1話.はじまり
はじめて書かせていただきました
三十歳が近づくにつれて、自分の人生は案外こんなものだったのだと思うようになった。
それは諦めではない。かといって納得とも違う。
もっと曖昧な何かだ。
子供の頃に思い描いていた未来と、実際に辿り着いた場所の差を理解して、それでも毎日を続けていくための感覚。
そんなものだった。
午後八時四十分。
事務所の時計を見上げてから私は小さく息を吐いた。
パソコンの画面には出荷予定表が表示されている。
明日の便。月曜日の便。得意先から届いたメール。確認しなければならない数字。間違えてはいけない数字。毎日似たような作業だ。
入社した頃はもっと忙しく感じていた気がする。
今では指が勝手に動く。考えるより先に処理できる。成長したのか。慣れただけなのか。自分でもよく分からなかった。
隣の席を見る。
誰もいない。
営業も物流も帰っていた。
事務所には私一人だった。別に残業を命じられているわけではない。帰ろうと思えば帰れる。
独身。
一人暮らし。
恋人もいない。
趣味らしい趣味もない。
昔なら野球だった。
今は違う。そう思っていた。
パソコンを閉じる。
電源が落ちる。
静かになった事務所に空調の音だけが残った。
会社を出る。夜風が少し冷たい。昼間は暑かったはずなのに、夜になるとまだ春の名残がある。
駅前へ向かう途中でコンビニへ入った。
いつものように弁当売り場へ向かう。
生姜焼き弁当と缶ビール。最近は大体この組み合わせだった。
健康には悪い。分かっている。
それでも仕事終わりに食べるには丁度いい。
レジへ向かって会計を済ませる。
店員の「ありがとうございました」が背中越しに聞こえた。
店を出てすぐには帰らなかった。
喫煙所へ向かう。
ポケットから煙草を取り出した。箱は少し潰れている。
残り三本。
ライターを鳴らす。
火が灯る。吸い込む。
肺が重くなる。
吐き出した煙が街灯の光の中で白く揺れた。
高校一年の時だった。初めて吸ったのは。
格好いいと思ったわけではないし不良になりたかったわけでもない。
ただ何となくだった。
野球を辞めた。たったそれだけだった。
中学までしか野球をやらなかった。
朝起きる。学校へ行く。部活をする。帰る。寝る。
次の日も同じ。
その繰り返しだった。
引退した瞬間。
放課後が空っぽになった。
高校へ入学した。
野球部の練習をフェンス越しに何度か見た。
入部届は貰った。
だが提出しなかった。
理由は今でも説明できない。
面倒だったのか。自信がなかったのか。もう満足していたのか。
たぶん全部だ。
そして気付けば野球をやらなくなった。
溜息のように煙を吐く。
その時だった。
カキン。
金属音が聞こえた。
思わず顔を上げる。
河川敷の方角だった。
野球だ。
たったそれだけで昔の記憶が蘇る。
白いユニフォーム。
砂だらけのスパイク。
汗で重くなった帽子。
センターへ飛ぶ打球。
フェンス際まで追いかけた夏。
私は苦笑した。
「まだ覚えてるのか」
忘れたと思っていた。
野球なんてもう終わった話だと。
だが違ったらしい。
帰宅しても、その音だけが妙に頭に残った。
翌朝。
目覚ましが鳴る前に目が覚める。
午前五時五十二分。
仕事の日なら二度寝している時間だった。
なのに今日は眠気がなかった。
草野球の日だった。
午前五時五十二分。
枕元のスマートフォンを見る。
アラームが鳴るまでまだ八分あった。普段なら絶対に起きない時間だった。
仕事の日など、二度寝どころか三度寝したいくらいなのに。
それでも今日は目が冴えていた。草野球の日だ。
天井を見上げ、少しだけ笑ってしまう
我ながら単純だと。
顔を洗う。
歯を磨き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。
テレビはつけない。
静かな朝だった。
玄関の隅にはグローブが置いてある。
数年前までそこには何もなかった。
野球道具なんて持っていなかった。
引っ越しを何度しても捨てられなかったグローブだけが実家に残っていた。
去年の同窓会。
久しぶりに会った中学の同級生が言った。
「草野球やってるんだけど来ない?」
最初は断った。体力もない。太った。もう無理だ、と。
理由はいくらでも出てきた。
結局押し切られた。
そして一度参加した。
思ったより楽しかった。
それが悔しかった。
もう興味なんてないと思っていたからだ。野球は終わったものだと思っていた。
なのにグローブをはめた瞬間。
少しだけ嬉しかった。
自分でも認めたくないくらいに。嬉しかった。
車を走らせる。
朝日が低い。
道路は空いていた。
河川敷へ近付くにつれて、少しずつ人影が増える。
ランニングする人。犬の散歩をする人。サッカー少年。
そして野球少年。
昔と変わらない景色だった。
グラウンドへ到着する。
「おーす!」
中学の元チームメイトが声を掛けてくる。
「うす」
「今日四番な」
「やめろよ」
「いやいや期待してますって」
笑い声が起こる。
四番。
小学校以来かもしれない。中学は万年補欠だったし代打でたまに出るくらい。
もっとも草野球の四番に大した意味はない。
ただ打順が回ってくるだけだ。
それでも少しだけ嬉しかった。
試合開始。
私はセンターの守備位置へ向かう。
芝生は朝露で少し湿っていた。
空は高い。風が気持ちいい。
こういう感覚も久しぶりだった。
仕事をしていると季節を感じる機会が少ない。
エアコンの効いた事務所。
蛍光灯。
パソコン。
それが毎日だ。
今は違う。
太陽がある。風がある。土の匂いがある。
それだけで少し気分が良かった。
一回表。
打球が上がる。センター方向。
私は走った。
身体は思ったより動いた。
グローブを伸ばす。
捕球。
アウト。
「ナイス!」
ベンチから声が飛ぶ。私は軽く手を上げた。何でもないフライだった。
それでも少し嬉しい。
野球は不思議だ。
仕事で褒められても大して嬉しくないのに。
フライを一つ捕っただけで少し気分が良くなる。
昔からそうだった。
一回裏。
先頭打者が出塁する。
二番も出る。
一死一、二塁。
打席が回ってきた。
私はバットを握る。懐かしい感触だった。
打席へ入る。
相手投手を見る。実に草野球らしい投手だった。球は速くはない。だがコントロールは悪くない。
初球。
ストライク。見送る。
二球目。
真ん中付近。
私は振った。
カキン。
乾いた音が響く。
打球は三遊間へ飛んだ。
ショートが飛び付く。
届かない。
白球はレフト前へと転がった。
ヒット。
私は一塁へ走る。二塁を狙うようにオーバーランをしてベースを踏む。
「ナイスバッティング!」
声が飛ぶ。
私は少しだけ笑った。久しぶりだった。
ヒットを打って嬉しいと思ったのは。
昔もそうだった。ヒット一本で一日機嫌が良くなる。
単純だった。
今も変わらないらしい。
四回。
第二打席。
先ほどのヒットが頭に残っていた。
もう一本打ちたい。
欲が出る。
昔から悪い癖だった。
小中学時代にも言われた。
「お前は一本打つと力む」
その通りだった。
初球。
高め。
振る。
空振り。
少し力が入り過ぎている。分かっている。
だが修正できない。
二球目。
外角。
見送る。
ストライク。
追い込まれる。
そして三球目。
低めの変化球。
私は反応してしまった。バットが空を切る。
「ストライク! バッターアウト!」
三振。
私は苦笑した。
昔から変わらない。
欲が出る。
力む。
三振する。
中学の頃も同じだった。
何一つ変わっていない。
そう思いながらベンチへ戻った。
だが、どこか懐かしかった。
ヒットも。三振も。全部。
懐かしかった。
六回裏。
試合は一点差だった。
正直、何対何だったかは覚えていない。
草野球なんてそんなものだ。
プロの試合みたいに記録が残るわけでもない。新聞に載るわけでもない。誰かの人生を変えるわけでもない。ただ日曜日の朝に集まったおっさん達が野球をしているだけだ。
それなのに。
打席へ向かう足は少しだけ重かった。
打ちたい。
そう思っていた。
第一打席はヒットだった。第二打席は三振だった。
なら次は打ちたい。
そう思うのは自然なことだろう。
私はネクストバッターズサークルで素振りをした。
乾いた風が吹く。
河川敷の匂いがした。
昔と何も変わらない。
変わったのは自分だけだ。
気付けば三十歳手前。
腹も少し出てきた。
白髪も一本見つかった。
中学生の頃は想像もしなかった。
大人なんてもっと立派なものだと思っていた。
もっと自信に満ちていて。もっと何でもできて。もっと未来があると思っていた。
実際は違う。
大人になっても迷う。大人になっても失敗する。大人になっても後悔する。
ただ、それを口にしなくなるだけだ。
「打てよー!」
ベンチから声が飛ぶ。
「頼むぞー!」
私は軽く手を挙げた。
頼まれても困る。
そんな実力はない。
だが悪い気はしなかった。
打席へ入る。
一塁が空いている。
二死二塁。
長打が出れば一点。
そんな場面だった。
投手が構える。
私も構える。
初球。
外角。
ボール。
見送る。
二球目。
低め。
ストライク。
ワンボールワンストライク。
私はバットを握り直した。
⸻打ちたい。
その気持ちは変わらない。
⸻だが三振もしたくない。
情けない話だ。
昔からそうだった。
⸻ホームランを打ちたい。
⸻でも三振は怖い。
⸻ヒーローになりたい。
でも失敗はしたくない。
都合の良い話だった。
三球目。
外。
ボール。
ツーボールワンストライク。
四球目。
ド真ん中
ストライク。
⸻手が出なかった
ツーボールツーストライク。
有利なカウントだった。
次は振る。
ストライクが来る。
そう思った。
だが来なかった。
五球目。
外角。
際どい。
審判はボールを宣告した。
これでフルカウント。
私は息を吐く。周囲の音が少し遠くなる。
あと一球。
打つか。
出塁か。
それだけだった。
投手がセットに入る。
そして投げた。
ボールは外へ逃げた。
明らかなボール球だった。
打ち気な身体が反応しかける。
届く。
振れば当たる。
だが止めた。
見送った。
キャッチャーミットに収まる。
一瞬の静寂。
「ボール!」
審判の声が響く。
「フォアボール!」
ベンチが沸いた。
「ナイス!」
「よく見た!」
「仕事した!」
私は苦笑した。
違う。本当は打ちたかった。
打って決めたかった。
でも振らなかった。
結果は出塁だ。
間違ってはいない。
チームのためにもなった。
それでも。
どこか負けた気がした。
昔からそうだった。安全な方を選ぶ。失敗しない方を選ぶ。
気付けば野球も辞めていた。
あの日も。
野球部へ入るか迷った。
入部届も持っていた。
でも出さなかった。
理由なんて今でも分からない。
ただ。楽な方へ流れた。そんな気がしている。
私は一塁へ向かった。
白いベースが近付く。
あと数歩。
土を踏む。スパイクが鳴る。風が吹く。
何気ない光景だった。
本当に。
何気ないはずだった。
ベースを踏む。その瞬間だった。
世界が揺れた。
地面が消えたような感覚。
身体が沈む。
耳鳴りが響く。
視界が白く染まる。
「……なんだ……?」
立っていられない。
膝が崩れる。
誰かが何か叫んでいる。
聞こえない。
景色が遠ざかる。
河川敷。
ベンチ。
チームメイト。
全部が溶けていく。
そして。
気付けば、蝉の声が聞こえていた。
眩しい…やけに眩しい。
目を開く。
青空だった。雲一つない。夏の空。
ゆっくりと身体を起こす。
知らない天井ではない。
知っている天井だった。
何度も見た。
子供の頃。
毎日見ていた。
木目の入った天井板。
少し黄ばんだ照明。
壁に貼られた野球選手のポスター。
そして。勉強机の上に置かれたランドセル。
私は動きを止めた。
「……は?」
鏡が目に入る。
立ち上がる。
近付く。
映っていたのは。
三十歳手前の男ではなかった。
小学生だった。
小学校四年生の。
あの日の自分だった。
私は言葉を失った。
窓の外から母親の声が聞こえる。
「いつまで寝てるの! 試合でしょ!」
その声を聞いた瞬間。背筋に冷たいものが走った。これは夢じゃない。そんな予感だけがあった。




