見せる眼差しがあまりにも優しく、白黒ちゃんの脳裏には、前の飼い主の家で一緒に暮らしていたゴールデンレトリバーの面影が鮮やかに重なった。
二年前、ウトロの地に捨てられたハチワレ猫は、知らず知らずのうちに、あの温かい家を恋しそうに懐かしんでいた。
白黒ちゃんはトーマスを見つめると、小さな前足を突き出してその鼻先をパシッと叩いた。
「いたっ……」
トーマスが痛みに思わず耳をぴくりと伏せるのをよそに、白黒ちゃんはそのまま脱兎のごとく走り去った。
「あ、行っちゃった」
そうしてその場を飛び出した白黒ちゃんは、無我夢中で走り続け、少し離れた塀の上へと飛び乗ると、激しく毛づくろいを始めた。
一度に押し寄せたあまりの記憶に、かき乱された心をどうしても落ち着かせることができない。
白黒ちゃんは犬が大嫌いだった。その歪んだ思い込みの中では、犬が元の飼い主の愛情を奪い去り、本来なら自分が満たされるはずだった温もりを、すべてあのゴールデンレトリバーに取って代わられたことになっていたからだ。
それなのに──なんで今の自分は、あの家にいた犬に会いたいのだろう。
「トーマス……」
鉄格子越しに塀の上の白黒ちゃんを睨み据えながら、オチバはトーマスに言った。
「あのクソ猫、一体何なんだ? なんであそこから離れたあと、またすぐここに戻った?」
トーマスは気まずそうに白黒ちゃんを見つめ、独り言のように漏らした。
「そうだよね……なんでだろう」
「おい!」
すかさずトーマスは、オチバをなだめるように言葉を続けた。
「まあ、とりあえず。白黒ちゃんは、暫く何もしなさそうだし。狼さんも、気にしなくていいよ」
オチバはトーマスの鼻先に残る爪痕を見つめ、それからふいっと視線を地面へと落とした。
ケージの外にいるこの間抜けな犬のやり方には、どうしても納得がいかない。だが、そのやり方があの猫を確実に「大人しく」させたことだけは、認めざるを得なかった。
「オチバだ。これが、俺の名だ」
その言葉に、トーマスは地面に落ちている木の葉に視線を落とし、それから言った。
「落葉?」
「そうだ。落葉のオチバだ。バカにするなら、噛みつくぞ」
「いい名前じゃない! ただ……少し変かなって思う」
「はあ? どういう意味だよ?」
和気あいあいとした二頭の様子を見て、白黒ちゃんは胸の内に小さな羨望を抱いていた。
だが、それがどうした。すべてはもう二度と戻らなかっただろう。
絶望に暮れる白黒ちゃんは、そのまま塀の外へと飛び降り、二頭の視界から姿を消した。
「あのクソ猫、やっと消え失せやがったか」
トーマスは耳をぴくりと動かし、少し気まずそうに言った。
「いや、主が戻ったから」
「はっ?」
オチバが怪訝そうに問い返そうとしたその時、佐藤の足音と共に、白黒ちゃんの途切れなく続く愛らしい鳴き声が、センターの入り口から中へと入ってきた。
「にゃお、にゃお、にゃおー」
「はいはい、少し待ってくれ……」
「……」
人間の足元にまとわりつく猫の姿を見て、オチバは別の意味で絶望に打ちひしがれているようだった。
「大丈夫だよ。主がいれば、白黒ちゃんも少しは大人しくなるから……多分」
「トーマス」
「ワォゥ!」
主の呼ぶ声に、トーマスはちぎれんばかりに尾を振り、嬉しそうに駆け寄っていく。
「よしよし、いい子だ……って! その鼻、一体どうしたんだ!?」
今回の一話は書くのがすごく難しかったです。以下は元のプロットですが、猫が犬を嫌っているという設定が崩れてしまうので、最終的にボツにしました。
和気あいあいとした二頭の様子を見て、白黒ちゃんは胸の内に小さな羨望を抱いていた。
寂しさのあまり、自分もあの二頭の輪に入ってみたいと思ってしまったのだ。
白黒ちゃんはそっと塀から飛び下りると、ケージの中の狼を見つめた。
「なんだ? クソ猫」
しかし、鉄格子を挟んで視線を交わすうち、白黒ちゃんの身体には、片方の耳が思わず後ろへとピクリと動く反応が現れていた。
(こいつは無理だ)
その後、白黒ちゃんはトーマスの前へと歩み寄り、その匂いを嗅いでから、ゆっくりと目を細めて瞬きをした。
(この犬、気に入った)
「どうしたの? 白黒ちゃん」
トーマスが鼻先をそっと近づけようとすると、その小さな猫は一歩後ろへと下がり、犬の表情を真似るかのようにぎこちなく顔の筋肉を動かし始めた。
「ミ、ミケ……ミケだ。ミケ、ミケだ」
その光景を目の当たりにし、オチバは驚いて言った。
「喋った……!?」
「そうか、白黒ちゃんの名前は『みけ』っていうんだね」
小さな猫がようやく心を開いてくれたと思い、トーマスは嬉しそうに大きく尾を振り、さらに距離を縮めようとした。
「シャーッ!」
だが、ミケは突如として全身の毛を逆立て、鋭い威嚇の声を上げた。その激しい反応に、トーマスは思わず飛び退く。
「どうして? もう仲良しになったんじゃないの?」
すっかり困惑するトーマスをよそに、事の顛末をすべて見ていたオチバは、呆れたように言い放った。
「しっぽだ。もう少し頭を冷やして、その激しい揺れを止めろ。平穏を保ったまま近づくんだ」
「え? なんで知ってた?」
「なんで、だと? お前は本気で聞いてるのか?」
「うっ、そうか……」
オチバがそれ以上を口にすることはなかったが、トーマスはすべてを察した。森で生きる狼にとって、猫もまた「獲物」の枠から外れることはないのだ。
トーマスはオチバの指導に従い、平穏を保ったままゆっくりとミケちゃんに近づいていく。だが、互いの鼻先が触れ合うその直前、一犬一猫の耳が微かに後ろへと動いた。
「ただいま」
「主が戻った」
トーマスが振り返り、主人を出迎えに駆けだそうとしたその時、ミケちゃんが尾をぴんと立てて佐藤の方へと歩いていくのが見えた。その口からは、甘えるような鳴き声が途切れなく溢れ出ている。
「にゃお、にゃお、にゃおーん!」
「あんたも来たか。少し待ってくれ」
飼い主と猫が触れ合うその光景を見つめながら、トーマスはオチバへと振り返り、心からの感謝を伝えるように、真っ直ぐな眼差しを向けた。それから、自分も佐藤の方へと駆けだしていく。
「トーマス……って! その鼻、一体どうしたんだ?」




