3話.違和感
試合が終わったあと、何を話したのかほとんど覚えていなかった。
チームメイトと挨拶を交わし、道具を片付けて、いつものようにグラウンドを後にしたはずなのに、その時間だけが妙に曖昧だった。
頭の中では別の景色が何度も繰り返されている。
小学校のグラウンド。
真夏の空。
センターの守備位置から見た景色。
若かった父親。
今よりずっと元気だった母親。
そして、もう二十年近く会っていないチームメイトたち。
車に乗り込み、エンジンをかける。
ナビの画面が光る。
だが私はしばらく発進できなかった。
ハンドルを握ったまま、ただフロントガラスの向こうを見つめる。
河川敷から出ていく車。
荷物を積み込む親子。
自転車で走る中学生。
全部現実の景色だ。
それなのに、自分だけが現実から少しずれた場所にいるような気がした。
本当に夢だったのだろうか。
そう考える。
だがすぐに否定する。
夢だったなら、あんなにはっきり覚えているはずがない。
グラウンドの土の匂いも覚えている。
ダイビングキャッチした時に肘へ伝わった衝撃も覚えている。
打球がバットの芯を食った瞬間の感触も覚えている。
夢にしては鮮明すぎた。
私はゆっくり車を走らせた。
帰り道の景色はいつもと変わらない。
コンビニ。
ドラッグストア。
中古車販売店。
信号待ちの列。
休日の午後によくある風景だった。
それなのに、世界が少し違って見える。
信号待ちで止まった時だった。
近くの公園で少年野球の練習をしている子供たちが目に入った。
声を張り上げながらボールを追いかけている。
楽しそうだった。
昔の自分もあんな顔をしていただろうか。
そう思った瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
野球は好きだった。
それは間違いない。
だが本気だったかと言われると、自信がなかった。
中学では三年間続けた。
それなりに練習もした。いや、練習の為の練習か。上手くなる為の練習はしなかった。
高校で野球を続けようとは思わなかった。いや考えもしなかったと思う。
勉強は嫌いだった。だから就職した。
高卒で地元企業に入り、そのまま今に至る。
後悔しているわけじゃない。大学へ進学したやつよりも先に社会を経験できるし、金も稼げる。
そう思っていた。
少なくとも昨日までは。
アパートへ帰る。
鍵を開ける。
誰もいない部屋が迎えてくれる。
いつも通りだ。
だが今日は妙に静かだった。
小学校の頃は違った。
試合から帰れば母親がいた。
夕飯の匂いがした。
父親はテレビを見ながら結果を聞いてくれた。
当たり前だった。
当たり前すぎて、その価値なんて考えたこともなかった。
シャワーを浴びながら目を閉じる。
すると、また小学校の景色が浮かぶ。
歓声。
ベンチ。
チームメイト。
そして父親の顔。
若かった。驚くほど若かった。
髪も黒かった。……毛量もあった。
背筋も伸びていた。
それだけで胸が苦しくなる。別に亡くなっている訳じゃない。ただ本当になんとなくだが胸が苦しかった。
シャワーを止め、私は身体を拭いた。
考えても仕方ない。
そう自分に言い聞かせる。
だが考えずにはいられなかった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
ソファへ腰を下ろす。
テレビをつける。
芸人が騒いでいる。
何も頭に入ってこない。
五分ほどで消した。
静かな部屋にエアコンの音だけが響く。
気付けばスマートフォンを手に取っていた。
中学時代のチームメイトの名前を検索する。
懐かしい顔が並ぶ。
結婚した奴、子供がいる奴、県外へ出た奴。
みんな大人になっていた。
当たり前のことなのに不思議だった。
数時間前まで、小学生として同じグラウンドに立っていた気がするのだから。
その日の夜はほとんど眠れなかった。
布団に入っても目が冴える。
時計を見る。
午前一時。
二時。
三時。
何度も寝返りを打つ。
頭の中では同じ疑問が回り続けていた。
なぜ戻ったのか。
なぜ小学校四年生だったのか。
そして。
なぜフォアボールだったのか。
あの場面を思い出す。
フルカウント。
外れた一球。
見送ったボール。
一塁ベース。
そして小学校。
偶然だろうか。
そう考えながらも、自分でも信じていないことが分かっていた。
翌日。
寝不足のまま会社へ向かった。
パソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
電話を取る。
見積書を作る。
いつもと同じ仕事だった。
だが頭の中は全く違う。
昼休みになっても食欲が湧かなかった。
コンビニで買った弁当を前に、ぼんやりスマホを眺める。
そして何となく実家へ電話を掛けた。
特に用事はない。
ただ声が聞きたかった。
そんな気分だった。
「もしもし?」
母親だった。
昨日聞いたばかりの声。
もちろん昨日とは違う。
二十年分の時間が流れた声だ。
「珍しいね。どうしたの?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくで電話してくる歳でもないでしょ」
母親が笑う。
私も少し笑った。
仕事の話をした。
体調の話をした。
実家の近況も聞いた。
他愛もない会話だった。
そして話題は自然と昨日の草野球へ移った。
「そういえば昨日野球だったんだよ」
「あんたまだやってるんだね」
「草野球だけどね」
「昔から好きだったもんね」
私は苦笑した。
好きだった。はたして当時は本当に好きだっただろうか。自信はない。
だが別に嫌いだったわけじゃない。
少なくとも自分ではそう思っている。
「好きだったけどさ、そんな上手くもなかっただろ」
すると母親が少し不思議そうな声を出した。
「何言ってるの?」
「え?」
「あんた結構上手かったじゃない」
私は黙った。
そんなことを言われた記憶がない。
「いや、普通だったろ」
「普通じゃないよ」
母親は当然のように続ける。
「小学校の時なんて選抜チームにも入ったじゃない」
心臓が止まりそうになった。
「……は?」
「何その反応」
「いや、入ってないだろ…」
「入ったよ」
「入ってない」
「入ったって」
母親は笑っている。
冗談ではない。本気でそう言っている。
私は言葉を失った。
選抜チーム。そんな記憶はない。
小学校の頃の自分は上手くなかった。
なんならパワーだけの下手くそな選手だった。
だから選ばれるはずがない。
だが昨日の試合を思い出す。
中学三年分の経験を持ったまま小四へ戻った自分。
守備で無双した。
打撃でも打ちまくった。
もしあの活躍が現実だったなら。その後も同じようにプレーしたなら。選抜に選ばれていても不思議ではない。
むしろ当然だった。
電話を切ったあともしばらく動けなかった。
スマホを机へ置く。
背中にじっとり汗が滲んでいた。
どうやら自分は過去を見ただけではないらしい。
過去を変えている。
そしてその結果、現在も変わっている。
その事実を理解した瞬間、恐怖と興奮が同時に込み上げてきた。
もし本当にそうなら。
人生をやり直せる。
いや。
人生そのものを書き換えられる。
窓の外を見る。
昼休みは終わろうとしていた。
だが私の頭の中は仕事どころではなかった。
来週の日曜日。
また試合がある。
また戻るだろうか。
その答えを知りたくてたまらなかった。




