2話.タイムリープ
これは夢だ。
最初にそう思った。
いや、そう思いたかった。
鏡の前に立つ。
映っているのは小学校四年生の自分だった。
短い髪。
日に焼けた肌。
少し丸い顔。
見慣れているはずなのに信じられない。
鏡へ手を伸ばす。当然だが鏡の中の自分も同じように手を伸ばしてくる。
頬をつねる。
…痛い。
かなり痛い。
夢ではなかった。
「いつまでボーっとしてるの!」
階下から母親の声が聞こえる。
その瞬間、全身に鳥肌が立った。この声を最後に聞いたのはいつだっただろう。
実家を出て何年も経つ。毎年帰省はしている。だが毎日聞いていた頃の母親の声とは違う。
今聞こえているのは間違いなく昔の声だった。
若い。
元気だ。
そして懐かしい。
私はゆっくり部屋を見回した。
勉強机。野球雑誌。ゲーム機。漫画。
全部覚えている。
「試合遅れるよ!」
「……あ、はい!」
思わず敬語になった。自分で言っておいて変な気分になる。
慌てて着替える。
ユニフォームが小さい。
当たり前だ。身体が小学生なのだから。
だが感覚が狂う。
三十歳手前だった身体が急に小さくなったような違和感がある。
玄関へ向かう。
リビングで父親が新聞を読んでいた。
思わず足が止まる。
若い。父親が若い。
髪も黒い。背筋も真っ直ぐだ。
胸が少し苦しくなった。
「どうした?」
「いや……なんでもない」
「試合頑張れよ」
「うん」
声が少し震えた。父親は気付かなかった。
当然だ。目の前にいる息子が二十年近い未来から来た人間だなんて思うはずもない。
自転車へ飛び乗る。
ペダルを漕ぐ。
景色が流れる。
懐かしい。本当に懐かしい。
この道も。この空も。この匂いも。
全部知っている。
なのに二度と見られないと思っていた。
グラウンドへ到着する。
チームメイト達がいた。
全員小学生だ。
だが名前も顔も分かる。全員覚えている。
かつて一緒に野球をやった仲間達だ。
「おせーぞ!」
「すまん」
「なんか今日変だな」
「そうか?」
「なんかおっさんみたい」
「……」
図星だった。
私は苦笑した。
試合が始まる。
守備位置はセンター。
昔と同じだった。
ただ一つ違う。
今の私は中学三年間の経験と知識を持っている。
身体は小学生。だが頭は違う。
「これが見た目は子供ってやつか…」
見えている景色が全く違った。
一回表。
打球が上がる。
センター前方。
昔の自分なら判断に迷っていた。だが今は違う。
落下地点が分かる。
経験で分かる。私は一直線に走った。
グラブを出す。
捕球。
アウト。
「うおっ!」
「ナイスキャッチ!」
歓声が上がる。
私は驚いた。
こんなに簡単だったか?
中学では普通だったプレー。
だが小学生の中では違った。それも小学生四年生。
身体能力の差だけではない。経験の差が圧倒的だった。
二回。
再び打球が飛ぶ。今度は右中間。抜ければ長打。
私は走る。風を切る。ボールの軌道が読める。
落下地点へ滑り込む。
ダイビングキャッチ……ギリギリか。
グラブの中に白球が収まる。
一瞬静かになる。
そして。
「うおおおお!」
味方ベンチが爆発した。
相手ベンチまでざわついている。
私は立ち上がった。
少しだけ笑う。久しぶりだった。
守備が楽しい。
ただ、今の打球は中学生だったら走って滑り込まなくても捕れた打球だ。頭ではどう動けばいいかわかる。身体がおいついてこないのだ。
三回裏。
打席が回る。
相手投手を見る。
小学生としては速い。
だが、遅い。70か80くらいか?
中学野球を経験した今の感覚ではそう見えてしまう。
初球。
フルスイング。
快音。
とはいかず盛大な空振り。
遅い…、ボールがストライクゾーンへ来る前にバットを振ってしまった。
草野球でも100くらい出てたからな。
頭切り替えないと。
さて、軟式少年野球のいいところは変化球がないことだ。
球速は遅め。
ギリギリまで待つ。
二球目。
同じスピード。さっきより内。
引っ張れ。
カキン。
打球はレフト線へ飛んだ。
誰も追いつけない。
二塁打。余裕だった。ただ当たりは三塁打のはずだがどうも身体が動かない。いや動かないというより動かせないが近いのだろう。
ベンチが騒ぐ。
「すげー!ナイバッチ!!」
「今のなんだよ!」
実際、私自身が一番驚いていた。
見える。打てる。
中学では普通だったことが小学生相手では通用し過ぎる。
次の打席。
ランナー一塁。
私は相手守備位置を見る。
センターが少し前だ。
なら後ろだ。
当然フルスイングである。
打球はセンター頭上。
フェンスまで転がる。
センターの前進守備に助けられた三塁打。
歓声。拍手。
味方がホームへ帰る。
私は三塁上で立っていた。
心臓が高鳴る。
楽しい。
野球が楽しい。
そう思った。
社会人になってから久しく忘れていた感覚だった。
そして五回。試合は大差になっていた。
私は既に三打数三安打。猛打賞である。
守備でも好プレー連発。
完全に無双していた。
だが不思議だった。嬉しい。楽しい。
それは間違いない。
なのに頭の片隅には常に別の感情がある。
これは本当に現実なのか。
なぜ戻ったのか。どうして自分なのか。
何も分からない。
そして六回。
再び打席が回る。
四球だった。
ストライクが入らない。
私は一塁へ向かう。
何気なく。本当に何気なく。
ベースを踏んだ。
その瞬間。
世界が揺れた。
私は思わず顔を上げた。
「っ……またか」
耳鳴りが始まる。
視界が歪む。
さっきと同じだった。
今度は分かった。
何かが起きる。
そして次の瞬間。
私は再び現代の河川敷に立っていた。
目の前では試合が続いている。
「おい!? チェンジだぞ!?」
チームメイトが駆け寄ってくる。
私は答えられなかった。
さっきまで確かに小学生だった。
試合をしていた。ヒットを打った。守備をした。
父親と話した。母親の声を聞いた。
全部本物だった。
夢じゃない。
夢のはずがない。
私は震える手を見つめた。
そして呟く。
「なんだよ……これ……」
まだこの時の私は知らなかった。
これが人生を何度もやり直す物語の始まりだということを。




