第十六話 同期
朝。
野生動物救護センターの屋外に設置された大型ケージは、傷の癒えた動物たちにリハビリの場を提供する、いわば一般病棟にあたる場所だった。屋外リハビリケージへと移されたオチバは、ケージの中を歩き回っていた。
ケージの外では、使役犬のトーマスがオチバの動きを追いながら、主人と共に野生動物を救助してきたこれまでの数々の活躍を語っていた。
「ねえ、狼さん。この家にはね、君の他にも、たくさんの傷ついた動物が運ばれてくるんだよ。──その中でも一番印象に残っているのは、大きな羽の鳥なんだ……」
トーマスは話していくうちに、嬉しそうに尻尾を左右に激しく振り回した。
「あの空の神様がここに運ばれてきた時、翼にとてもひどい怪我を負っていたんだ。でも、我が主はあっという間にあのお方を回復させて、また大空へ羽ばたかせちゃったんだよ。今でも時々、空から俺たちの様子を見に戻ってきてくれるんだ!」
オチバはトーマスを相手にせず、ただその巨大なケージの中を動き回り、鉄格子の頑丈さを確かめるようにあちこちを探索し、ケージの高さを見極めるようにじっと見上げた。そして、心の中で一つの結論に至った。──「ここからは、抜け出せない」、と。
「ねぇ、狼さん。聞いてよ、それとね、他にも救助したことがあって……」
トーマスはさらに距離を縮め、鉄格子に鼻先を押し付けんばかりに身を乗り出した。
「うるせぇな。少し黙ってもらえないか?」
「狼さんが、今はまだ不安なんだってことは分かっているよ。だからさ、今まで動物たちを助けてきた話をして、少なくとも俺たちに悪意がないことだけでも、伝えたかったんだ」
「そうか……お前も察しているか」
オチバは視線を落とした。犬が自分の放つ匂いから感情を察せることは、別に驚くことでもない。ただ、オチバにとって解せないのは、このトーマスという犬が、なぜ自分の「不安」を察した上で、「心配」に似た匂いを放っているのか、ということだった。
「ならば、いつまで閉じ込めておくつもりだ? 俺を出してくれれば、そんな『不安』なんて一発で消えるだろ?」
それを聞いて、トーマスは堂々と言葉を返した。
「それは我が主が決めることだ。心配いらない。この場所に来たからには、あと数日もすれば、あの空の神様みたいに外に出られるさ」
「チッ、何が空の神様だ。ただの鳥じゃないか」
オチバは吐き捨てるように鼻を鳴らした。
「そうじゃないよ。あのお方は、本当に綺麗な羽を持っていらっしゃるんだ」
トーマスの反応に、オチバは内心であきれながらも淡々と観察した。どうやらこの犬は、見た目だけでなく中身まで子供のように純粋らしい。
「フン、お前の言う『様』とやらなら、この俺だってかつて狼たちから『狼王様』と呼ばれていたんだぞ」
「ロウオウ?」
単純な使役犬は不思議そうに首をかしげた。我が主を絶対的なボスと慕うあまり、そんな大層な異名を連想することなど到底できなかったのだ。
「つまり、狼たちのリーダーだ。いわば……」
オチバはしばし言葉を吟味してから、話を続けた。
「そうだ。お前の主と同じ、絶対的な存在だった」
「え! そうなの!?」
トーマスは目を丸くして、興味津々に問いかけた。
「じゃあ、君も主人みたいに、部下の狼たちをお腹いっぱいにさせてあげられるの?」
「当然だ」
「狼たちが怪我をしたり病気になったりした時、君もあんな風に健康な状態に戻せるの?」
「それはちょっと……」
「冬が来た時、みんなで過ごせるあんなに大きくて温かいおうちが、君たちの群れにも用意できるの?」
トーマスの視線が誇らしげに隣の建物へと移るのを見て、オチバもつられて目をやった。
「……」
オチバから放たれる匂いが刻一刻と変化していくのを察し、トーマスは慌ててフォローを入れた。
「あ、違うんだ。俺は別にそんなつもりじゃなくて、ただ……」
言いかけるよりも早く、オチバが言葉を遮った。
「あーー不愉快だ。俺はもう寝る」
だが、オチバが背を向け、檻の隅へと横たわろうとしたその時、足音が近づいてきた。
「我が主だ!」
建物の角から佐藤が姿を現し、相模と町役場の環境生活課の鈴木がそれに続く。トーマスは嬉しそうに尻尾を振り、彼らの方へと駆け寄っていった。
だが、勢いよく駆け寄ってきた大型犬を前に、佐藤はすぐさま鋭い声を飛ばした。
『トーマス、シット(Sit)』
その場でぴたりと従ったのを見届けると、表情を緩めて次の指示を出した。
『カム(Come)』
『え、え?』
状況が飲み込めない鈴木は、同じ町役場内の、農林水産課に所属する先輩へと視線を向けた。すると相模は苦笑いしながら説明した。
『あ、あれは犬に指示を出しているんです』
『へ、へえ……』
仕事の都合で過去に数回、その施設を訪れたに過ぎない鈴木は、佐藤とハスキー犬の関わりを詳しく知るわけではなかった。
しかし、わずかな訪問のなかで真摯な仕事ぶりを目の当たりにし、彼女はいつしか佐藤に好感を抱くようになっていた。
三人と一頭の犬が近づいてくる。檻の暗がりに身を潜めようとしていたオチバだったが、相模の体から漂う硝煙の匂いを察知した瞬間、あの夜の記憶が怒りに火をつけ、全身の毛を逆立てて即座に臨戦態勢へと入る。
『トーマス』
主人の命を受け、トーマスもやむを得ずオチバに向けて唸り声を上げた。
「グルルル……」
トーマスの唸り声に対し、オチバは低く唸りながら問い返す。
「なんだよ?」
「落ち着け、狼さん。そうしなきゃ、このままでいなきゃいけないんだ」
トーマスはぎこちない様子で唸りながらオチバを制そうとした。
その時、相模の心底からの罪悪感が、動物にしか嗅ぎ取れない特有の匂いとなって急激に染み出してきた。
「うっ……」
あまりに強烈なその匂いに影響され、オチバの怒りは、ようやく静まりを見せた。
『ごめんね、狼さん。……辛い思いをさせて』
相模は腰を落とし、檻の中の勇敢なるエゾオオカミを見つめながら、この上なく優しい声で語りかけた。あの夜、仲間を救うべく、自ら盾となって弾丸を浴びたその姿。それは今なお相模の脳裏に焼き付いて離れなかった。人間の中にすら、これほど命を投げ打てる者などいやしないだろう。
その匂いがあまりにも強烈だったからか、幾多の風雪を耐え抜いてきた彼は、逆立てていた毛を伏せ、そのまま檻の隅へと引き下がっていった。
『さて、鈴木さん。写真を撮りましょう』
『あ、はい』
ようやく、鈴木によるエビデンスの写真撮影が完了した。三人がその場を立ち去る中、居残ったトーマスがオチバに向かって声をかける。
「お疲れ様、狼さん」
だが、オチバは答えない。ただ黙って首をうなだれていた。あの夜の憎しみは、硝煙の匂いを纏う人間に激しい敵意を抱かせるに十分なはずだった。しかし、あの刹那、どうしても彼を憎みきることができなかったのだ。
「くっそ……」
*
三人が室内に戻り、まだ足が止まりきるかきらないかのうちに、佐藤は本題を切り出した──。
「あいつの傷はもう殆ど癒えている。あと数日様子を見て、問題がなければ野生へ戻す。その時にまた連絡する」
「本当に助かりました、ありがとうございます。佐藤先生のおかげで、こちらの手続きもスムーズに進められそうです」
相模は姿勢を正し、小さく一礼をして謝意を表した。
「礼には及ばない。こちらにも、片付けるべき面倒事が残っているんでね」
「え? どういうことですか?」
佐藤は小さくため息をつくと、言葉を続けた。
「ああ、行政手続き上の問題だ……」
話が深まるにつれ、佐藤は自らのルール違反とすでに上へ報告した事実を、気心の知れた相模へと包み隠さず打ち明けた。その言葉からは、これから直面するであろう地獄のような書類提出へのぼやきが、ありありと漏れ聞こえていた。
一方で、会話にまったく入れない鈴木は、相模の隣でただ黙って聞いているしかなかった。入社して以来、どんな公の場であっても、彼女はいつも今のように、引き立て役としてただ周りに合わせることしかできない。それは否応なしに八年前、自分とは対照的だったある人物を思い起こさせた。
(彼女なら、こんな場でも上手く立ち回れたんだろう)
「それでは、今日はここまで。また追って連絡する」
佐藤が二人に別れを告げたその時、鈴木は意を決したようにスマホを差し出し、上ずった声で切り出した。
「あの……連絡先、教えてもらえませんか!」
鈴木の突拍子もない行動に、相模は一瞬だけ驚いたものの、すぐにその意図を察して、心の中でそっとエールを送った。何しろ、彼の知る佐藤はすでに四十を過ぎている。そろそろ身を固めてもいい年頃なのだから。
「いいけど。どうぞ」
「え?」
佐藤は拒むことなく、この施設の公式LINEのQRコードが印刷された案内プレートを指し示した。
空気を察した相模は、先輩としてすかさず助け舟を出した。
「いや、でも佐藤先生。万が一の緊急事態があった時なんかは、個人の連絡先の方が小回りが利く……かな……」
「相模さん……」
佐藤は不信感を隠そうともせず、じっと相模を睨みつける
「どういうことなの?」
その有無を言わせぬ視線に、相模は背筋を凍らせて短い悲鳴を漏らした。
「ひっ……!」
「相模先輩、ここは自分で処理しますから!」
そう言い残すと、鈴木は緊張のあまり右腕と右足が同時に出るようなギクシャクした歩き方で案内プレートの前へと進み、スマホのカメラをかざした。それから、まだぎこちない足取りのまま佐藤の元へと歩み寄り、肩を並べてスマホの画面を差し出した。
「こ、これ……どうやって操作すればいいんでしょうか……?」
質問の最中、鈴木は震える手で、耳元の髪の毛をこれ見よがしに後ろへと掻き上げた。しかし、そんなあざとい仕草も、今の鈴木がやると気まずさと滑稽さしか残らない結果になっていた。
「……」
その姿を前に、佐藤の顔は一瞬にして無駄にキリッとした劇画風へと変貌した。両の瞳は、まるで真っ黒に塗りつぶされたかのようだった。
「あんたね……」
「え……」
鈴木は、そのポーズのまま、脂汗をダラダラと流して佐藤を見つめることしかできなかった。その口元は、引きつったように時折ピクピクと震えている。
*
「もうー、恥ずかしいっ……! 私、何であんなバカなことしちゃったんだろ」
施設を追い出された鈴木は、あまりの気恥ずかしさに両手で顔を覆った。
「まあ……鈴木さんは十分頑張りましたよ。きっと佐藤先生にも、その想いは伝わっていると思います……多分」
相模はそう慰めたものの、言葉に反して自身の声にはまったく自信が持てずにいた。
「うっ……」
そう言われても、完全に黒歴史と化した先ほどの失態が頭から離れず、鈴木は依然として生き恥を晒しているような絶望感の中にいた。
「ところで、鈴木さんはいつから佐藤先生のことが好きだったんですか?」
その言葉に、鈴木は慌ててぶんぶんと手を振り、全力で否定した。
「あ、違います! とんでもない誤解です! 私、そんなつもりは全くなくて、ただ相模先輩のように……」
鈴木が慌てて言い訳をする中、ポニーテールを揺らす見覚えのある女性の影が、彼女の視界を横切った。
「五十嵐?」
思わずその名を口にしてしまった鈴木は、すぐに後悔して心の中で小さく呟いた。
(あ、しまった、言っちゃった……)
「あれ? 小春ちゃん? お久しぶり。こんなところでどうしたの?」
五十嵐が振り返り、こちらに歩み寄って声をかけてくる姿を見て、鈴木は完全に狼狽してしまった。
「知り合い?」
「あ、ええ。私と一緒に公務員試験を受けた、同期なんです」
二人の会話が自分に及んだのを察し、五十嵐は絶妙なタイミングで割って入った。
「そうなんだけど、私はデスクワークよりフィールドワークの方が性に合っててね。それで、記者に転職したんだ」
「そうか。それなら、二人はゆっくり話すといい。私は一足先に町役場へ戻るよ」
相模が背を向けようとしたその瞬間、鈴木は彼の服の裾をぎゅっと掴んだ。
「……ん?」
「町役場……?」
不意に、五十嵐は親指の爪を噛むのをやめ、相模を品定めするような目で見つめた。
「あなた、もしかして猟友会を率いている相模隊長ですか? 昨日の記者会見でお見かけしました」
その言葉に、相模もようやく五十嵐の正体に気づき、驚愕の声を上げた。
「昨日の『拡声器の記者』じゃないか……!」
「あ、そうだけど……」
五十嵐は気まずそうに一瞬だけ視線を逸らしたものの、すぐにボイスレコーダーを取り出して相模の目の前へと突きつけた。
「それより、昨日、私が質問していた時、あなた何か言いたそうにしていましたよね? でも、課長さんに遮られました」
降って湧いたような突発事態に、相模は両手を上げて五十嵐を制するように身構えた。
「いや、まだ言えません」
「まだ? やっぱり何か隠しているんですね?」
五十嵐の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように鋭く細められた。
「もういい!」
お人好しな先輩がそこまで問い詰められるのを見かねて、鈴木はすぐさま相模の手を引っ張って言った。
「先輩、行きましょう」
「チッ……」
取材対象を鈴木に連れ去られ、五十嵐は親指の爪を噛みながら、不機嫌極まりない表情を浮かべた。
「あれ? あの相模隊長が、小春ちゃんのタイプだっけ?」
疲れた……




